2006年06月26日

ノブレス・オブリージュ

終戦直後まで、現在の皇族以外に11の宮家があったのをご存知でしょうか。
GHQの占領政策により皇族の範囲が狭められ、昭和天皇の直系とご兄弟の宮家を除く、すべての皇族が臣籍降下、すなわち一般人となりました。
その十一宮家のひとつ、旧竹田宮家の出身で明治天皇の玄孫(孫の孫)にあたるのが、竹田恒泰です。



第二次世界大戦中および戦後の混乱期、皇族たちがどのような役割を果たしたのかは、あまり知られていません。

日米開戦を前にした昭和16年9月の御前会議。昭和天皇は明治天皇御製の和歌をお詠みになり、戦争回避の思いを示されました。天皇が政策決定に意思表示をするのは、極めて異例のことです。大日本帝国憲法において、天皇は政府と統帥部の決定を却下することはできませんでした。
しかし、戦争回避を模索していた近衛文麿内閣は総辞職。続く東条英機内閣は日米開戦に踏み切ります。
天皇の弟宮である秩父宮高松宮もまた、戦争回避への強い思いを抱いていました。
病気療養中の兄・秩父宮に代わり、高松宮は天皇に直談判します。しかし天皇は、皇族が政治介入すべきではないとの立場を貫きました。
高松宮は腹心の細川護貞とともに、独裁者となった東条英機の暗殺までも企てていたそうです。実行されていたら、大化の改新の再現!でした。

昭和20年。ポツダム宣言を受諾し、長い戦争に終止符を打った日本。
天皇の代理人として最前線の兵士たちに終戦の詔を伝えるために、朝香宮竹田宮閑院宮の三皇族が、中国・朝鮮半島・東南アジアの戦場へ飛び立ちます。命がけの危険な任務、まさしくノブレス・オブリージュです。
そして東久邇宮は、戦後最初の総理大臣として内閣を組織します。クーデターを阻止し、陸海軍の速やかな武装解除を実現できたのは、皇族首相だからでした。

さて皆さんが気になるのは、著者が皇位継承問題をどう考えているのかでしょう。

皇室には過去三度、断絶の危機がありました。
最初は大和時代。第25代武烈天皇は後継ぎがありませんでした。そこで迎えられたのが第15代応神天皇五世の孫とされる継体天皇です。これを王朝交代とする見方もありますが、継体は武烈の姉妹を皇后に迎えることで血縁を近づけています。
二度目は室町時代、第101代称光天皇の崩御です。この時は傍系の伏見宮家から迎えられた後花園天皇が即位します。
戦前まで存続した十一宮家は、この伏見宮家の系統なのです。
三度目は江戸時代。第118代後桃園天皇が崩御すると、先例に従い傍系の宮家から後嗣を迎えます。閑院宮家出身の光格天皇です。この時も先代の皇女を妃に迎えて血縁を近づけています。

天皇の位は、いずれも男系の皇族が後を継いできました。日本の歴史上、八方十代の女帝がいらっしゃいますが、すべて男系です。そして直系が絶えた場合に備え、血のリレーの伴走者として宮家があります。
竹田の主張する皇位の安定継承策は、宮家の復活です。そして旧宮家の男子は、万が一の際には皇族女性との婚姻と皇位継承の覚悟を持つべきであると。なお、側室制度は現代の社会事情にそぐわないとして否定しています。

天皇家とは、男系の皇族によって王位と祭祀が受け継がれてきた王室のことである。

女系天皇が悪いのではありません。女系の天皇が即位しては、その王室は天皇家ではないということです。

竹田恒泰HP 竹の間

(6月26日読了)

<<不純文學交遊録・過去記事>> 知られざる法典


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 20:17| Comment(65) | TrackBack(1) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
大変興味深く拝読いたしました。
武烈天皇に跡継ぎが無い:この部分に昔からの疑問が解消しません。
下記の森教授の見解に対する御講評をお聞かせいただけましたら幸いです。

当時の天皇は、今日の中近東の王族と同じで、沢山の子供が居た。
国際環境の激変に対応できなかった。
中国の河南地方から越(倭)王が神武東征の形をとって、武列の後継天皇になった、それが継体天皇だ、と森浩一教授が述べているのです。
「日本神話の考古学」朝日文庫、森浩一著1999年3月1日発行。
Posted by エノク&トマス at 2006年06月27日 07:46
エノク&トマス様、講評だなんてそんな…(笑)
まず私が、歴史を専門的に学んだことのない、市井の好事家に過ぎないことをお断りしておきます。

継体天皇の即位を、王朝交代だとする説がございます。
暴君とされる殷の紂王を周の武王が討った、易姓革命のエピソードはご存知だと思います。
武烈天皇は、妊婦の腹部を裂いて胎児を取り出すなどの猟奇的な行動が多く、暴君であったとされています。暴君は倒さねばならぬ正当な理由がある、つまり武烈の死⇒継体即位は、日本版易姓革命であるとの説ですね。
また、継体が即位後20年も大和の地に入れなかったのは、旧勢力の抵抗にあったからだと考えられます。
なお竹田恒泰は、武烈と継体はもはや他人と呼べる(十親等)遠縁だが、血統の断絶はなく王朝交代ではないと述べています。

以下、私の素人考えの妄説であることをご了承ください。
歴史上「神」の名を持つ天皇が三名いらっしゃいます。初代神武、10代崇神、15代応神です。天皇の諡号は後世贈られたものですから、なにか歴史的な意味が隠されているはずです。
神の名を持つ天皇は、王朝の始祖であると考えられます。実在が確かな最初の天皇は応神で、神武・崇神の事績は応神の事績のコピーだという説もあります。
しかし継体に「神」の文字はありません。体を継ぐ…何か意味ありげだとは思いませんか。
継体朝は武烈朝を武力で倒した、しかし「応神天皇五世の孫」に偽りはなく、偉大なる初代天皇の血統は辛うじて受け継がれた(だから継体)。あるいは応神の血につながる者なら抵抗勢力も納得できそうだから、後継天皇に祭り上げられた…なんて考えますが、いかがでしょう?

古代日本には大陸からの亡命者が多く渡来したと思われますが、大和政権がいわゆる騎馬民族征服王朝なのかは、私には何とも…よく判りません。

現在、継体天皇のお墓は宮内庁認定の継体陵ではなく、大量の埴輪が発掘されて話題となった今城塚古墳だと言われていますから、こちらもハッキリして欲しいですね!

余談ですが、私の生息地・福井県では、来年(2007年)継体天皇の即位1500年を記念したイベントが行われる模様です。
Posted by 管理人 at 2006年06月27日 22:32
福井県ご在住とはうらやましいですね。
昔は日本の表玄関でした。知恵者が沢山おられます。
継体天皇のイベントがあるとは、たのしみですね。
ありがとうございました。
Posted by エノク&トマス at 2006年06月28日 08:39
エノク&トマス様
素人の思いつきにお付き合いいただき、ありがとうございました。

易姓革命とは文字通り王族の姓が変わることですから、継体が真に応神の末裔ならば、易姓革命ではないことになりますね。
竹田恒泰は、皇族に姓がないことこそ、天皇が万世一系の証しであると述べています。他に並び立つ王族がないから、姓で区別する必要がなかったのだと。

日本史最大の謎は、政治の最高権力者が変わっても、なぜか祭祀王たる天皇を廃さなかったことです。
天皇を残した武家政権の祖・源頼朝は、やはり大天才なのか…?
Posted by 管理人 at 2006年06月28日 21:59
私は竹田氏の本は読んでいませんが、大東亜戦争に関する記述は、都合がよすぎる気がしますけど。
(^^;)

