2006年12月23日

なんだったんだ?ゲンダイシソウ

現代思想という言葉は「いま学界や論壇で主流となっている哲学や主義・主張」という意味に解釈できます。
そんな辞書的な解釈とは別に、カギカッコ付きの「現代思想」というもの(ジャンル)が存在しました。
1980年代に一世を風靡した「現代思想」(あるいはニュー・アカデミズム)という名のムーヴメント。日本で現代思想と言えば、むしろこちらの方が一般的かもしれません。



あの「現代思想」(と呼ばれた一種のお祭り)って、一体なんだったのか?
講義してくださるのは、仲正昌樹さんです。
従来の哲学や思想は、人間や社会のありかたを真面目に考えて答えを出そうとしていましたが、近代社会とか人間の理性とかいうものを疑ってかかる「現代思想」には、確信犯的に解答を放棄しているような不真面目さ(?)があるといいます。
また、マスメディアへの頻繁な露出やサブカルチャーへの言及(こうした知の実践スタイルをニュー・アカデミズム、略してニューアカと呼ぶ)も、「現代思想」の学者たちの特徴です。

「現代思想」がブレイクする以前、思想界にはマルクス主義という巨大な勢力がありました。
産業革命以降の近代社会は、資本家が労働者を搾取して資本を増殖させているが、そのうちに搾取できる労働力は次第に減少します(貧困増大の法則)。資本主義は早晩行き詰まり、労働者による革命が起こるのは歴史の必然であると。
しかしながら、労働者が自ら生産した商品を消費することで、資本主義は行き詰まるどころか増殖し続け、マルクス主義では説明できない未曾有の大衆消費社会が到来したのです。

近代的な人間観に最初に揺さぶりをかけたのは、栗本慎一郎でした。栗本は、前近代社会の祝祭における破壊的な消費(ポトラッチ)のように、人間には過剰なモノを蕩尽する欲望があるとし、「生産的に労働する人間」像を否定します。
そして浅田彰は、近代的・資本主義的価値観を維持しようとするパラノ人間に対し、彼らと闘争するのではなく逃走するスキゾ・キッズを礼賛しました。浅田のスキゾ・キッズは、消費社会の発展とともに台頭したフリーのカタカナ職業人(コピーライターや○○コーディネーターなど)の生き方とも一致します。
また、文学においては田中康夫の『なんとなく、クリスタル』が、よりも記号が消費される新しい消費社会を描いています。

では隆盛を極めた「現代思想」が、なぜウケなくなったのでしょうか?
ひとつは、かつて礼賛された組織に縛られないスキゾな生き方が、バブル崩壊後の長期不況によって非常に困難になってきたこと。
もうひとつは、ソ連・東欧諸国の崩壊によるアメリカ一極支配の到来で、新自由主義的な資本主義に対する、マルクス主義的な「ベタな」資本主義批判が復活してきたことです(仲正は「ポストモダンの左旋回」と呼んでいます)。

この本、あとがきも面白いです。
生徒のボランティアを義務化しようとする連中に対し「日本の保守が毛沢東時代の中国を見習ってどうする!?」と突っ込んだり、「安倍総理の“美しい国”は危ない!」と叫ぶサヨクの元気さを気味悪がったりと、左右双方のオメデタイ人々を皮肉っています。

(12月23日読了)


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 21:56| Comment(13) | TrackBack(1) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ニューアカは新しいアカなんです。
ちなみに私はホリエモンと同じく、資本主義者です。

仲正氏の本は、インテリの喧嘩を分析した本が面白かったです。

現代思想は、思想家の研究なのです。福澤諭吉とか二ノ宮尊徳や岡倉天心の研究というのもいいと思いますが、間違いなく流行りません。
Posted by おおくぼ at 2006年12月24日 02:55
おおくぼ様

私はナルシスティックな個人主義の信奉者なので、市場主義者です。
ただ、自己決定が万能ではないことも認めます。
例えば植物状態になった患者に、安楽死や臓器移植を自己決定できるのか?というケースです。
また、市場における勝者は敗者を踏み台にしているわけですから、所得の再分配は認めます。市場には、希望する誰もがプレイヤーとして参加できなければなりません。敗者=即ゲームセットではなく。

「現代思想」が流行ったのは、フランスからの輸入思想であることも大きいかもしれませんね。なんとなく、おしゃれで難解で…
フランス思想界のスターたちが世を去ったことも「現代思想」衰退の一因であると、仲正氏は書いています。



Posted by 管理人 at 2006年12月24日 19:59
そうですね。サルトルやカミュの実存主義も、フランスです。レヴィストロースの構造主義もフランスです。
またフランス思想界のスターが、日本の紹介者から見れば神社のご本尊みたいな役割を果たしていたのでしょう。

でも、「アンチ・オイディプス」(最近、河出文庫から新訳が出ました)など主要な著作は、流行以前から出版されてました。だから潜伏期間があるのです。
またスター達の没年を調べると、バルト(1980)、ラカン(1981)、フーコー(1984)年なので、ニュー・アカ流行の真っ最中に亡くなっています。ドゥルーズ(1995)や、デリダ(2004)の影響が大きいのかも知れません。

フランス思想が難解な理由としては、ヨーロッパ思想史が基礎知識として要求されるからだと思います。デリダやドゥルーズは、過去の思想家を新しく解釈し直したという感じです。しかも、フランスの過去の哲学者というよりは、外国の思想家が多いので、フランス人から見れば輸入思想です。
ラカンの『エクリ 論文集』が出版され、難解にもかかわらずフランスで大ヒットしました。ある批評家は皮肉で、「この本は素晴らしいいので、フランス語訳が出たら是非推薦したい。」と書評したそうです。
Posted by おおくぼ at 2006年12月25日 00:26
>ひとつは、かつて礼賛された組織に縛られないスキゾな生き方が、バブル崩壊後の長期不況によって非常に困難になってきたこと。

