2010年10月05日

日本はいつから日本か

日本とは、どこからどこまでなのか。きちんと教えるのが教育の責務です。尖閣諸島は日本固有の領土であり、中華人民共和国が領有を主張し始めたのは、この海域に資源が存在する可能性が示唆された1970年代以降に過ぎません。
さて、わが国はいつから公式に「日本」と称するようになったのか、日本という国号の由来は何なのか、これはなかなか難しい問いです。

日本国号の歴史

日本国号の歴史

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日本の由来として知られているのが、日本は枕詞だとする谷川健一の説です。日下と書いてクサカと読むのは、ヒノモト(日下)がクサカ(草香)という地名の枕詞だからであり、それは神武東征軍が上陸した河内国日下だとします。しかし「日下」がなぜ「日本」という表記に転化したのかは、説明できていません。
本書の著者・小林敏男の説は、「日本」は和製漢語ではなく、語源は中国にあるとするものです。日本とは、支那から見て太陽が昇る方角の絶海にある異郷を意味します。日本は扶桑国とも呼ばれましたが、日本の「本」は樹木のことで、それは東方の海中にあるとされた神木・扶桑樹だといいます。
(語源が中国だからと言って、日本とは支那王朝から与えられた称号だとの主張ではありません)

言わば日本とは、東方の絶域にあるユートピアであり、それは中華的冊封体制の域外でありました。支那王朝の冊封下に入ることで朝鮮半島に軍事的影響力を行使しようとした倭の五王と違い、遣隋使・遣唐使時代の日本は「不臣の外客」「絶域の朝貢国」だったのです。なお、朝貢とは必ずしも服属することではなく、唐との友好関係を確認する行為でした。
わが国は唐の冊封体制下ではなかったので、倭から日本への国号変更にさほど問題はなかったと考えられます。支那王朝に対して最初に日本の国号を通知したのは、大宝2年(702年)の粟田真人の遣唐使です。当時は武則天(則天武后)の時代で、唐側も国号を周(武周)と改めていました。

日本の国家成立を探るうえで避けて通れない邪馬台国論争ですが、著者は魏志倭人伝の「邪馬台国」と「女王国」は別の国だという見解です。
卑弥呼の女王国は北九州のヤマト(山門)にあり、倭国大乱後の卑弥呼共立に反対する勢力が畿内に樹立した新興国を邪馬台国だとしています。

(10月3日読了)★★★★

【不純文学交遊録・過去記事】
描かれた邪馬台国


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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