2007年09月30日

休日はソウジしよう。

ときどきNHKラジオの『高校講座』を聴いています。
「現代社会」「倫理」「現代文」…などいろんな番組がありますが、「古典」を聴いていて改めて面白いなあと思ったのは荘子です。
荘子…人名の場合はソウシ、作品名の場合はソウジと読みます。本名は荘周といったそうですが、実在の人物ではないとの説もあるようです。
番組で紹介されたのは、有名な『胡蝶の夢』。
荘周は夢のなかで胡蝶(チョウ)となった。愉快だった。自分が荘周だという自覚がなかった。目覚めてみると、まぎれもなく荘周であった。果たして荘周が夢のなかで胡蝶になっていたのか。それとも胡蝶が荘周の夢をみているのか。
みなさんは、こんな思いを抱いたことはありませんか?
「この世界は自分の脳が見ている幻覚ではないだろうか。自分が死んだら同時に世界も消滅するのではないか」あるいは「世界は今からたった5分前に創造された。それ以前の記憶やら遺物とともに…」
これらは『胡蝶の夢』のエピソードのように、証明のしようがありません。そんな合わせ鏡の迷宮のような世界に、荘子はいざなってくれます。

もうひとつ印象に残ったのが『渾沌』のお話。
南の海の皇帝と北の海の皇帝は、中央の皇帝・渾沌に会いに行った。渾沌は二人を歓待した。南の海の皇帝と北の海の皇帝は混沌の恩に報いようと、なにも無い渾沌の顔に目・鼻・口・耳の七つの穴を開けてあげることにした。毎日ひとつずつ穴を開けていったが、七日目に渾沌は死んでしまった。
人為の愚かしさを解いた説話として有名ですが、私には「知る」ということの恐ろしさを示しているようにも読めます(「知らぬが仏」なんて言いますよね)。

休日は世間の喧騒を忘れ、荘子の超俗の境地と戯れたい!
心のお掃除をしてくれそうな、魅力的なタイトルを見つけたのですが…



日曜日に読む『荘子』

『荘子』に書かれた数々のエピソードを紹介し、その発想の面白さを味わう一冊だと思ったのですが…なんだか違う。
酒好きの山田史生先生が、『荘子』を肴に言葉とか世界とか因果関係とかの論理を語る、えらく理屈っぽい本なのでした。
無為自然の境地とは、まるで逆。口直しに今日はもう一冊読もう…

でも『渾沌』をめぐる最終章は、「絶対的な無分別の象徴である渾沌は、南と北の皇帝の恩返しを拒めなかった。渾沌の死はいわば自業自得か?」との解釈が面白かったことを付け加えておきます。

(9月30日読了)


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2007年09月23日

古代史の謎・継体天皇U

それは王朝交代だったのか?
巨大な埴輪群に彩られた古墳の主は彼なのか?
9月23日、継体天皇即位1500年を記念した「越の国シンポジウム2007」に参加いたしました。

【会場】
ハートピア春江(福井県坂井市春江町)
【コーディネーター】
狩野久(奈良文化財研究所名誉研究員)
【パネラー】
山尾幸久(立命館大学名誉教授)
森田克行(大阪府高槻市教育委員会)
中司照世(元福井県埋蔵文化財調査センター所長)
冨永亮一郎(郷土史家)
【特別講演】
伊藤俊也(映画監督、福井市出身)

冨永亮一郎氏;
地元(坂井市)代表。すべてが史実に基づいているわけではないとしながら、越前開闢の祖・継体大王の治水伝承を紹介。
森田克行氏;
天皇陵を掘った男。真の継体陵とされる今城塚古墳の発掘を主導。調査の結果、古墳の盛り土は桃山時代の伏見大地震で崩落したことが判明。あの壮大な埴輪の配列は、殯の儀式を再現したものであるとする。
中司照世氏;
北は山形から南は宮崎まで全国各地の古墳を踏破。考古学者であるが、記紀の伝承との整合性も踏まえながら古墳の被葬者を推理している。大王陵クラス古墳は、大きさよりも三段築造と葺き石があることが条件だという。
山尾幸久氏;
継体朝の成立には百済の支持もあった。古事記を引用し、継体大王は近江(滋賀県)から擁立されたと主張。それなのに福井県のイベントにたびたび招かれるのが目下最大の謎なんだとか(笑)

