2009年05月06日

邪馬台国へ至る道

卑弥呼とは誰で、邪馬台国はどこにあったのか…論争は遥か昔から続いています。
日本書紀の記述(神功皇后)にはじまって、北畠親房新井白石本居宣長といった歴史上の知識人から、現代の歴史学者・考古学者・作家に至るまで、まさに百花繚乱の邪馬台国論争。このたびは交通史からのアプローチです。



邪馬台国魏使が歩いた道

丸山雍成 著

近世交通史の大家・丸山雍成氏は、魏使が倭を訪れたのは真夏であり、日昇の方向が春分・秋分よりも45度ずれているとします。したがって本書は、魏志倭人伝における東南は東、東は東北、南は東南として論旨を展開します。
丸山氏は日本の歴代政権が、外国使をストレートに国都へ招き入れることはしなかったと主張します。これが古代以来の日本の高等政策であり、ぺリーの軍艦が直接江戸湾に入ったことを契機に、江戸幕府は間もなく倒壊しました。
邪馬台国の場合も、魏使を直接陸路で国都へ向かわせずに、迂回させたと考えられます。その間に邪馬台国側の使者は、最短距離で魏使の来訪を卑弥呼に伝えることが出来ます。

伊都国を出た魏の使者が向かったとするのは、島原湾・有明海です。丸山氏は、これまで重視されなかった九州中央部にも、畿内や北九州に質・量ともに遜色のない弥生時代の遺跡があることを力説します。
これって、昨年映画化された宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』と同じでは…思いましたが、これで終わりではありません。ここから上陸して、邪馬台国の王都へと向かうのです。丸山氏が比定する邪馬台国の王都の位置については、実際に本書をお読みください。
本書は交通史学者の著作ですが、当時の航海技術や造船技術からの視点はありませんでした。邪馬台国論争の歴史を踏まえたうえで、考古学の発掘成果による考証を加えた、極めてオーソドックスな成り立ちの本です。

現在、邪馬台国畿内説が優勢に感じられるのは、畿内説には「卑弥呼の墓=箸墓」「王都=纒向遺跡」という、九州説にはない解り易くシンボリックな存在があるからではないでしょうか?
九州説の場合、吉野ヶ里遺跡はともかく、甘木・朝倉といってもピンと来る人はほとんどいないでしょうね(九州説にも「卑弥呼の墓=宇佐神宮」を掲げる論者がいます)。

(5月4日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
鏡よ鏡…
邪馬台国は、ここにある。


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 19:33| Comment(6) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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