2007年09月17日

差別もある明るい社会

「中国人と名古屋人は似ている」と明治・大正期のキリスト教思想家、内村鑑三は指摘しました。
経済成長著しい中華人民共和国と、日本経済を牽引するトヨタ自動車のお膝元・名古屋。双方に何か共通項があるのかも…と思いたくなるのですが、よくよく考えてみれば中華人民共和国は当時まだ存在していません(あったのは)。内村鑑三は、日本の中国地方(山口)の人と名古屋人の気質について述べていたのです。
現在の中華人民共和国のことを、当時の人は支那と呼んでいたはずです。そのことを知らないと、とんでもない勘違いを犯すことになります。

いわゆる差別語狩りにより、支那は中華人民共和国に対する蔑称であるとして、ほとんど用いられなくなりました。
では世界共通語であるChinaを、日本人だけが使用できないのは差別ではないのでしょうか。「中華」なる語も、自国民以外を全て蛮族とみなす差別思想ではないでしょうか。



健全なる精神

こうした言葉をめぐる誤解をはじめとする、社会の歪み・病んだ良識に、健全なる精神で立ち向かっているのが呉智英氏です。
差別は正しい、差別と闘うのと同じくらい正しい。人類が目指すべきは「差別ある明るい社会」である。差別さえない暗黒社会にしてはならない、と。
人類が最初に発した言葉はなんなのか知る由もありあませんが、私は言葉の誕生そのものが差別の起源であると考えています。原始時代の人類が何かに命名したとき、それは他のもろもろの事象と「あるもの」とを差別したに他ならないからです。
身長、体重、顔かたち、生まれ、育ち、好き嫌い…人はそれぞれみな違います。時には差別と感じることがあっても、言論統制のない明るい社会に棲みたいですね。

呉氏の批評対象は言葉だけではないのですが、やはり面白いのは言葉をめぐる議論です。
たとえば「すべからく」という語は「是非とも、当然すべき」という意味なのですが、これを「全て」の高級な表現として誤用するケースが見受けられます。
同じように「捨象」という語は「抽象化」することなのに、これを「ポイ捨て」の文学的表現と勘違いしている人もいるようです。言葉の意味通り正しく読むと、逆に書いた人の意図とは全く違うトンデモ文章が生まれます。
過去の著作と重複する記述が数多くありますが、それだけ日本語をめぐる現状が変わっていないという証しなんでしょうね。

呉氏はアメリカ人留学生から「日本では飲食店従業員が犯罪に巻き込まれることが多くないか?」と質問を受けたそうです。
そういえば私も気になっていました。深夜営業のファミリーレストランや、一人で店番をしている喫茶店とか居酒屋って、強盗犯の格好のターゲットにされているのではないかと不安を抱きながら。
ところがこれはマスコミの自主規制表現だったんですね。淫色店飲食店と言い換えていたのです。

健全なる精神の持ち主であれば、大いに笑えます。

(9月17日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
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posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 18:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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