2007年01月23日

古代史の謎・継体天皇

今年は第26代天皇・継体天皇が、507年に河内国の樟葉宮で即位してから1500年になります。
継体天皇は第15代応神天皇五世の孫とされ、第25代武烈天皇が後嗣なく崩御したことで、越前国(近江国説もあり)から擁立されました。
しかし先代天皇との血縁が無く、即位後20年も大和に入らなかったことから、これを王朝交代であるとの見方があります。
ヤマト朝廷成立の謎を解く鍵を握る、継体天皇。
福井県にある継体天皇ゆかりの地を散策して、不純文學交遊界にUPいたしました。

不純文學交遊館「古代史の謎・継体天皇」


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 00:34| Comment(82) | TrackBack(0) | 書を捨てて街へ出る会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
継体天皇ですね!あの像はどこかのサイトで見て、何となくかわいらしい感じだなと思っていました(笑)

わたくしも1ヶ所だけ…。大野市の名水を見にうろついていたとき、全然ノーマークだった木本薬師堂の霊泉に行ったことがあります。何でも継体天皇により発見されたのだとか?http://senshohamada.hp.infoseek.co.jp/mizu/kinomotoyakusi-reisen.htm
越前国と継体天皇…何だか古代のロマンを感じますねー。
Posted by 線翔 at 2007年01月23日 08:30
線翔様

あのかわいらしい四頭身の継体天皇像は、下から見上げてもお顔がよくわかるように大きくしたのだそうです。
髪はオールバックですね(笑)
古代人のヘアスタイルは、髪を頭の左右で結う「みずら」のイメージが強いですが。
古代の歴史上の人物を描いたイラスト等を見ていますと、実際は誰の時代からみずらをやめて冠を被るようになったのか、とても気になります。
TVドラマの戦国武将の姿を観ていても、いつ頃から烏帽子を被らなくなり、いつ頃から月代を剃るのが普通になったのか、こちらも気になります。

継体天皇伝承地のすべてが史実ではなく、名前にあやかっただけのものも多いことでしょう。
しかし、それだけ地元の人に愛されているのだと思います。
Posted by 管理人 at 2007年01月23日 12:55
トラックバックをありがとうございます。私もほそぼそと継体天皇について、調べています。
Posted by 西 博孝 at 2007年01月25日 19:45
通りがかりでカキコさせてもらいます。継体天皇は知れば知るほど謎が深まっていく。。。私は愛知県人なんで尾張との関わりから気になる人物です。
Posted by erbium at 2007年01月25日 23:11
西博孝様、いらっしゃいませ。

継体天皇即位の地・樟葉宮(大阪府枚方市)。
天皇は抵抗勢力によって大和に入れなかったのではなく、淀川の水運を背景に、あえてこの地を選んだとの説があるようですね。
西様のご指摘のように、樟葉宮をまつりごとを行う宮殿ではなく、大和攻略の軍事拠点として見ると、また違った歴史が見えてきそうです。

Posted by 管理人 at 2007年01月26日 21:36
erbium様、いらっしゃいませ。

継体天皇のお妃である目子媛は、東海地方の大豪族・尾張氏の出身(尾張草香の娘)。
昨年福井県で開かれた継体天皇シンポジウムで、和田萃・京都教育大学教授は「尾張氏は高純度の赤鉄鉱を産出する美濃・金生山を支配しており、継体天皇の武力的基盤であった」と話しておりました。
壬申の乱で天武天皇を勝利に導いたのも、尾張氏ですね。
私も、古代国家の成立と鉄との関わりに非常に興味をもっています。
Posted by 管理人 at 2007年01月26日 22:00
fujunさん、こんにちは。
継体さんと息子の安閑・宣化さん三人とも、武烈さんの姉妹を嫁さんにしています。この辺が「大和入りの謎」を解く鍵でしょうか。
また中国正史「梁(6世紀)書」の分析では「扶桑国=大和」「文身国=越」に当たるようで、ご参考になれば。資料を名前(ペンタクロス)にリンクしました。
Posted by ペンタクロス at 2007年01月29日 02:29
こんにちは〜。

樟葉宮は、自宅から歩いて行ける場所にあります。
マンモスなベッドタウンの真ん中に、そこだけ別世界のように、今も存在しています。

私は、個人的には、やはり政権交代ではなかったか?と思っています。
あまりにも不自然なあの系図を見ると、そう思ってしまいます。
Posted by indoor-mama at 2007年01月29日 15:19
ペンタクロス様

継体天皇の皇后・手白香皇女は武烈天皇の姉妹ですから、皇統は女系によって万世一系が保証されていたと考えることができますね。
続く安閑天皇と宣化天皇は、継体天皇と尾張氏出身の目子媛との間の皇子ですが、これまた武烈天皇の姉妹との婚姻で前王朝とつながります。しかもお二方とも皇后と合葬されていますから、世間へのアピールは万全(笑)
欽明天皇は手白香皇女の皇子ですから、こちらは正統性に問題なしですね(笑)

明治天皇も、皇女を宮家に嫁入りさせることによって、宮家との血縁を近づけています。傍系の皇族である宮家が、皇位を継承する場合に備えていたわけですね。
Posted by 管理人 at 2007年01月29日 21:41
indoor-mama様

昨年8月に福井県で開かれた継体天皇シンポジウムには、樟葉宮のある枚方市からも多くの方が参加されていました。枚方市でも継体天皇即位にちなんだ催しはございますでしょうか?

