2011年06月13日

もし不純なリバタリアンがサンデルの『Justice』を読んだら

昨年、名門ハーバード大学で史上最多の履修者数を誇るマイケル・サンデルの政治哲学講義「Justice」が、NHK教育テレビで『ハーバード白熱教室』として放映され、彼の著書『これからの正義の話をしよう』はベストセラーとなりました。
教授が一方的に講釈を垂れるのではなく、学生が積極的に自らの意見を述べて参加するのが白熱教室の魅力ですが、日本の大学に議論する場がないわけではありません。ただ、サンデル教授の「君、名前は?」には痺れました。あれは上手いですね。



ベストセラーには手を出すまいと思いつつも、やはり買ってしまいました(笑)
売れているだけあって、読みやすい本です。ジェレミー・ベンサムの功利主義、イマヌエル・カントの定言命法、アリストテレスの目的因(テロス)などが、現代社会での実例を挙げながら解りやすく紹介されています。数千年の哲学史をファンタジーの手法で紐解いたヨースタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界』が思い出されます。本書で一番難解なのは、帯に書かれた宮台真司の推薦文でしょう(笑)
サンデルはコミュニタリアンであり、最大多数の幸福を追求する功利主義や、個人の自由な選択を尊重するリバタリアニズムを批判します。サンデルの支持する正義とは、美徳を涵養し共通善について判断することです。では「共通善」とは何なのかとなると、残念ながら本書から具体的な回答は得られません…
また、サンデルが言及するコミュニティへの連帯や責務には、アメリカの「テロとの戦い」を正当化するための危うさが感じられることも付け加えておきます。

自己決定を尊重するリバタリアニズムに共感する私には、自分の身体や人格の所有者は自分自身ではないとするサンデルの主張は、到底受け容れられません。他人の自由を侵害しない範囲で個人の選択の自由を最大化すべしとするリバタリアニズムは、自殺をも愚行権として認めます。人間は社会的生物であり、共同体と不可分には生きていけません。だからこそ自己の身体と精神は、残された「自由の最後の砦」なのです。
私は個人の心情・信条としてはリバタリアンですが、現実の社会制度としては富の再分配は必要だと考えます。市場における勝者は敗者を踏み台にして利益を得ているのであり、格差が拡大し過ぎては市場から競争する活力が失われる可能性もあります。リバタリアニズムとは、必ずしもアナーキズムと同義ではないのです。国家も法律も全く不要だと考えるリバタリアンは、ごく少数でしょう。

リバタリアンが尊重する「自由な個人」なんて、近代社会が生んだ妄想に過ぎないのかもしれません。同様にコミュニタリアンの掲げる「共通善」も、全人類が共有しうる普遍的なものとは限りません。
現代社会は世界各国が貿易や情報ネットワークで密接につながり、科学技術は脳死からの臓器移植や代理母出産をも可能としました。複雑に利害が絡み合った多種多様な「善」を調整するのが、市場であったり、法廷であったり、伝統的な集合知であったりするわけです。アテネの市民社会のことだけを考えていれば良かったアリストテレスの時代とは違います。
人間には自由意志があり、有史以来、自然界にはなかったモノや制度を生み出してきました。野生動物のように、遺伝子にプログラミングされた本能と自然界のルールという「共通善」に従って生きていけば良いだけなら、何の問題もありません。動物の世界だって、そう単純ではないかもしれませんが(笑)

(5月4日読了)★★★★


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 18:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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