2012年10月01日

オオカミと人

昭和54年(1979年)を最後に30年以上目撃情報のなかったニホンカワウソが、とうとう絶滅したと判断されました。昭和時代まで生息していた哺乳類が絶滅種に指定されたのは、初めてのことです。また哺乳類の絶滅は、平成3年(1991年)にニホンオオカミなど4種類が指定されて以来となります。
第4次レッドリストの公表について(お知らせ)

日本の生態系の頂点に君臨し、古くから信仰の対象となってきたオオカミ。
9月30日、若狭三方縄文博物館(福井県三方上中郡若狭町)の企画展オオカミと人‐自然からの護符‐を観覧しました。

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芝生のドームの下が博物館。
若狭町の鳥浜貝塚・ユリ遺跡からの出土品を中心に展示。

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通称DOKIDOKI館。
入口のロゴは初代館長・梅原猛の書による。

階段を降りて特別展示室へ。なお館内は撮影禁止。
剥製は残念ながら、ニホンオオカミではなくモンゴルオオカミでした。鳥浜貝塚から出土した縄文時代のオオカミの頭骨も展示されています。DNA鑑定によると、ニホンオオカミは小型で、大陸のオオカミとは別種だそうです。
ニホンオオカミは、明治38年(1905年)に奈良県東吉野村で捕獲されたのを最後に絶滅しました。一方で、明治43年(1910年)に福井城址の松平試農場で捕獲されたイヌ科の動物が、ニホンオオカミだったとする説があります。しかし標本が戦災で焼失したため、真相は不明です。この件に関する新聞記事が多数ありました。
オオカミの民俗に関するコーナーでは、阿形と吽形のオオカミの木像、オオカミの護符を展示。映画『オオカミの護符』のDVDも放映されていました。

常設展示も観覧しました。暗い入口に一歩足を踏み入れると、明かりが灯って音楽が流れ出し、正面に遮光器土偶が浮かび上がります。そして回廊にズラリと並んだ縄文土器。決して規模の大きな施設ではありませんが、幻想的な演出が気に入りました。
メインとなる展示は、鳥浜貝塚・ユリ遺跡を一躍有名にした縄文時代の丸木舟でしょう。また、遺跡の出土品から明らかになった縄文人の豊かな食生活が再現されています。遺跡のある若狭町の三方湖は、ボーリング調査によって過去の気候変動が明らかにされており、環境考古学発祥の地であるそうです。
この日が企画展の最終日だと思って行ったのですが、10月8日まで延長されていました。台風17号が接近中で、あいにくの雨。しかも午後からは福井市で講演会。縄文ロマンパークも見たかったので、来週にすれば良かったかも…



さて『オオカミの護符』は、映画プロデューサーの小倉美惠子が、神奈川県川崎市宮前区土橋に残るオオカミ信仰(土橋御嶽講中)を記録した作品です。映画は見ていませんが、単行本は読みました。
現在7000世帯が暮らす住宅街である土橋は、昭和30年代はわずか数十戸の農村でした。著者の生家の土蔵に貼られた一枚の護符「オイヌさま」。そのルーツを探る旅です。オオカミ信仰を民俗学的に掘り下げた研究書というよりは、高度成長によって失われた人と地域の絆を見つめなおすヒューマンドキュメンタリー。
この手の本を読んでいると「経済成長と環境保護のバランス」とか「物の豊かさと心の豊かさのバランス」といった言葉が出てきますが、その具体的なアイデアを目にしたことはありません。生態系や民俗文化の保護に市場メカニズムを用いることができないかと、私は考えています。

【不純文學交遊録・過去記事】
ニホンオオカミの行方



posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仲麻呂VS東大寺

9月30日の午後は、福井市立みどり図書館の開館20周年特別講演会を拝聴しました。
荘園絵図から見た福井の歴史と題して、福井市立郷土歴史博物館の田中伸卓学芸員が講演。

福井市立みどり図書館のある福井市社地区は、今から約1200年前の奈良時代、越前国足羽郡の道守庄と呼ばれる荘園でした。
律令制度下において庶民には口分田が与えられましたが、税負担が重いため、田を捨てて逃亡する者が少なくありませんでした。そこで朝廷は、自ら開墾した田の私有を認める墾田永年私財法を制定します。これが荘園の始まりです。
都に近い越前国は、朝廷の重要な穀倉でした。道守庄は東大寺の荘園となり、大仏建立の財源となりました。一方、藤原仲麻呂(恵美押勝)は豊かな越前国を我がものとすべく、息子を国司として送り込みます。
足羽郡では、大領の生江臣東人と小領の阿須波臣束麻呂が、勢力を競い合っていました。生江臣東人は、かつて造東大寺司史生として勤務していた東大寺側の郡司です。対立する阿須波臣束麻呂は、藤原仲麻呂側の郡司となります。

藤原仲麻呂が朝廷の権力を握ると、東大寺の権益を圧迫します。しかし仲麻呂は、恵美押勝の乱で敗死。越前国の荘園は、ふたたび東大寺のものとなりました。地方役人は権力者が変われば従うしかない立場なのですが、東大寺は仲麻呂政権下での郡司の行為を厳しく尋問します。
生江臣東人は、東大寺の勢力が衰えた隙に私腹を肥やしていたことが判明しました。東人は二度に渡る出頭要請に応じなかったのですが、一度目は神社の春祭りで酒に酔っていたから、二度目は高齢になり病気で療養していたからだと弁明しています。
一方、阿須波臣束麻呂は、東大寺の用水を使っていたとして責められました。これに対し、束麻呂は用水は公私共用であると反論しています。律令の規定では、束麻呂の主張が正しいそうです。

これらの出来事は、正倉院に伝わる荘園絵図や古文書から浮かび上がってきました。奈良時代の中央政界については記録が豊富に残っていますが、地方官人の実態を伝える史料は極めて貴重です。
【関連サイト】
図説福井県史

【不純文學交遊録・過去記事】
古代越前の文字
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 22:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 書を捨てて街へ出る会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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