ところで映画『太陽』は8月から日本上映です。
Posted by おおくぼ at 2006年06月28日 23:07
明治維新は北朝から南朝へのバトンタッチでした。
そして彼は、毒殺された孝明天皇の汚名を晴らしたいと公言していた由です。
彼は、南北どちらなのでしょう?
奇奇怪怪です。
彼の知能指数は、取り巻き連中の話では270なのだそうです。
270に期待が集まっているようです。
彼は万能だ、彼ならやってのける。
次回の東京都知事選挙に出馬するための講演活動なのだと取り巻き連の鼻息は荒いですね。
Posted by エノク&トマス at 2006年06月29日 21:23
おおくぼ様、そうですね…

高松宮は兄・昭和天皇に早期和平を繰り返し申し入れたが、立憲君主としての立場を重んじる天皇は弟宮の直言を聞き入れなかった。昭和天皇が主戦派だったと思われるかもしれないが、そうではない…これが竹田氏の主張です。

明治天皇の和歌を引いて一度は戦争回避の強い思いを示した昭和天皇が、その後はなぜ頑なに立憲君主の立場に留まったのか…
実は私もスッキリしません。
Posted by 管理人 at 2006年06月29日 21:34
エノク&トマス様

明治維新が北朝→南朝へのバトンタッチというのは、明治天皇が孝明天皇の皇子ではなく、南朝の末裔・大室寅之祐であるという説のことを指しているのでしょうか?

竹田宮家は、北朝の伏見宮家の分家です。北朝の末裔の竹田氏が孝明天皇を尊敬していても、不自然ではないと思います(笑)。

竹田氏は横浜市長選に出馬表明をしたことがあるそうですが、都知事選に竹田氏を擁立する動きがあるとは初耳です。
Posted by 管理人 at 2006年06月29日 22:02
大東亜戦争についてはこんな本が有ります。前にも紹介したかな?
竹田氏の言い分とかなり違います。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4004302579/qid=1151588957/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/250-9376253-1529839


http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167198037/qid=1151589016/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/250-9376253-1529839


あと最近、漫画家・小林よしのりがA級戦犯に関する漫画を出しました。
Posted by おおくぼ at 2006年06月29日 22:53
竹田氏は立場上(?)天皇・皇族を悪く書けないのでしょうか(笑)
竹田氏本人はもちろん、彼の父も戦後生まれなので、最初から一般人ですけどね。
ただ、旧宮家の出身で明治天皇の玄孫であることから、各国の要人と会うチャンスに恵まれていると述べています。

竹田氏の本の読みどころは、昭和天皇の評価ではなく、あまり知られていない天皇以外の皇族の素顔を描いた点でしょう。
海軍の最高権力者・伏見宮博恭王は、天皇に即時開戦を強く進言していました。
皇族軍人の長老・梨本宮守正王は、戦争犯罪人として収監された唯一の皇族です。
また、戦後臣籍降下した元皇族たちは、事業で失敗する者も多かったようです。皇族宰相として知られる東久邇宮稔彦王は、その代表ですね。
Posted by 管理人 at 2006年07月01日 00:06
大室寅之祐の出身地は田布施、明治の元勲伊藤も岸佐藤も安部も虎の門事件も田布施、他方、
小泉首相の祖父の出身地も鹿児島県南さつま市(加世田市)金峰町(田布施郵便局あり)、つまり田布施の由、今はかき消されておりますが、うろ覚え(ネットで見た)があります。田布施のほうが由緒があるのに金峯町に併合された由。
田布施の意味?ご存知でしたら教えてください。
小泉首相が安部を推奨する印象が濃いのは田布施仲間だからでしょうか?薩長連合の裏は田布施連合なのでしょうか?
Posted by エノク&トマス at 2006年07月03日 05:52
追記;
田布施・金峯町の歴史は、朝鮮中国など交易拠点だったようですね。
山口県の田布施も瀬戸内海交易の重要拠点でした。田布施の言外の意味は交易に関係があるでしょうか?
なお、竹田神社があるのには驚きました。
竹田 恒泰さんとごろがあいますねぇ(笑い)。


1954 ●加世田・万世(ばんせい)両町が合併し,加世田市が誕生。翌年田布施村新川・網揚地区(たぶせむら しんかわ・あみあげ)編入。現在、田布施小学校、田布施郵便局が残されてあります。ヤフーの地図検索。
1592 島津義弘(しまずよしひろ)文禄の役で朝鮮出兵。
加世田地方の太鼓踊りはこのとき朝鮮から伝わったという伝承がある。
■鎌倉時代
持躰松遺跡(もったいまつ)。万之瀬川を挟んで加世田と向かい合う金峰町宮崎。11〜15世紀の中国製陶器が多数出土。万之瀬川河口は大陸と日本の交易拠点。
■竹田神社
加世田校区麓地区 →地図

現在の社殿は大正5年(1916)再建のもの。
室町時代1485年保泉寺として島津国久が創建。
戦国時代1564年日新寺として島津忠良が再興。
明治時代1869年廃仏毀釈により廃寺。
四年後の1873年島津忠良を祀る竹田神社となる。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月03日 06:26
エノク&トマス様

田布施という地名にそんな因縁があるとは、初めて知りました。しかも竹田神社まで…!
日本にはダ・ヴィンチ・コードよりも凄い、タブセ・コードが存在する?(笑)

中学・高校で習う日本史では、1392年の足利義満の南北朝統一で南朝は完全に消滅したように誤解が生じますね。実際にはさらに100年ほども、後南朝の抵抗がありました。
後南朝の皇胤が、その後も生き残ったかどうかは判りません…
明治天皇=大室寅之祐説の信憑性は、私には判断不能です。
孝明天皇が毒殺されたのは、非常に可能性が高いと思います。
↓竹田氏は孝明天皇暗殺論者ですね。
http://www.takenoma.com/labo-lonbun-05.htm

建武の親政を支えたのは、楠木正成ら悪党と呼ばれるまつろわぬ者たち。明治維新の原動力となったのは、外様藩の下級武士たちでした。竹田都政(竹田王朝?)の実現を目指すのは、どのような人たちなのでしょうか?
東京都はオリンピック開催地に名乗りを上げていますが、竹田氏の父君はJOC会長の恒和氏ですね。

側室はダメ、養子もダメなら、男系皇族での皇位継承を維持するには宮家の復活しかありません。竹田氏は著書の中で、旧宮家には自分を含めて独身男性が数多くいることを強調していました。
竹田宮家が復活して竹田氏が皇族女性と結婚しても、天皇直系ではない彼自身が皇位に就くことはないでしょう。天皇の父または祖父となって影響力を行使する可能性はありますが。
Posted by 管理人 at 2006年07月03日 17:06
天皇を残した武家政権の祖・源頼朝は、やはり大天才なのか…?

