2006年12月29日

古代史最大のトリック?

6世紀の日本。大和朝廷は、百済から渡来した仏教を受け入れるかどうかで、国論が二分しました。崇仏派の蘇我氏と対立し、敗れて衰退したのが物部氏です。
物部氏はヤマト朝廷の祭祀を司り、さらに軍事部門も担った一大豪族でした。

物部氏の正体



関 裕二著



古代史好きの方なら、物部氏が天皇家よりも先にヤマトを支配していたとされることをご存知でしょう。
天の神の子孫・神武天皇は、九州の日向からヤマトを目指しますが、ヤマトは同じく天孫の饒速日命ニギハヤヒ)が既に支配していました。物部氏の祖先はニギハヤヒなのです。
神武の東征は、ニギハヤヒに仕えるヤマト土着の豪族・長髄彦ナガスネヒコ)の抵抗に遭い、大苦戦します。しかしニギハヤヒは、長髄彦を見捨てて殺してしまい、劣勢だった神武に恭順してしまうのです。神話とはいえ、なんとも不可解なストーリーではありませんか。

神武天皇は神話上の存在で、実質的な初代天皇は第10代崇神天皇だとする説は一般的ですが、関氏は神武・崇神・応神(第15代天皇)の三天皇が同一人物であると主張しています。ヤマト建国というひとつの歴史的事象を、日本書紀は三天皇に分けて記述しているとの説です。
太古の日本列島の先進地域は、大陸との交易に有利な北部九州でした。北部九州は農具としても武器としても優秀な鉄を独占します。しかし次第に独占は崩れ、鉄はヤマトへもたらされます。
ヤマトは出雲や吉備と連合して勢力を拡大し、九州にあった卑弥呼の邪馬台国を倒しました。卑弥呼に代わって女王となった台与を、関は神功皇后だとします。
北部九州を制圧した神功皇后を、ヤマトの物部は危険視して裏切りました。神功皇后は南部九州の日向に一旦退却し、その子である応神天皇がヤマト帰還を目指します。報復(祟り?)を恐れた物部はヤマトを明け渡しました。関氏は応神のヤマト入りを、神武東征神話のモデルであるとしています。
日本書紀の語る(騙る?)歴史は複雑怪奇ですが、それを解こうとする関氏の推理もまた複雑ですね…

関氏が明かす物部氏の出自は、吉備地方です。
吉備といえば全国第4位の巨大古墳(造山古墳)があり、桃太郎のモデルとなった吉備津彦の名が知られていますが、具体的な支配氏族は明らかではありません。
瀬戸内海の要衝・吉備を支配下に置くことで、物部氏は大陸とヤマトとの交易ルートを押さえることができます。
関氏の推理の当否はともかく、鉄器の伝播に地政学的条件を絡めて日本建国のプロセスを明かそうとする姿勢は、評価すべきだと思います。

(12月28日読了)


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 03:07| Comment(6) | TrackBack(1) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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