討議では、狩野氏が「真の継体陵は今城塚古墳。それならば宮内庁が指定する継体陵(太田茶臼山古墳)の被葬者は誰なのか?」と、一番期待していたツッコミをしてくださいました。質問を向けられた森田氏は「被葬者は継体の曽祖父・意富富等(オオホド)王と思われる」と回答。
ヤマト朝廷統一以前に「地域王国の時代」はあったのかとの問いには、中司氏のみが明確に否定。各地の首長墳は、ヤマトの様式に則っているとのこと。

特別講演の伊藤監督は「継体はやはり越前出身」「(継体の曽祖父)オオホド王は天皇でもないのに、あんな巨大な古墳に葬られるはずがない」と、学者先生に負けじと熱弁を奮いました。

今回のシンポジウムは、6月に亡くなられた門脇禎二氏をお迎えするはずでした。ご冥福をお祈りします。

【不純文學交遊録・過去記事】
古代史の謎・継体天皇
天皇陵、発掘。
ノブレス・オブリージュ
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2007年09月22日

新型プリウス・スクープ写真【2007年9月】

【次期プリウス】最新スクープはこちら

海外サイトに、フロントを擬装した現行プリウス(NHW20)のスクープ写真が掲載されました(9月13日)。

First Photos Of The New Toyota Prius!(Jalopnik.com)

フルモデルチェンジを前に、現行型がフェイスリフト(フロントの意匠変更)されるとのこと。
6月15日、日刊工業新聞がプリウスのモデルチェンジ延期(2008年10月→2009年春)を報じましたが、それまで商品力を維持するためのお化粧直しなのでしょうか。

この写真、よく見ますとヘッドライトがプロジェクター式になっています。ヘッドライト全体の形状も、現行型のような縦長ではありません(オーリスみたい?)。
さらによく見ると、なんとなくフロントフェンダーがワイド化されているような気がします。
そうなるとこれはマイナーチェンジ版ではなく、現行プリウスのボディに次期(3代目)プリウスのメカを搭載したテスト車両なのかも…
(次期プリウスのボディサイズは現行型とほぼ同じであるが、全幅はやや拡大すると予想されています)

撮影場所はデスバレー。アメリカ・カリフォルニア州にある高温乾燥地帯です。世界中の自動車メーカーが新型車の耐久テストをする場所として知られています。
フロント周りの少変更だけなら、なにもデスバレーまでテストしに来る必要はないでしょう。比較テストのためでしょうか、擬装なしの赤い現行プリウスとシビック・ハイブリッドが同行しているのも気になります。
2009年春デビューならば、実走テストが始まっていても不思議ではありません。
謎のプリウスの正体は?…情報求む!

【不純文學交遊録・過去記事】
新型プリウス、発売延期。
続きを読む
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2007年09月17日

差別もある明るい社会

「中国人と名古屋人は似ている」と明治・大正期のキリスト教思想家、内村鑑三は指摘しました。
経済成長著しい中華人民共和国と、日本経済を牽引するトヨタ自動車のお膝元・名古屋。双方に何か共通項があるのかも…と思いたくなるのですが、よくよく考えてみれば中華人民共和国は当時まだ存在していません(あったのは)。内村鑑三は、日本の中国地方(山口)の人と名古屋人の気質について述べていたのです。
現在の中華人民共和国のことを、当時の人は支那と呼んでいたはずです。そのことを知らないと、とんでもない勘違いを犯すことになります。

いわゆる差別語狩りにより、支那は中華人民共和国に対する蔑称であるとして、ほとんど用いられなくなりました。
では世界共通語であるChinaを、日本人だけが使用できないのは差別ではないのでしょうか。「中華」なる語も、自国民以外を全て蛮族とみなす差別思想ではないでしょうか。



健全なる精神

こうした言葉をめぐる誤解をはじめとする、社会の歪み・病んだ良識に、健全なる精神で立ち向かっているのが呉智英氏です。
差別は正しい、差別と闘うのと同じくらい正しい。人類が目指すべきは「差別ある明るい社会」である。差別さえない暗黒社会にしてはならない、と。
人類が最初に発した言葉はなんなのか知る由もありあませんが、私は言葉の誕生そのものが差別の起源であると考えています。原始時代の人類が何かに命名したとき、それは他のもろもろの事象と「あるもの」とを差別したに他ならないからです。
身長、体重、顔かたち、生まれ、育ち、好き嫌い…人はそれぞれみな違います。時には差別と感じることがあっても、言論統制のない明るい社会に棲みたいですね。