以前に書きましたが、NHK日曜美術の時間で、頼朝の画像は南宋の技術だろう、モナリザに匹敵する、また、山梨の神社にある頼朝の木像を見せて、全く異なっていると、つけ加えた。
山梨の木像は、面長ではなく、日本猿のような猛々しい頬骨の張った顔だった。隣りには実朝の木像も紹介された。

頼朝の画像の紙の構造から画筆の手順まで詳しく分析していましたが、驚嘆に値します。当時の世界最高の南宋文化の精髄だったのでしょう。南宋の帝王の肖像かもしれないと思わせました。
森教授の「日本神話の考古学」朝日文庫、森浩一著1999年3月1日発行を読んでからは、森教授が言うように継体天皇もそうではないかと思うのです。
いかがでしょうか?
Posted by エノク&トマス at 2006年07月04日 08:12
私も拝見しました、あの時の新日曜美術館。

神護寺の国宝・源頼朝像は、実は足利直義ではないかとの説がありますね。
鶴岡八幡宮の頼朝木像は、神護寺画像のような面長だったような記憶があります。
頼朝は京生まれ京育ちですから、公家顔だった可能性も高いと思います。

馬上で髪を振り乱した足利尊氏像、こちらのモデルは家臣の高師直らしいですね。

福井市には継体天皇の石像がありますが、お顔が巨大でして(四頭身くらい)、なんでも下から見上げても顔がよく見えるようにとの配慮だとか。
もちろん史料がありませんから、お姿は全くの想像です(笑)。
Posted by 管理人 at 2006年07月04日 21:30
【神護寺の国宝・源頼朝像は、実は足利直義ではないかとの説がありますね。
馬上で髪を振り乱した足利尊氏像、こちらのモデルは家臣の高師直らしいですね。】→

北条時代に元の大軍が南宋を席捲したとき、多くのボートピープルがニポンへ脱出した由です。としたら、あの荒々しい足利幕府は台湾へ逃げ込んだ蒋介石のような者たちかもしれませんね。

お説のような、色白で、のっぺりとして下がり目の尊氏像でしたか直義像でしたか、定かではありませんが、テレビで見た記憶が在ります。そう、頼朝像に似ていますね。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月05日 10:39
歴史上有名な人物の肖像画が、別の人物を描いたものかもしれない…
宮内庁認定の天皇陵が、別の人物のお墓かもしれない…
わずか四代前の天皇が、暗殺された可能性がある…

我々が学校で学んだ歴史って何だったんでしょう?
それだけ日本史には未解明の部分が多く、これからも常識が覆る可能性がありそうです。

我々素人が空想を楽しむ余地が、まだまだ残されていますね!
Posted by 管理人 at 2006年07月05日 22:26
初めてお邪魔します。宮内庁は天皇陵を考古学的・科学的に調査して、
現在に至る天皇家の血筋が脈々と続いていることを国民に明らかにする
義務があると思うのですが、どうして科学的調査を拒んでいるんでしょう。
万世一系の貴重な天皇家の血筋を守らなくてはならない、という根拠が
今のままでは、ものすごく薄弱なものだと感じています。
Posted by リリーマルレーン at 2006年07月06日 00:07
http://www.takenoma.com/labo-lonbun-05.htm
竹田氏は孝明天皇暗殺論者ですね。】

管理人からご案内いただいたノブレス・オブリージュ竹田 恒泰氏の上記のホ−ムペイジを開けてびっくり玉手箱、暗殺の生々しい描写にびっくりしました。
これだから科学的調査を遠ざけているのでしょうねぇ。
多分ニポン歴史はこれらの連続かも?
天皇一族の竹田恒泰氏なればこそ、ここまで突っ込んで、自分のホーム頁で詳述できるのでしょう!

これからの活躍が面白くなりそうですねぇ?
Posted by エノク&トマス at 2006年07月06日 14:18
これはこれは、リリーマルレーン様!いらっしゃいませ。

少なくとも1500年以上(系統が確実に遡れるのが第26代継体天皇以降だとしても)、125代にも渡って存続してきた王室は、世界広しといえども日本の皇室だけ。
皇室の存在は、日本の生きた歴史年表、生きた博物館であると思います。
天皇陵の存在こそ、歴代の天皇が神話のなかの存在ではなく、この日本列島に足跡を刻んだ証のはず。学術的な検証がなされることを望みます。
検証の結果、日本の歴史に王朝交代が認められたとしても、天皇の称号(当初は大王)が連綿と受け継がれてきた歴史の重みに変わりはなく、国民の皇室への敬意と親しみが薄れることはないと思います。

これは素人である私の推理ですが、たとえ神武天皇が架空の天皇だったとしても、そのモデルとなったイワレヒコ(神武天皇の本名)にあたる人物は実在したのではないか思います(つまり、まだ天皇と呼べる程の力はない、皇室の祖先にあたる豪族の長)。
初期の天皇たちが百数十歳もの長寿を保ったことが架空の人物だった証拠だという意見もありましょうが、だったらもっと多くの架空の天皇をでっち上げて一人一人の在位年数を短くする方が自然です。


エノク&トマス様

学校で習う日本史では、歴代天皇で暗殺されたのは第32代崇峻天皇が唯一でした。
明治維新への大きなターニング・ポイントとなった、公武合体派で鎖国派である孝明天皇の崩御。ほんの百数十年前のことなのに、歴史の真相はいまだ闇のなかですね。
孝明天皇暗殺が教科書に明記される日は近いのでしょうか…
Posted by 管理人 at 2006年07月06日 23:39
多少の誤謬はあっても、学術的研究がもたらす効果のほうがはるかに大きいようですね。
だれか宮内庁の方とお知り合いはいないんですか?

不思議なこのブログ空間を漂っていると、管理人さんが広い階層の方々と
仲良くしていてもおかしくないような気持ちになります。(^^♪
Posted by リリーマルレーン at 2006年07月07日 07:31
古事記では歴代名をすべて天皇号で統一していないんですね。
「スメラミコト」などの国訓が伝えられていますが、「テンノウ」という音読がいつ始まったかは不明のようです。
「スメラミコト」とは「サマルカンド」のサマルが集まる、カンドが街角、人の集まる場所がサマルカンド。
スメラとサマルは同じ意味で、集まるの意があり、ミコトは人間。
つまり、人が集まる人間のことをスメラミコト。
そのような説明を受けております。
サマルカンド (Samarkand) は中央アジア、ウズベキスタンの古都。アムダリヤ川の支流であるゼラフシャン川河岸です。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月07日 11:59
リリーマルレーン様

宮内庁の方、見てますか〜(笑)

天皇家の歴史を、神話ではなく科学として語れることが「開かれた皇室」なのでしょうね。
私は皇室をワイドショー的な好奇心の対象とする「開かれた皇室」には反対です。皇室の日常は、むしろ神秘のベールに包まれていた方がいいくらいです。


エノク&トマス様

サマルカンドといえば、シルクロードの一大交易拠点ですね。

当blogでは以前、栗本慎一郎の『シリウスの都・飛鳥』をご紹介しました。
http://blogs.dion.ne.jp/fujun/archives/2335204.html
栗本説では、祭祀と政治が分離した天皇という王権の由来を、遊牧民の双分制に求めています。それを日本にもたらしたのが、遊牧民にルーツをもつ蘇我氏であると。
また、当blogの常連コメンテーター・おおくぼ様は、聖徳太子=西突厥の達頭であるという、小林恵子説を紹介してくださいました。
これらの説の当否はともかく、ユーラシア大陸を縦横無尽に駆け抜けた遊牧民の文化が、古代日本にも何らかの形で伝わっていたのかもしれませんね。
Posted by 管理人 at 2006年07月08日 01:13
今年は紀元2666年に当たります。
近隣で2666年前、斉の桓公(BC685〜643)は25歳で王に就任した。この方が神武天皇ではないでしょうか?墨子(墨家)築城戦争集団が配下におり大陸を支配できたようです。
下って、斎の流れだという梁や陳は随唐の台頭を前に、ニポンへ逃れます。梁の武帝は就任早々のAD502年越(倭)王を征東大将軍に任命して、国外逃亡の手立てを講じます。この征東大将軍が継体天皇であれば年令のつじづまがあいます。589年陳滅び。梁陳揃ってニポンへ移住したように思えてなりません?
ニポンでは、AD587物部氏の青銅器集団が、梁陳の鉄器集団の前に滅びます。そして、593推古天皇、聖徳太子の摂政時代のはじまりです。
隋や唐は身内ではないので交流を絶ちましたが、のちの南宋は身内なので元に駆逐されたとき、ニポンへ迎え入れたように思われます。