継体天皇の出自を示す「応神天皇五世の孫」とは、なんとも不可思議な系図ですね。どうせなら、もっと近い血統を名乗ればいいのに…
そうなると「応神天皇五世の孫」は、意外と真実なのかも?

神武天皇〜崇神天皇についても、即位を紀元前660年と古く見積もりすぎたために百何十歳もの長寿の天皇が続出するよりも、あと何代か架空の天皇をでっちあげたほうが一人一人の年齢が常識的な数字に収まりますから、実在したのではないかと思います。もちろん「天皇」と呼べる程の実力はまだない、小部族長でしょうが。
Posted by 管理人 at 2007年01月29日 21:59
fujunさん、こんにちは。
系譜は女系でつながっているのにもかかわらず「五世の孫」を持ち出したのは、あくまでも「男系皇統」を演出するためのものだったのでは?どうも今の女系天皇否定主義のようなものが、記紀の創作コンセプトにあったようですね。多分実体は「男系断絶」でしょう。
それから応神は、書紀分析では16ヶ月も神功のお腹にいたことになっており(9月に懐妊を告げられて、翌年12月に出産)、ここでは完全に皇統継承が偽装されていますね。
Posted by ペンタクロス at 2007年01月30日 02:24
ペンタクロス様

継体天皇が皇族の一員であれ赤の他人であれ、初代・神武天皇でも三輪王朝の祖・崇神天皇でも神話の英雄・日本武尊でもなく、なぜ「応神天皇五世の孫」を名乗ったのかが、非常に気になります。
やはり応神天皇が、武烈天皇までの皇統の始祖であるとの認識が、記紀の編纂者にあったからでしょうか。
応神天皇の母・神功皇后は、お腹に石を当てて出産を遅らせたそうですが、これは父親が仲哀天皇ではないことを暗示しているみたいですね(実の父親は住吉大神?武内宿禰?)。
Posted by 管理人 at 2007年01月30日 20:58
fujunさん、こんにちは。
応神王統が新王権だとすれば、それ以前の人物の系統からでは応神王統を継ぐことにはなりませんね。事実、仲哀の五世の孫・倭彦を担ぎ出そうとしたが逃げちゃったことになっています。記紀には綿密な官僚の知恵が張り巡らされていそうです。






Posted by ペンタクロス at 2007年01月31日 11:56
ペンタクロス様

残虐非道の限りを尽くした暴君、武烈天皇。
後継第一候補に推挙されながら、お迎えの軍勢におびえて逃げ出した、倭彦王。
皇位継承の申し出を一度は辞退し、熟慮のうえ即位した継体天皇。
…前二者と比べると、継体がいかにも徳の高い人物に感じられますね。
このへんにも「力ずくで王位を簒奪したわけではありませんよ」との、記紀編纂者の配慮が感じられます。

継体天皇は武力による征服者なのか、有力豪族たちの合議によって共立されたのか、私には断定できません。
しかし、もう一人の大王候補・倭彦王がお迎えの軍勢を見て逃げ出したとの記述には、倭彦王派と男大迹王(継体)派との間に一戦あったのではないかと思わせるものがありますね。
倭彦王の五代前のご先祖・仲哀天皇は、住吉大神の神託を無視したために神の怒りに触れて急死したとされていますが、これまた不審な記述です。
Posted by 管理人 at 2007年01月31日 22:18
トラックバック ありがとうございます。
謎の多い王ですが 越前に本拠があったことは
間違いないようです。
Posted by まさはる at 2007年03月13日 15:47
まさはる様、いらっしゃいませ。

福井県民にとって継体天皇(大王)といえば、なんと言っても「足羽山の石像」ですね。
「継体大王シンポジウム」の資料を見ますと、大王ゆかりの地は県内いたるところにあって、驚いています。
これからも福井県の歴史スポットを訪ねて、UPしていこうと思います。
またお気軽にお立ち寄りください。
Posted by 管理人 at 2007年03月13日 23:26
こんばんは!初めましてかもしれません(ブログ記事は何度か拝見していますが、書き込むのは初めてかも)。樟葉に住んでいます。昨年夏の鯖江市でのシンポジウムに参加しました。足羽山や六呂瀬山古墳群、高向神社など見てきました。こちらでは毎月講師の先生を呼んで、継体朝に関する勉強会が開かれています。シンポジウムで熱く語っておられた青木先生も来てくださいましたよ!
Posted by なむ at 2007年07月13日 00:22
なむ様、いらっしゃいませ。
たびたびのご訪問ありがとうございます(あまり更新していなくて、スミマセン…)。