呉氏の批評対象は言葉だけではないのですが、やはり面白いのは言葉をめぐる議論です。
たとえば「すべからく」という語は「是非とも、当然すべき」という意味なのですが、これを「全て」の高級な表現として誤用するケースが見受けられます。
同じように「捨象」という語は「抽象化」することなのに、これを「ポイ捨て」の文学的表現と勘違いしている人もいるようです。言葉の意味通り正しく読むと、逆に書いた人の意図とは全く違うトンデモ文章が生まれます。
過去の著作と重複する記述が数多くありますが、それだけ日本語をめぐる現状が変わっていないという証しなんでしょうね。

呉氏はアメリカ人留学生から「日本では飲食店従業員が犯罪に巻き込まれることが多くないか?」と質問を受けたそうです。
そういえば私も気になっていました。深夜営業のファミリーレストランや、一人で店番をしている喫茶店とか居酒屋って、強盗犯の格好のターゲットにされているのではないかと不安を抱きながら。
ところがこれはマスコミの自主規制表現だったんですね。淫色店飲食店と言い換えていたのです。

健全なる精神の持ち主であれば、大いに笑えます。

(9月17日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
FCって、なあに?
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2007年09月16日

読書クラブに入りませんか

9月に入っても、残暑の厳しい日々が続いています。
とても「読書の秋」という雰囲気ではありませんね(笑)

今年(2007年)赤朽葉家の伝説で第60回日本推理作家協会賞を受賞し、直木賞候補にもなった桜庭一樹氏。彼女の近作は、読書の楽しみと「毒」をいつまでも忘れることができない、永遠の青年たちに贈る物語です。



青年のための読書クラブ

東京・山の手に広大な敷地を有する伝統ある女学校、聖マリアナ学園。幼稚舎から高等部までが同じ敷地内で学び、大学のみが別校舎となっています。
学園は1919年、フランスからやってきた修道女マリアナによって設立されました。中庭には巨大な(鎌倉の大仏のような)聖マリアナの銅像がそびえ立っています。
生徒はみな良家の子女と目されており、クリーム色の制服に身を包み、黒髪は短く切るか三つ編みにきっちりまとめられ、いずれ劣らぬ清楚でたおやかな様子であります。

聖マリアナ学園のクラブ活動には、ふたつの花形があります。
ひとつは生徒会。学園の行事を取り仕切り、実際に政治家の娘たちが多く所属する、いわば学園の貴族院です。
もうひとつは演劇部。華やかで目立つ生徒が集まっています。聖マリアナ学園では、毎年学園祭で「王子」と呼ばれるスター性のある少女が選出され、生徒たちの擬似恋愛の対象となっていました。この「王子」を数多く輩出してきたのが演劇部です。

1969年、一人の少女が高等部に編入学します。
長身でノーブルな顔立ちの烏丸紅子。しかし彼女は、良家の令嬢が集う乙女の楽園には似つかわしくない「異臭」を放っていました。
大阪・道頓堀の庶民の家で生まれ育った紅子は、実は子爵家の三男の隠し子。母の急死によって父に引き取られ、ワケのわからぬまま乙女の園に放り込まれたのです。
大阪弁の抜けない庶民育ちの紅子を、受け入れてくれるクラブはどこにもありません。ひとりぼっちの紅子が最後にたどり着いたのは、旧校舎の裏の雑木林のそのまた裏にある、崩れかけた赤煉瓦のビル。そこに部室を構えていたのは、異形の少女たちが集う「読書クラブ」でした。
部長は、上場企業経営者の娘にして学園一の才媛でありながら、脂ぎったオヤジのような容姿のせいで生徒会に受け入れられず、流れ流れて場末の読書クラブへとやって来た妹尾アザミ。アザミは紅子を使って、学園を支配してやろうと企みます。

来るものは拒まず、去るものは追わず。学園の片隅で忘れ去られたかのように、ひっそりと静かに本を読むだけの日々を過ごす読書クラブの面々。
そこで代々書き継がれるクラブ誌には、学園の正史たる生徒会誌には決して記録されない、乙女の園の闇の歴史が記されているのです。

(9月16日読了)
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学・小説交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