伊勢神宮の灯篭にはカゴメ印(ユダヤの六星)、伊勢湾の海女のパンツにもにカゴメ印(六星)、遷宮儀式の大工の衣装帽子には菊のご紋ではなくて「太一」つまりラクダ商人の神様である北斗七星の太一信仰が見られます。

突飛ですが、ヒトコブラクダの旅商人国家であるアラム国が滅び(BC732)、そして、シリア文明の一員である北イスラエルの民が逃げ込んだ先が、中国で斉の国を建国したと思うのですがどうでしょうか?ご高見をお聞かせください。

アッシリアの鉄器文明に圧倒されて滅びたけれど、みようみまねの鉄器文明で、未開の東アジアに君臨できたように思えるのですが?
雑ぱくの非礼を詫びます。



Posted by エノク&トマス at 2006年07月09日 15:45
私もユーラシアの遊牧民族やシルクロードの交易民に興味がありますが、いまだ全く整理できておりませんので、エノク&トマス様の満足いくお答えは残念ながらできません。

フン族が匈奴と同族だったとか、漢すら匈奴の支配下であったとの説もあり、遊牧民族が歴史に与えたインパクトは非常に大きいと思っています。その一派が日本の古代氏族の祖のひとつであったとしても、おかしくはありません。
ただ、日本海がフビライの野望を阻んだように、そう簡単に遊牧民族が馬を船に乗り換えられたとも思えません。騎馬民族征服王朝が成立した証拠がないと言うなら、そうなのでしょう。
しかし、天皇陵の科学的調査がなされれば、事態は大きく変わるかもしれません。

神武天皇のモデルが実際にB.C.660年に即位した人物となると、神武127歳をはじめ古代の天皇は軒並み100歳以上の長寿になってしまいますね…。もちろん、間に断絶がなかった場合ですが。

栗本慎一郎も、古代の祭祀遺跡の位置が、北極星を基準にしているとの説を提唱しています。
スメラミコトの語源を、スメラはシュメールの変化だとする話もありますね。
日猶同祖論まで話題が広がると、とても私の手には負えません…(笑)
Posted by 管理人 at 2006年07月10日 21:15
追記:太一信仰
吉野裕子氏は、伊勢神宮の祭神が古代中国の太一・天帝と習合していることを主張している。つまり、伊雑宮の御田植神事の当たって、その神田に立てる巨大な扇に「太一」の文字が墨書されてきた。
また、遷宮に際して、ご神体を被うのに使用される複製厳禁の秘紋とされた「屋形文錦」の図柄は、中国式の宮殿であること。しかもその秘紋は、「皇天常住の本居の義」とされてきた。などを理由に、同氏は、アマテラスと太一・天帝との習合を指摘している。

併せて、伊勢の内宮正殿の、床下中央の「心御柱」も太一思想と深いかかわりのあることを主張している。

1910年(明治43年)12月、大逆事件の公判が終わりに近づいた時、裁判長から、大罪なるぞっ、ときめつけられた幸徳秋水は「今の天皇は南朝の天子を殺して三種の神器を奪い取った北朝の天子の子孫ではないか。それを殺すのが何故それほどの大罪か」と言い放った。
裁判長は返す言葉もなく黙り込み、法廷は大混乱におちいったという。
血筋からいえば、南朝の後醍醐天皇(96代)と昭和天皇(124代)は同じ祖先を持つとはいえ、厳密に言えば血のつながりはない。(正論1989年6月号)

万世一系は事ほど左様に難しいようですね。

Posted by エノク&トマス at 2006年07月10日 21:30
追記:
古代の年令が、旧約聖書では600歳から900歳まで長命者が続いておりますが、今と同じ10進法ではなくて、4進法、20進法、40進法などさまざまなので、専門家は、どの民族が何進法を使っていたか、分かっているようです。
専門学者が平易な解説書を出版してくれたら、天皇陵の科学的メス(調査)で空白の歴史が埋まるように、われわれ市民の単純な疑問が、空白が解明されるでしょう。ニポンの御用学者に期待するのは無駄でしょうか?(笑い)
Posted by エノク&トマス at 2006年07月10日 21:46
エノク&トマス様に教えていただいた御田植神事をGoogleで検索して(ググって?)、太一と書かれた巨大団扇(?)の写真を拝見しました。結構迫力ありますね!

天照大神といえば太陽神というのが一般的ですが、星の神様の性格もあるようですね。
シルクロードの終着点・日本。
北極星を祀る星辰信仰を我が国にもたらしたのは、どのような民族だったのでしょうか。

このたびの対話を通して、ユーラシアの民族の興亡をおさらいする必要を感じました。
高校の世界史用語集を引っ張り出さねば(笑)
Posted by 管理人 at 2006年07月11日 21:52
有意義な対話に感謝します。
ヒマさえあれば、「世界史年表・地図」吉川弘文舘1,300円。地図を眺めております。
勝者劣敗、敗退民族が逃亡する足跡、敗者のずるさが見えてくるので、厭きません。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月12日 05:35
エノク&トマス様

実は私、NHK教育テレビの高校講座「世界史」、ラジオの高校講座「現代社会」「倫理」を視聴しております。
私が十代で体験した、東欧の民主化や湾岸戦争が、既に歴史になっていました(笑)
今の高校生が生まれた頃の出来事ですね。

そう言えば、秦の始皇帝時代の徐福伝説を、神武東征のモデルとする説も根強くありますね。
徐福は実在した人物のようです。
Posted by 管理人 at 2006年07月12日 22:34
徐福はスケールが小さいですね。延命だなんて。
東アジアを永年支配し続け、ニポンに逃げ込んで尚支配し続ける実体は何者か?
延命の秦の始皇帝は、隣国の趙で部下に毒殺された哀れなピエロです。
実質支配者ではないと思っています。
だましのピエロです。
そう思いませんか?
斉の桓公(BC685〜643)に、私はこだわっています。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月13日 08:36
エノク&トマス様

過去があるから、今がある。
すべての知は歴史学であるというのが、私の信念でございます。
宇宙の誕生から、生命の進化、文明の誕生…神の視点で、すべてを映画のように早送りで見ることができたなら…
これが私の最大の欲望です。

神武天皇とは誰なのか?
歴史の真相を目指して一緒に走り続けましょう!
Posted by 管理人 at 2006年07月13日 23:27
秦の始皇帝は幼名を政といい、荘襄王の子供といわれており、実は、河南王家出身でガド族の豪商呂不韋の実子でした。
政略的見地で、呂不韋に因果を含められ荘襄王の養子となりました。

イサクの子、ヤコブは4人の妻を持ち、その一人、妻ジルバの子はガド、アシェルでした。このガド族の流れが豪商呂不韋というわけです。

管理人さんもご存知の通り、ジンギスカンを支えた色目人の筆頭はウイグル族でしたが、ヘブライ人やユダヤ人など二十数族の民が支えて、中国からユウラシア大陸の制覇に貢献しました。

楊貴妃も江南の踊りのうまい娘が、名家の養子にさせられてから、皇帝の長男に嫁ぎ、破綻後、皇帝の嫁になりました。

イエズス会の中国からの手紙にも、身なりは普通の百姓だが、実は私はヘブライ人です、と告白する中国人を観察して報告しております。

中国人は、良く笑います→ニポン人は何にも知らされていないからなぁ!
ニポン語が障害になっているのです。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月16日 11:47
エノク&トマス様