ニートやフリーターは、本人の意志とは別に、パラノ型というより、スキゾ型ではないのでしょうか?転職希望者や契約社員も、スキゾ型に近いと思いますけど。
そうすると、スキゾ型の多い世界は不安定な社会ということになります。

極端なことを言うと、パラノ型は江戸時代のような身分制度でしょうか?
Posted by おおくぼ at 2006年12月25日 00:33
おおくぼ様

80年代の「現代思想」には、人間の存在そのものを解明してやろうという強大なパワー(誇大な妄想?)やスケールの大きさが感じられました。それで難解ではあっても、多くの人々の関心を集めたのでしょう。
現在の流行り思想(?)はカルスタとかポスコロになるんでしょうが、ブームには程遠いですね。やはり扱う領域がピンポイントだからでしょうか。
環境倫理や生命倫理も、プラグマティックすぎて、盛り場やお茶の間の話題になりにくいのかもしれません。私は好きですが(笑)

現実の職業生活においては、スキゾな生き方は難しいですね。
当初は肯定的な意味で生まれたフリーターという言葉も、今や意志に反して非正規雇用を強いられている人を指す言葉となっています。
でもITの進歩によって、blogなどでリゾームなコミュニケーションが可能な時代が到来しました。
職場では勤勉実直な近代人、オフはポストモダンなスキゾ・キッズで行きましょう!(笑)
Posted by 管理人 at 2006年12月25日 21:52
>「80年代の「現代思想」には、人間の存在そのものを解明してやろうという強大なパワー(誇大な妄想?)やスケールの大きさが感じられました。」

そすですね。ラカンの精神分析や、レヴィ・ストロースの文化人類学、フコーの考古学がそうですね。サルトルやハイデッガーの実存主義も人間がテーマだと言えますね。

私は最近、山口昌男や小松和彦の本を読み直しています。面白いですね。大塚英志や宮台真司の仕事も、民俗学の現代への応用と言えるでしょう。
Posted by おおくぼ at 2006年12月28日 01:23
おおくぼ様

私の場合は、栗本慎一郎と小松和彦の影響が大きいですね。
前者には生物としての人間という視点に共鳴し、後者には呪術や鬼などの視点からの歴史を学びました。

文化現象を政治的に読み解くカルスタも、民俗学的な手法を用いているのでしょうが、80年代の「現代思想」のような派手さがないですね。学者さんが地味な人ばかりなんでしょうか?
Posted by 管理人 at 2006年12月29日 03:28
学問は本来、地味なもんだと思うんですけど・・・・
Posted by おおくぼ at 2006年12月30日 17:03
おおくぼ様、そうですね…
80年代の「現代思想ブーム」は、やはり異状だったんでしょう。

でも、ポストモダンだとかシミュラークルだとかを、喫茶店でフツーに語れる時代っていうのも羨ましい気がします(笑)
Posted by 管理人 at 2006年12月30日 18:17
羨ましいですけど、私はフツーに語ったことないですヨ。アニメ・オタクみたいな現代思想オタクな人と語り合った経験は何度か有りますが、やはり少数派でした。
でも、あの時代はバブルで、広告業界が注目したということも原因ではないでしょうか?
それ以前の学生運動時代は、マルクス主義や実存主義が流行になったことがありましたけど、精神主義というか原理主義を語りたいという欲望は、みんな持っているのでないでしょうか?

私にとって、ニュー赤の流行は、荒俣宏や中沢新一や松岡正剛の「博識&オカルト」に代表される気がするんですけど。

ところで松岡正剛のサイト「千夜千冊」は面白いですヨ!

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/toc.html
Posted by おおくぼ at 2006年12月30日 20:59
おおくぼ様

私の学生時代(90年代)に現代思想通の方がいまして、松岡正剛が工作舎から出していた雑誌『遊』のコレクションを見せてもらいました。非常に希少な、伝説の雑誌なんだそうです。
民俗学やら東洋思想やら、まさに「博識&オカルト系」の内容でした。あらゆる知を縦横無尽に編集すると、今までとは違った世界が見えてくる…というコンセプトですね。
工作舎の本は杉浦康平の装丁と相俟って、なんとなくポストモダンでおしゃれなイメージがあります。

Posted by 管理人 at 2006年12月31日 11:33
雑誌『遊』は古本屋でたまに見かけます。松岡正剛の本は結構持っています。

ところでポスト・モダンはアメリカの建築業界の用語です。ナチスの影響でドイツのバウハウスのような建築家集団がアメリカに移住し、悪名高い無味乾燥な高層建築を作りました。
その反動で、ヨーロッパの装飾の多い建築様式をミックスしようとして産まれたのがポスト・モダン建築様式です。そのため合理的な建築よりも、デザイン重視の奇妙な建築がたくさん作られました。

だから日本で言えば、合理主義だけでは割り切れないということで、オカルトをミックスするようなものでしょう。だから『帝都物語』はポスト・モダン小説なのです。
Posted by おおくぼ at 2006年12月31日 17:24
おおくぼ様、あけましておめでとうございます。

ポストモダンとプレモダンの差は、一度近代の洗礼を受けたあとで、近代が見落としてしまった前近代的な要素を再び採り入れたということでしょうか。

モダン(近代)の要である自由主義・民主主義・市場主義は、前近代的・反近代的な価値観であっても個人の多様な価値観のひとつとして(実際に近代的な諸制度を破壊する行為以外は)認めるわけですから、モダン(近代)とは懐が深いですね(矛盾をはらんでいるとも言えます)。
Posted by 管理人 at 2007年01月01日 10:06
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