2006年04月29日

ポストモダン再考

小説、絵画、建築、思想・・・ポストモダンという言葉は幅広いジャンルで使われていますが、改めてなんだろうと考えてみることがあります。
また、ポストモダンというからにはモダンもあるわけでして、モダン=近代とはなんだろうと、またまた頭を悩ませるのです。



非常に乱暴に本書を要約しますと、モダン=近代とは、大きな物語が信じられていた時代のことです。近代には、民主政治だとか経済成長だとか科学技術の進歩だとか、人類共通の大きな目標がありました。それらが失われた時代がポストモダンです。
ポストモダンを考える素材として、東浩紀の『 動物化するポストモダン』を採り上げています。ポストモダンを、大きな物語の時代に対してデータベースの時代と呼んで、大きな話題になりました。現代は大きな物語が消滅し、あらゆるモノゴトが等価なデータベースになってしまった・・・なるほど、判らないことはないです。
東はまた、データベース=萌え要素と読み解き、オタク的メンタリティーを肯定する論者でもあります。
稲葉振一郎は、東の問題提起を重要なものとしながらも、ポストモダンの時代を生きる処方箋としてはどうかと。むしろ大塚英志のように近代の可能性を考え直そうという立場であると、巻末で表明しています。ただし、これまでのような万人共通の夢の近代ではなく、少しクールダウンした近代だそうです。この続きは「次の巻で」・・・だとか。

本書では全く触れられていませんが、私はモダン=近代を象徴する人物は、ヘンリー・フォードであると思います。20世紀文明を代表するモノである自動車を普及させたことはもちろんですが、流れ作業による大量生産を実現しました(大量消費・大量廃棄のはじまりでもある)。それによって人は、材料から完成品までを手掛ける職人から、分業による単純作業を繰り返す、取り替え可能な労働者となったのです。
近代の権力は、工場労働に代表される規律訓練型ですが、ポストモダンな権力は環境管理型(稲葉はテーマパーク型と呼ぶ)であるといいます。マクドナルドの椅子は座面が堅く、長時間座るのに適さないため、客の回転が速いのだとか。誰かが指示したわけでないのに、経営者の意図に自然と従ってしまうのです。
私たちは知らないうちに、見えざる力に操られているのかも(?)しれません。

(4月24日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
マルクスさんではありません


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 23:53| Comment(25) | TrackBack(1) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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