日本語は、私が高校生の時の現代社会の教科書(もしくは資料集)には「ウラル・アルタイ語族」であると書かれていましたが、現在では他に近縁言語のない独立語であるとされています(今の高校の教科書はどうなんでしょう?)。
さまざまな民族の言葉の集合体だからこそ、日本語は独自の進化を遂げたのでしょうか。


漢民族というのは、曖昧な民族カテゴリーですね。
楊貴妃の活躍した「唐」も、皇帝が楊貴妃と同じ姓の「隋」も、一般には漢民族王朝だと思われていますが、李氏も楊氏も鮮卑系のようです。


Posted by 管理人 at 2006年07月16日 22:37
ウル・シュメール語のUMU(ウム)は名詞の場合は(母)、動詞の場合は(産む)。ニポン語の産む(UMU)はシュメール語そのままですね。東(ヒガシ、アズマ)西(ニシ)もシュメール語やバビロニア語からの訛りですね。こっちだ、あっちだ、こちら、あちら、こなた、あなた(かなた)、方向を示すニポン語も同じですね。

ひ(い)、ふ(う)、み(い)という数え方の語源は古代ヘブライ語の言葉と同じですね。

ひらがなは漢字から派生したと考えられておりますが、カタカナそのものは、イスラエルの遺跡から発見されております。ヘブライ語と日本語、字形と呼び名(発音)が同じです。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月17日 02:30
追記:
隋唐時代に支那に来住した西域人について→
隋唐の支配者は、鮮卑族とのご指摘ですが、確かに万里の長城の守備隊長の出だと書かれております。
この時代は南船北馬が盛んでして、隋になってから全国に「薩宝府」が置かれました。其処には、「胡」と呼ばれた、中央アジアのソグディアナ地方から四方に商人として、活動雄飛したイラン(パルチア)系のソグド人(胡人)が配置されました。
薩宝として知られる例が、「安氏」(ソグディアナの安国出身)、「康氏」(同サマルカンド)、「米氏」(同マイムルク)です。
6〜8世紀のシルクロードを通じる交易・文化交流を担ったのです。
南船時代到来で、河南へ押しかけました。
楊貴妃は、このような胡人の舞姫でした(719〜756年)。

薩宝の原語→商主・隊商のリーダーを意味するSarthavaho(サンスクリット語)、Sartpau(ウイグル語)→斉隋の薩甫・薩保は胡200戸已上の州に一人を置く、彼らは胡人の監督に任じていた。唐の薩宝も&#31045;(示す偏に夭を書きます)神を信仰する胡人集団の統率者を任じていた。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月17日 10:08
仮名文字のルーツも不思議ですね。
ひらがな・カタカナを発明したのは、空海だとか吉備真備だとかという話を聞いたことがありますが、これは俗説なんでしょうか?

楊貴妃時代の唐といえば、安史の乱の安録山を思い出します。
彼はソグド人ですね。
Posted by 管理人 at 2006年07月17日 19:56
昔、モンゴル周縁に沢山いたウイグル族は、現在は、新疆省からソグディアナ地方を占有しています。
「安氏」(ソグディアナの安国出身)が安録山であり、伊藤博文を殺害したのも安重根「安氏」、ソグド人即ウイグル族です。
私が思うのですが、『札幌(サッポロ)』は薩宝の原語→商主・隊商のリーダーを意味するSarthavaho(サンスクリット語)、Sartpau(ウイグル語)→サッポロ。つまり、黒竜江から下ってきた隊商の、極東最果ての終着駅だろうと見ています。
ニポンの錦の御旗は、西からではなくて、東北から来ていました。
義経が東北北海道からモンゴルへ、そして、ジンギスカン神話になったルートです。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月18日 11:31
エノク&トマス様

最近のNHK教育テレビ『高校講座・世界史』が、シルクロードの商業民族ソグド人をテーマにしていました。
唐だとかローマ帝国だとかの国の枠を取り払って、民族の大きな動きを通して世界史を見つめることは面白いですね。

非業の死を遂げた英雄が、どこかで生きているという伝説は数多くありますね。
源義経以外にも、明智光秀が天海僧正になったとか、豊臣秀頼が九州へ落ち延びたとか・・・
ただ、義経=ジンギスカン説は、明治時代に小谷部全一郎が書いたフィクションです。
Posted by 管理人 at 2006年07月18日 12:58
豊臣秀頼の立派なお墓が薩摩にあるので、あるいはそうかも知れません。
あるいは、残党が逃げ込んで造ったのかもしれません。
島津藩は豊臣側でしたから、、、いずれも出自を暗示させます。
同じ、蜂室夷の出だからかもしれません。
明智も秀吉も蜂須賀も山縣も蜂屋・蜂谷の出身ですね。土岐蜂谷、毛利蜂屋、山縣蜂屋など蜂屋冠者。
室夷⇒満州、世界史地図(吉川弘文舘18頁〜24)7世紀後半〜11世紀後半まで記載あり、
この間ニポンへ移住したので、消えたのでしょう、多分。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月19日 08:23
エノク&トマス様

「室夷」を検索しましたところ「地球市民点描」の過去記事のみがヒットしました。「室夷」がいかなる民族なのか、御教示いただければ幸いです。
Posted by 管理人 at 2006年07月19日 23:23
敬愛する 管理人様
白鳥庫吉(1865〜1942)。白鳥庫吉全集(全十巻、昭和44〜46年岩波書店)。明治41年にはみずから満洲の南北を跋渉して遺跡の調査にあたり、大正13年には東洋文庫を設立してその運営を指導するなど、近代の東洋学研究事業の創唱と推進との先頭に立って活躍した。

PHP文庫→豊臣秀吉。この文庫本によれば、信長が殺された頃、秀吉は高松城ほか、毛利支配地域の殲滅作戦に従事していた。蜂屋である自分の出自、父親のいた城を、徹底的に潰滅して、証拠隠滅が目的であったと、詳述されてあります。毛利藩では蜂屋忍者が大活躍していた由です。

平凡社が戦前に刊行した「世界歴史(百科?)辞典、全20巻前後」が便利です。

香道の志野流は蜂谷家。千宗易(利休)は一族。(国史大辞典7巻37頁、吉川弘文舘)。

歴史と旅(昭和55年4月号159頁、蜂屋・頼光流)詳述。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月21日 07:37
エノク&トマス様、ご返答ありがとうございます。

蜂屋とは、尼子氏が抱えていた蜂屋衆なる間者集団のことなのでしょうか?

豊臣秀吉は木下弥右衛門の子といいますが、Wikipediaで見てみますと、その出自は謎に包まれているようですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

戦国時代は、家系図偽造が大流行した時代だそうです。
徳川家康は当初は藤原氏を名乗っていたものの、清和源氏・新田氏の傍流である徳川(得川)氏につながる系図を偽造し、松平から徳川へ改姓したといわれています。
織田信長は平氏を自称しましたが、これは平氏→源氏→北条氏(平氏)→足利氏(源氏)と政権が移動する源平交代思想に依拠しているのだとか。
また、秀吉関白任官の際は、関白位には藤原摂関家のみが就くという不文律があるために、摂関家の養子となっています。
Posted by 管理人 at 2006年07月21日 22:56
敬愛する管理人様
昔、雑誌NATURE(?)で血液型から観る東アジアのルーツ構造、を見たとき。
ニポンは、中国河南(昔の南宋、陳、梁、東晋)地方でした。
満州は、インドと同じ、と分類されてありました。

満州とは文殊がイギリスでなまって満州になったと、説明がありました。つまりインド的仏教王国なのかもしれません。
想像逞しくしますのに、インド系仏教王国の亀慈国が崩壊したとき、東晋へ流れて、東晋から百済高句麗経由でニホンへ仏教が伝わりました。
室夷の民族的構成は謎に包まれておるようですが、突如出現し、その後消えております。亀慈国の人びとではないのだろうか?

