2008年08月24日

哲学の不可能性について

2008年6月8日、東京都秋葉原の歩行者天国で7人が犠牲となる通り魔事件が発生。
容疑者が派遣社員であり、携帯サイトの掲示板に職場での不満を書き込んでいたことから、事件の背景に格差社会があるとの論調も見られました。

市場原理主義を標榜する新自由主義(ネオリベラリズム)が格差社会を生み出し、新自由主義者たちは「負け組」が反体制的にならないよう街中に監視カメラを設置したり、愛国心教育で国民を洗脳しようとしている。悪いのは「ネオリベ化した世界」「ネオリベ的な日常」だ…
このような思わせぶりな言説が氾濫する風潮に、違和感を表明しているのが仲正昌樹氏です。
「ネオリベ」という言葉を民営化や規制緩和の是非という文脈で用いるのは良いのですが、社会学者や思想家が「ネオリベ化した世界」という場合、明らかに経済政策論議の範疇を逸脱しています。こうした真っ当な指摘をすると「現実が見えていない」「ネオリベに洗脳されている」と批判される、これではまるで宗教です。



〈宗教化〉する現代思想 仲正昌樹 著

実は哲学・思想そのものが、限りなく宗教と紙一重であることを論じたのが本書です。
では「哲学」と「宗教」はどう違うのでしょうか?
「宗教」は、人生や世界についての深遠な問いに究極の答えを示し、それを信ずることを要求します。一方の「哲学」は、人々が無条件に常識と信じていることに疑問を呈し、どこまでも問いの可能性を開くことを特徴とします。信じようとする「宗教」に対し、疑おうとするのが「哲学」です。
ところが、常に問いを発し続ける哲学もまた「真理」を求めています。真理への無限の探求が哲学であるのに、真理を固定化してしまっては宗教と変わりがありません。

プラトン以降の西欧哲学の歴史が、いかに疑似宗教化の危険と隣り合わせであったか、本書は延々と論じ続けます。
特にマルクス主義とキリスト教との類似性は、徹底的に示されています。資本主義社会が革命によって必然的に共産主義社会へ移行するとの主張は、キリスト教的な終末思想そのものです。
そういうわけで本書は真面目な西洋思想史の本であり、タイトルから想像されるように、日本の思想・言論界の現状がいかに宗教的であるかという本ではありません。
ちょっと残念…

(8月24日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
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posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 21:01| Comment(11) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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