長畝日向神楽

9月15(土)16(日)の両日、福井県坂井市の長畝八幡神社に奉納された、日向神楽を鑑賞いたしました。

日向の名が示すように、舞人が天岩戸神話を演じるものです。
二日間の演目がすべて終わると、拝殿の御幣が世の平安と五穀豊穣を願って参会者に配られます。
昨年は最後までいなかったので御幣をいただけませんでしたが、今年は持ち帰ることができました。

舞人さんたちの一糸乱れぬ素早い動きには、感嘆いたします。近くにお住まいの方は、是非一度ご覧になってください。

【不純文學交遊録・過去記事】
日向神楽

昨年の写真は不純文學交遊館をご覧ください
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 20:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 書を捨てて街へ出る会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月09日

ほどほどで行こう。

世のなかの至るところに「改革」の言葉が踊る昨今ですが、近頃は「格差社会」と言われるように、改革の負の側面もクローズアップされるようになりました。

競争原理の導入で経済が活性化したことと、格差が拡大して社会が不安定化したことは、同じ現象の異なる側面です。そもそも「活性化」と「安定化」は相反する言葉であって、同時に生じるはずはありません。
TT社会は便利さとともに、プライバシー漏洩のリスクをともないます。企業業績の回復とは、人員削減による労働時間の増大だったり非正規雇用者の増加だったりします。
あらゆる改革や変化は、正と負のトレードオフにあるのです。そして改革や変化の規模が大きく急激であるほど、成果に対するリバウンドは大きくなります。バブル崩壊後の経済停滞が、あまりにも長く続いたように。



本格保守宣言

進歩とは人類普遍の原理なのでしょうか?
そんな疑問を投げかけるのが、佐藤健志氏です。
人類の歴史は長い間、緩慢な変化を続けていました。その間、世界の人口もあまり増えてはいません。人口が急激に増えるのは産業革命以降です。世の中に急激な変化が起こらなければ、進歩や未来の概念も生まれません。
世界人口推移グラフ(国連人口基金)
産業革命以降の急速な科学やテクノロジーの進歩は、人類に「理性によって未来は必ず良くなる」という幻想をもたらします。そして理性の力で世のなかを一から作り直そうとしたのがフランス革命です。フランス革命とは「理性の祭典」であった一方で、粛清の嵐が吹き荒れる恐怖政治でもありました。
急進主義がなければ、保守という思想もまた有り得ません。右翼・左翼の語も、フランス革命時代の議会の席に由来します。

さて今日の日本で、憲法改正や郵政民営化などの改革路線を唱えるのは「保守」と呼ばれる陣営です。一方、憲法9条や戦後民主主義の護持を訴える勢力が「左翼」と呼ばれたりします。
保守とはありうべき状態を維持することであり、現状が正常な状態でない限り、現状維持が保守なのではありません。
ただし佐藤氏は、日本の保守勢力をホンモノの保守ではない「公式保守」と呼びます。公式保守とは、競争原理にもとづいた経済改革と愛国心を強調した国家主義の双方を、急進的に推し進める立場のことです。

急進主義の不可能性を説く「本格保守」は、憲法改正という抜本的な改革よりも、解釈改憲に徹します。ある条項の改正を認めることは、他の条項(例えば天皇)にまで影響を及ぼすからです。
憲法9条は国際紛争の解決手段としての武力保持を禁じたものであり、日本が自衛権を有するとの解釈は既に広く受け入れられています。日本は自衛のために核武装してもいいのです。環境権やプライバシー権といった新しい人権も、改憲(加憲なんていう政党もありますが…)によらずとも、幸福追求権を規定した憲法13条を柔軟に解釈することで対処できます。

佐藤氏の唱える本格保守とは、なにか弱腰で煮え切らない態度のように見えますが、本格保守には「時代が変わろうと守るべきものがある」とする強い信念と「あわてふためかなくとも変化に対応できる」強い自信とが必要だとされます。
本格保守のとるべき態度について、佐藤氏は自らのダイエット体験を例に出します。
ダイエットの初期に、めざましい効果が出ることがあります。しかし効果はそう長く続くものではありません。調子に乗って急激な減量を続けては、身体のバランスを崩してしまいます。現実社会の改革とて同じです。また、努力しても体重に変化が現れない時期は、身体が安定したバランスを保ったのであり、新たな改革の方法論を導入する機が熟したものと考えます。