千利休や秀吉や光秀や山縣や、それに、蜂須賀小六は蜂の長(おさ=須賀=蘇我)でしょうと思うのです、渤海や高句麗や女真とは異なるように思えてなりません、どうでしょうか?

福沢諭吉は28歳で中津藩士江戸定府土岐太郎八の次女錦(17歳)と結婚し四男五女を得ました。土岐は、多分、明智光秀の出自と同じく土岐蜂屋の一族のように思われます。

その中津市に接近して豊前市があります。豊前市の合併の歴史を見ますと、八屋町が主体で、近村を合併しながら、宇島市となり、更に合併を繰り返して豊前市となり今日に至っています、その中心は八屋町のようです。
藤原純友の乱が発生したとき、中津には鎮西府がおかれて、京都の小野、小笠原軍団駐留以降、常駐し続けた近衛軍団、その由緒ある場所のようですから、この八屋町も由緒ある地域のように思われてなりません。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月23日 16:29
エノク&トマス様

日本人の起源論争において、血液型よりも私が関心を持っているのは、ATL(成人T細胞白血病)ウイルスキャリアの分布です。
ATLウイルスキャリアの多い地域(沖縄・九州南部・五島列島・隠岐・四国・紀伊半島・三陸海岸・北海道先住民…等)が、原日本人=縄文人の血を色濃く残す地域であるという説です。
中国・朝鮮半島には、ATLキャリアはほとんど見られません。

追記;土岐氏は、清和源氏の足利氏一門ではないのですか?

Posted by 管理人 at 2006年07月23日 17:26
土岐氏は、清和源氏の一門です。
となれば、清和源氏が満州北部の室夷でしょうか?
5世紀後半、亀茲がエフタルや突厥に一掃されると、7世紀後半に北満州に室夷が現れます。200年かかって移動したのではないでしょうか?12世紀末の地図には室夷の記載が消えます。
亀茲の移動について、諸本があれば精読したいですね。

岩槻 の大慈恩寺には玄奘の骨があります。 玄奘は長安の大慈恩寺に帰り、六十三歳でその生涯を閉じた。昭和十七年、南京駐留の日本軍が玄奘三蔵法師のご霊骨を発掘し、その分骨が日本仏教会に贈られ、現在、ここの石造十三重の塔に納められています。東武の根津一族とか、大正製薬一族とか政財界人が大切にしています。庭園には、インドの鉄の灯篭があり錆びない鉄を自慢しています。これらも亀茲国人の流れではないでしょうか?


そして平家は河南でしょうか?
久留米の箱崎神宮(水天宮)が平家の安徳天皇のお社です。
明治維新で平家の時代になったのだと、箱崎神宮の宮司「岩崎さん」の祖先が、東京へ水天宮を移した、と自慢していました。
今では、その水天宮が、その意味で、成田空港へのシャトルバスの発着ターミナルになったようです。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月24日 20:06
追記:箱崎神宮(水天宮)の在る久留米市の友好都市(姉妹都市)は、長江中流域の安徽省(あんきしょう,アンフイ:Anhui)の省都、合肥市です。
その点で、わたしが思いますには、元が征圧した長江の水軍が、平家のルーツではないだろうか?
長江水軍を屈服させ、本格的な南宋征圧に着手する前に、服従した長江水軍を引き連れてニポンを叩き(背後から襲われないないように)、そして、南宋を征圧した後、もう一度、ニポンに駄目押しの一撃を加えてから、中央アジアに牙を向けた。
昔、NHKとバイエルン放送との共同制作に成るジンギスカン長時間番組を見たとき、そのような解説がありました。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月25日 16:34
日本の古代史は中国・朝鮮半島史のコピーであり、さらに中国古代史はオリエント史のコピーであるとの「借史」説を唱えた、鹿島昇なる人物がおります(故人)。
「明治天皇=大室寅之祐」説を提唱したのも、鹿島昇です。

しかし鹿島が依拠した『契丹古伝』や『桓壇古記』は偽書であり、彼の著書はいわゆる「トンデモ本」との評価を受けています。

エノク&トマス様は、鹿島昇をご存知でしょうか?
Posted by 管理人 at 2006年07月25日 22:51
拝復
「裏切られた三人の天皇」を薦められたことがあります。
孝明天皇殺害場面は、竹田氏のホーム頁と酷似しています。
疑問は二つ
1)伊藤と大久保と3人が半年間雲隠れした。片付けて出てきた。前二者は口封じ。生き残った3人目の直系宅で可愛がられた(学生時代)と語る男から耳にしたことを想起?
2)長野市周辺に大室古墳群があります。陸上南北交易のポイントを支配した大室古墳の人びとが、南船時代の瀬戸内海交易の要所である田布施地区支配に切り替えて、移動したのだろうか?陸も海も手放さない強力な列島支配の原型風姿?
大室古墳群はどこから来た人びとでしょうか?
善光寺を造った百済と関係ありでしょうか?
下って、川中島の戦いは、百済所領を原住民から守るために、武田軍団(新羅)と上杉軍団(金毘羅)、戦争ごっこで蹴散らかした。と近隣有力者から耳にしたこと、想起します。
現長野県知事の人種的人相身体皮膚の色、それを支援する目に見えない軍団、なにかヒントが得られませんでしょうか?

(パルチア帝国を想起するはたらき連想)
Posted by エノク&トマス at 2006年07月26日 06:43
追記
管理人様がおっしゃる⇒
「明治天皇=大室寅之祐」説を提唱したのも、鹿島昇です。

管理人様との交流を通して、なぜ?大室寅之祐なのか?
なぜ?大室古墳群なのか?
大室の室は、室夷の室、に通じる、不思議に思いました。

大室寅之祐の出自が、チャットに書かれてありました。
その者は、初めの頃はあたりをはばかり「G」と伏字でしたが、最近は「地家」と姓を名乗っています。
知友に聞いたら、「地家」とか「土屋」と言う姓は、土着の有力者なのだそうです。
大室寅之祐の場合は、西本願寺系でしたか、その寺の娘と「地家」との間に生まれた男の子が大室寅之祐であり、娘はこの子を連れて、病弱名門の大室家へ嫁いだ。弟妹ができた、その流れが橋龍だと、縷々解説がありました。
種を蒔いた、「地家」の男は、貿易など営み発展した由。

Posted by エノク&トマス at 2006年07月27日 13:27
エノク&トマス様

個人的な感想ですが…
・孝明天皇暗殺説⇒可能性大
・明治天皇替え玉(大室寅之祐)説⇒ネタとしては面白い。でも天皇が別人に入れ替わったら判るのでは?

ただ、メディアの発達した現代と違い、当時は天皇陛下のご尊顔を拝めたのはごく一部の側近だけですから、可能性ゼロとは言いません。

竹田恒泰氏によって「孝明天皇暗殺」が白日の下に晒されれば、歴史の真相はおのずと明らかになることでしょう。

Posted by 管理人 at 2006年07月28日 00:27
拝復
お説のように、竹田氏の諸本が待ち遠しいですね。
侍女達に囲まれて、ひよわで外へ出たがらない男が、ある日から突然、銭湯へ入ってごしごし身体を洗ったり、山岡鉄舟へ体当たりして相撲を挑んだり(このときは一刀流の達人鉄舟が一瞬に身をかわしたのでふっとんだ)、馬上の人になったり、急変は奇ですね。
写真映像がない、京都の目線を避けて、東駕したとの説明ですね。
待たれます。
「鉄舟居士の真面目」
付録;拾遺
陛下、更に大杯にて幾杯かを重ね給い、ヤガテ、山岡相撲一番来い。ツト立御あらせられ、山岡立てい立てい。
居士は只管平身低頭せられたので、陛下愈々益々逆鱗あらせられ、ついに御拳を固め、居士の眼を衝かんと勢い込んで飛び掛らせられた。
ソコデ居士拠所無く頭を一寸横へ交わされた。其のはずみに、陛下は居士の身体を掠めさせられ。ドット彼方へ打ち倒れ給い。
ウーン一天万乗の君を投げるとは無礼至極な奴だッ。

陛下は御微傷を負はせられた。某侍従、居士に早速謝罪するがよい。と勧告する。
イヤ小臣に謝罪する筋はござらぬ。
しかし、君が倒れなかったのは良くないであろう。
ソハもっての外の異なり、もし倒れたならば、まさしく相撲を奉ったことになる。元来、君臣が相撲ということはこの上なき不倫な事である。
若し、故意に倒れる者があったとしたならば、ソハみだりに君意に迎合する侫人といわねばならぬ。
陛下が臣下の目玉を砕かせられたとすれば、古今稀有の暴君と呼ばれさせ給はねばならぬ。
陛下はこれを聞こしめされ、黙然としておられたが、ついに、向後相撲と酒とを停める。と仰せだされた。
居士そのまま一ヶ月を経過し、葡萄酒一ダースを献上せられた。
ソコデ、陛下竜顔殊に麗しく、モウ飲んでもよいかとのたまい、居士の面前にてこれを召しあがらせられた。(発行所:全生庵)。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月28日 10:51
追記:
ネパールの事件を想起しますね。
あの皇太子は、利き腕でないほうの手にピストル握って自殺でチョン。疑問を呼びましたね。
皇帝の実弟が君臨している。
殺戮があったパーティでの生き残りは、恐怖におののいて沈黙しています。
暗躍した者たちは、情報封殺に明け暮れたことでしょう。

往時の公家達もさぞ恐怖に慄いたことでしょう。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月28日 11:04
エノク&トマス様

ネパール王族殺害事件、振り返ってみますと実に不可解な事件でした。
犯人の皇太子は、銃で自殺。しかし弾丸は皇太子の背後から撃ち込まれている。
殺害現場は、王族が全員集合するパーティー。なのに王弟(現・国王)は、その場にいなくて無事だった。
事件の黒幕は、その事件で最も利を得た者を疑え!と言いますね。

天皇といえば、皇位継承のレガリア「三種の神器」も興味深いですね。
当Blogでは、高田崇史の歴史ミステリ『QED〜神器封殺』をご紹介しています。
Posted by 管理人 at 2006年07月30日 18:47
おかげさまで、知的散歩をエンジョイさせていただきました。謹謝。

全生庵をご案内します。中曽根総理は此処で座禅していました。
鉄舟忌には中曽根総理も来て、一緒に食事しました。
全生庵は富山の国泰寺の流れです。
http://www.theway.jp/zen/
往時、草鹿海軍中将が、鉄舟無刀流の後継者で、大上段に振りかぶった一撃をもって真珠湾に振り下ろす、戦法を編み出し、実行したと自慢していた由です。歴史の実像は意外に身近に存在するもののようです。

話頭転じますが、秦の始皇帝の神話が崩れつつあるように感じられますが、如何ですか?
映画、暗殺される秦の始皇帝、生き残る暗殺者の子種を宿した女。
テレビ放映4時間映画ノーカット。
米英仏独日中などの国際合作です。
先日は、秦の始皇帝の城が3ヶ月燃え続けたと、燃える映像が放映されました。
また、地球衛星から見た万里の長城、実は、観光ルートの先はちょん切れて山並みだと、実態映像を放映しました、東海大学の地球衛星解読の専門家、老教授の案内で、、。
中国人なら誰一人知らない者はないけれど、多くの日本人は6000km延々とつながっていると思いこまされているのです。
其の点、『QED〜神器封殺』で諸々の幻影の霧を吹き飛ばして欲しいですね。
Posted by エノク&トマス at 2006年07月31日 15:32
エノク&トマス様

俗に中国4000年の歴史と呼ばれるように、秦や漢は確固たる大帝国であり、匈奴などの周辺の野蛮な民族が時々ちょっかいを出してくる…というのがこれまで私が中国史に抱いていたイメージでした。

ところが最近では、匈奴はヨーロッパを脅かしたフン族と同族と思われる、ユーラシア大陸を東西にまたにかけた大勢力であり、むしろ秦や漢が匈奴の支配下にあったのではないかと、認識を改めました。

エノク&トマス様には、このたび数々の資料(史料)をご提示いただきました。私の知識では到底及ばないことばかりで、ご意見に対してご満足いただける回答ができなかったことをお詫びいたします。

高田崇史の『QED』シリーズは、歴史の謎に大胆な推理で迫るとともに、ミステリとしても面白い作品で、私のお気に入りです。
Posted by 管理人 at 2006年07月31日 21:47
拝復 昔、天皇神社近辺を散策しました。歴史は下って信長の父が愛知県津島市を支配したので(全国に3000以上も点在する津島神社=牛頭神社の総本社あり)桶狭間のゲリラ戦では牛頭配下が活躍、今川に大勝、比叡山(牛頭山)の悪僧達をも一掃できた。他方、秀吉は住吉神社と連帯したので西海を支配できた。更に下って、中曽根は香川県の金毘羅様軍団と連帯したので出雲の竹下軍団をホメ殺しで制覇した。
この牛頭山は新羅にではなくて、中央アジアのどこにあるのでしょうか?
http://www.genbu.net/data/oumi/tenno_title.htm
重要文化財 天皇神社本殿明治四十三年八月二十八日指定
 天皇神社は、牛頭天王社と称し、天台宗寺院の鎮守社と伝えられる。祭神は素盞烏尋を祀る。琵琶湖の西岸、大津市和邇中(旧志賀町和迩中)にある。琵琶湖に注ぐ和邇川を2Kmほどさかのぼった場所。現在の社名は、天皇神社だが、もとは牛頭天王社。
当社の本殿と、小野篁神社本殿、小野道風神社本殿はほとんど同じ形で、重要文化財。小野の集落の北にJR湖西線和邇(ワニ)駅あり、和邇川上流には鉄資源採掘のあとが沢山あります。軍事技術的−たとえば鉄−優位性、特異な役割を担った和珥氏は欽明朝以降(六世紀半ば)は春日と名のり、壬申の乱を制した天武天皇が八色姓制定の後、朝臣の筆頭は大三輪君、二番目に大春日君です。ワニ氏の系譜では大宅、粟田、小野、櫟井、柿本(人麻呂)が含まれ当時の最もすすんだ技術的知的グループを形成、また古代史上多数の后妃排出。春日大社。
藤原純友の乱のとき、鎮西府が豊前中津に設営され、小野大将、小笠原副大将が派遣され、代々重要拠点。1717年中津10万石に固定した奥平氏は上野国奥平郷に由来、6代目は家康の女亀姫が嫁した。下級身分の福沢諭吉に学問を伝授した。
奈良盆地北西にも和邇川がありましたか?
Posted by エノク&トマス at 2006年08月02日 08:33
エノク&トマス様