保守とは政治的立場ではなく、理性を過信して急進主義に陥らないための、人類の智慧のようなものです。
本書を強引にまとめると、結局「本格保守」とは「ほどほどで行く」ことなのか…となってしまうのですが(笑)、フランス革命以降の保守思想史に関する記述は大変面白く読めました。

(9月7日読了)
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 17:15| Comment(3) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月02日

当たり前の話…日本は核武装せよV

核兵器を「持たず・作らず・持ち込ませず」の非核三原則。しかしながら現在の日本は、核兵器について議論してもいけない「非核四原則」とも呼べる状況です。
核武装について、安全保障について、忌憚なき議論がなされているとは到底思えない今のニッポン。「当たり前の話をしようではないか」と西部邁氏は言います。



核武装論

西部氏は「非核三原則」と「核の傘」に疑いの目を向けます。
まず「非核三原則」は明らかな偽りであり、正しくは「非核二原則」と名付けるべきだと。常識的に考えてみましょう。日本に寄港する米軍空母が、数日間の滞在のために、核兵器をどこかへ降ろして来るでしょうか。三原則の三番目「持ち込ませず」はウソに違いありません。
また「日本はアメリカの核の傘に守られている」という論者も、アメリカの核兵器が日本に持ち込まれずして、核の傘が有効だとでも思っているのでしょうか。
そもそも「核の傘」自体に、疑いを持たねばなりません。仮想敵国から日本への核攻撃があったとします(ファースト・アタック)。それに対して同盟国アメリカが報復攻撃をします(セカンド・アタック)。当然ながらアメリカは、自国への報復攻撃(サード・アタック)を覚悟のうえで核ミサイルを発射せねばなりません。それでもアメリカは、日本を守ってくれるのでしょうか。

イラク戦争は大きな問題提起をしました。それは予防的先制攻撃の是非です。
アメリカはイラクに対し「自衛の先制攻撃」をしましたが、イラクに大量破壊兵器は見つからず、テロ組織の根拠地でもありませんでした。
アメリカの「侵略」に対し非を鳴らした西部氏ですが、予防的先制攻撃という考え方を正当防衛の一種であると肯定します。しかしその一方で、先制攻撃には間違いがありうることを強調しています。人間は間違いを犯しうる存在です。
核兵器は瞬時にして大量の生命・財産を奪い、放射能による被害は広域に将来に渡って及びます。核による先制攻撃は、絶対にあってはなりません!
日本国憲法第9条に第3項を設け「核兵器を持っても作っても構わないがそれは報復にのみ用いられる。たとえ予防という名の自衛のためであっても、先制使用は許されない」と規定すべきだと西部氏は述べています。
「核を先制攻撃には用いない、報復にのみ用いる」ということは、核によるファースト・アタックに耐えよということです。これは非暴力・不服従を掲げたガンジー主義に通じます。

冷戦が終結して迎えた多極世界。アメリカのニュー・リアリストと呼ばれる研究者たちのあいだでは、核の拡散こそが世界に安定をもたらすとの議論があります。自滅をいとわぬテロリストに抑止の論理は通用しませんが、逆に言うとテロリストに核兵器が流れることはない保証があれば、核の拡散に不都合はないとの考え方です。
また核兵器を全廃しても、人類から核技術が失われるわけではありませんから、全廃した直後に特定の国家・集団が核兵器を独占的に保持し得るという、極めて危険な状況を想定せざるをえません。

百発百中とは言わないまでも、命中率90%位のMD(ミサイル防衛システム)でもあれば、核武装は必要ないでしょう。しかし高価なのに効果がないMDは、アメリカの軍産複合体に莫大な利益をもたらすだけです。
私は核武装が(倫理的に)正しいと言うつもりはありません。
核兵器は、非人道的な大量破壊兵器です。また核エネルギーの利用そのものに、放射能の危険性や放射性廃棄物の処理問題が付きまといます。
では、この世に人道的な武器はあるでしょうか。
核の脅威から日本を守るものはなんでしょうか。

たとえ通常兵器によるものであっても先制攻撃は絶対にしないという強固な信念、しかし平和国家・日本への武力行使には核による報復が待っている…そんな日本に私は棲みたい。

【不純文學交遊録・過去記事】
日本は核武装せよ
日本は核武装せよU

(8月27日読了)
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 16:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治・経済交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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