またまた興味深いサイトをご紹介いただき、ありがとうございます。
数々の資料は、どこで見つけられるのでしょうか。
私も『QED』シリーズのタタル君のような、神社マニアを目指そうかな…(←無理)

追記;8月6日、福井県鯖江市で継体天皇シンポジウムが行われるようです。
Posted by 管理人 at 2006年08月03日 21:17
拝復
継体天皇シンポジウムへは、東京からは日帰りで行けそうにありませんので、管理人様のレポートを楽しみにお待ちします。

小泉さんが靖国票田をくわえ込むように、政治家は各地の神社票田の開発に余念がありません。
昔、亀岡の大本本部で夏季修錬会(7日間)に、誘われて着いて行った帰りがけの、かねて念願の和邇川散策でした。

下記ご参考まで

出典:上毛新聞社出版局1978年10月30日発行1,300円也。
TEL0272-51-4341
上州のお宮とお寺。編著者 丸山知良 近藤義雄 )
1)満徳寺 墓(尾島町徳川)52〜53頁。
美智子妃の祖先正田隼人が守護してきた。
2)長楽寺 位牌(尾島町世良田)50〜51頁。
家光が大改修したとき、最初に造営された東照宮は、天海僧正の長楽寺へ移した。天海僧正は東照宮の遷宮の前年に没したが、
3)善昌寺 (新里村新川)102〜103頁。
船田入道善昌が新田義貞の遺骨を持ち帰りここに葬った。
世良田長楽寺の塔頭である大通庵の末寺である。
天海僧正の書簡あり。
Posted by エノク&トマス at 2006年08月04日 08:18
追記
大和(奈良)盆地へ注ぎ込む木津川の流れは、木津町で直角に90度北へ曲げられて、淀川に合流しています。流入を断ち切ったのですね。
大和川は出るほうですから、、。

これは、アムダリア川の流れを砂漠地帯へ変えて、流入を止めたために、アラル海は三分の一に縮小、NASAの航空宇宙写真が見事です。
http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/dem/efs/sat/aral.html
Posted by エノク&トマス at 2006年08月04日 08:56
エノク&トマス様

古代文明の土木技術は、想像以上に高かったようですね。
また、環境破壊によって衰退した古代文明もあろうかと思います。
インドのモヘンジョ・ダロは、レンガを焼くために森林を伐採し過ぎたのが、滅亡の原因だとされています。
中国の砂漠も、歴代王朝の森林伐採で拡大したようですし(以前、おおくぼ様のコメントにあったような・・・)。
大和三山=人口造山説も、決して妄想ではないかもしれませんね。

追記;継体シンポジウムは、私も都合がつかないかもしれないのですが、なんとか資料だけでも入手したいと思います。
Posted by 管理人 at 2006年08月04日 12:57
拝復 大切ですね、資料を是非入手なさってください。
奈良の民俗家からのお話想起、木津川の流路変更で干上がったと、記憶しておりますが、巨椋池へ流入する姿が下記詳述されております。
山城湖だった大昔の名残りとの解説もあります、淀川の向こうに広がる京都盆地とのつながりは考えられないように思いますが、いかがでしょう?
奈良湖の方は、蛇信仰と共に、ニポン開闢の歴史の闇に閉じ込められる、具合の悪さがあるのかもしれませんね。ご参考まで、

http://www.uji.ed.jp/ogura-es/quiz/page3.htm
http://www.e-townuji.jp/article.php?id=6918
巨椋池今昔
巨椋池は京都盆地が巨大な山城湖だった大昔の名残りで、永い年月の地殻変動で北が高く隆起したため、南に水気が集まってできたといわれている。
明治40年に池と川が完全に分離すると、池の水位が急激に減りはじめ、周囲16キロメートル、水面積約794ヘクタールもあった池は水深1メートルを切るようになった。
そこで改めて干拓工事がすすめられ、広大な池は跡形もなくなり、今ではのどかな田園風景が広がっている。
Posted by エノク&トマス at 2006年08月05日 08:33
継体大王即位1500年記念前年祭「継体大王の謎に迫る」に参加しましたので、簡単にご報告いたします。

http://www.fukui-tv.co.jp/from/from_keitai.html

【和田萃・京都教育大学教授】
継体の武力的バックボーンは尾張氏。継体妃・目子媛は尾張草香の娘。
尾張氏が支配していた美濃・金生山は、高純度の赤鉄鉱を産出し、古代の鉄器を分析すれば金生山産かどうか判る。
尾張氏は海部を配下に置き、その水運力が淀川水系支配を可能にした。
美濃の鉄は、のちの壬申の乱でも天武天皇側の大きな力となる。

【白石太一郎・奈良大学教授】
継体陵と考えられている今城塚古墳および宮内庁認定の継体陵は、淀川水系の三島古墳群にある。
一方、継体皇后・手白香皇女(第24代仁賢天皇皇女)の陵墓は、崇神系皇族の陵墓が集中する大和・柳本古墳群にある。
天皇妃のために大規模な陵墓が造営されることも、陵墓が夫の埋葬地でも父の埋葬地(河内)でもない場所にあることも、異例中の異例。これは手白香が前王朝の正統な継承者であることを強調するための陵墓地選択であり、前王朝との血縁を持たない継体は、手白香皇后によって正統性を担保されている。
継体と(皇族ではない)目子媛の間の皇子である安閑・宣化の両天皇は、いずれも仁賢の皇女である皇后と合葬されている。当時の夫婦合葬はこれまた異例であり、父・継体の場合と同様、皇后の血統によって皇位の正統性を保証する処置。
Posted by 管理人 at 2006年08月06日 23:54
拝復
『又聞く、日本天皇及び太子、皇子、ともに崩薨すと(百済本記)』
この月(531年3月)高句麗はその王『安蔵王』を誅殺したが、日本でも天皇、皇太子、皇子が共に亡くなった。継体天皇と大伴金村の政権に対し、新興勢力の蘇我氏の当主、稲目が、若い欽明天皇を奉戴して、継体天皇と皇太子ら3人を殺害し、欽明・蘇我政権をつくりあげた。
一方、大伴金村らは3年後(534年)、安閑、宣化天皇両天皇で対抗、別の王朝を樹立。
内乱状態が続いた。
539年、大伴金村は失脚し、2朝並立時代は終わる。
継体天皇はなぜ殺害されたのでしょうか?

2朝並立のような疑問に対して、シンポジウムの言及解説はありましたでしょうか?
近隣の歴史書との照合確認が求められると思うのですが?
Posted by エノク&トマス at 2006年08月13日 07:51
エノク&トマス様

安閑・宣化朝と欽明朝が同時期に並立していたとの説については、残念なら言及がありませんでした(イベントの性格が、継体天皇即位顕彰による一種の「地域おこし」のため、後の時代は関係ないとして触れなかったのでしょう)。
欽明天皇は、継体天皇と手白香皇后の間の皇子ですから、武烈天皇以前の皇室の血を受け継いでいます。

今回、田中俊明・滋賀県立大学教授が継体朝の外交政策について講演しております。
田中氏はいわゆる「任那四県割譲問題」について、当時の日本は朝鮮半島に領土は持っておらず、百済に「賜る」ことのできる土地などない、「任那四県割譲」とは、百済が自力で任那に侵攻し領土化することを日本側が承認したにすぎない、と述べています。

大伴金村の失脚は、任那問題をはじめとする外交失政であると言われていますね…
Posted by 管理人 at 2006年08月14日 16:40
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