昨年8月に鯖江市で開かれたシンポジウムは講演内容はもちろん、資料が充実していて良かったですね。カラー冊子の方は、福井県内の史跡めぐりに大変役立っています。
高向神社は民家の間にあって、どこから入っていいのか判りませんでした(笑)

青木豊昭さん(福井県立朝倉氏遺跡資料館長)は、エネルギッシュで面白い方でしたね。枚方市での熱弁ぶりが目に浮かびます。
Posted by 管理人 at 2007年07月14日 00:46
現在は、継体天皇については、王朝交代説はかなり薄らいでいると思います。

たしか、何か遺物が発見されて、それには継体天皇はおろか、欠史八代の部分までの系譜の人物が記載されていたという話です。

欠史八代の部分に関しては、ニニギの系統とアメノホアカリの系統の争いがあったのでは?と思います。(アメノホアカリとニニギは兄弟)

アメノホアカリは別名は、アマテルクニテルヒコといい、全国にある男の太陽神・アマテルに祭られているのは、このアメノホアカリです。
Posted by まつ at 2007年08月24日 11:46
まつ様、いらっしゃいませ。

継体天皇は応神天皇五世の孫、先代の武烈天皇とは10親等離れています。
現代人の感覚では他人ですが、皇族には違いないと言われればそうですね…
室町時代の第101代称光天皇と第102代後花園天皇も、かなり血筋の離れた皇位継承でした。

親子・兄弟で皇位を武力で争った壬申の乱や保元の乱、ふたつの皇統が並立した南北朝の動乱を「王朝交代」とは言いません。
一方で、豪族たちの合意により平和的に擁立されても、先代との血縁がなければ「王朝交代」と呼ばれるのでしょう。
そうなると「王朝交代」の定義自体がよくわかりません(笑)

途中、血統の断絶があろうが架空の人物がいようが、天皇の称号が125代にわたって受け継がれてきたという歴史の重みに対する感慨を、私は失うことはありません。

ところで継体天皇や欠史八代の系譜が記された「遺物」とは、どのようなものなのでしょうか?
思い出されましたら教えてください。
Posted by 管理人 at 2007年08月25日 23:07
倭武{応神}と倭継{継体}ほ異母兄弟で、百済毘有の子等。
継体は、倭武と共に九州から順調に大和の都に入る。
誘致したのは、倭興王君の実の子明。{後の用明}
応神は、興の妹「仲津媛」を后にする。興の后は、王治坂合の娘「兄日女」兄は、草香で、仲津媛の義理兄。
大国主の邇波御諸別{葛城円}は、支配層が二極するのを恐れ暗殺を草香を通して仲津媛に命じるが未遂で大王に話す。
怒った武は、押坂の武器庫の千の剣使用を明に求めるが拒否され騎馬隊で、邇波御諸別の館包囲。仲津媛出産幼武を産む。武に引き渡すが、武の怒り治まらず后共々火矢で焼き討ち。

継は、自分が治めて見せると傲慢さを示した大王であり興の妹目子媛を后とする。邇波御諸別の子出雲王荒田別の子依網{ヨサミ}所謂筑紫磐井を物部目の子荒甲に討伐させる。百済救援反対した為。
邇波依網の子葛城国造垂見所謂筑紫葛子に継と長子安は暗殺される。
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月09日 19:08
王治氏はヲハリと読み。神祇氏族。小+墾+田、宮は王が治める宮の意味。草香は、御諸別{葛城円}の息子荒田別の娘を貰い心が、揺れ動いた為彷徨うを意味する佐迷と呼ばれる。新大倭豊王朝の管轄化になり天武天皇が、尾治に改姓させる。後日尾張。

草香の弟物部目は倭武大王の邇波御諸別を滅ぼした為、大国主族の怒りを買い川上振熊の猛攻撃で敗北。目は振熊を暗殺。父坂合の弓矢隊でその軍隊を壊滅させる。{神武天皇の弓に止まった鳥の輝きの記事}

物部氏は倭武により王治氏の神祇を引き継ぐ事になる。国見をする天香具山を管理する。

当時は古伊勢湾で、大垣や金華山麓迄海で、初期王君族は、王垣から上陸。国見は上陸地を見渡す場所になければならない。
物部守屋の実名は、多治髪で本当は多治見。

岐阜県多治見市富士見町弥勒山がそれである。
金の石碑がきちんと在る。

東海地方が陸地化したのは、聖武天皇の時代以後で、国府宮神社由来書きを調べよ。

使用禁止
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月09日 19:45
邇波言壱様、いらっしゃいませ。

応神(15代)と継体(26代)が異母兄弟とは時代が離れて過ぎていますが、応神が実在した年代はいつ頃とお考えでしょうか?それとも「武」とは、倭の五王「武」とされる雄略(21代)のことでしょうか?
九州で生まれた応神の大和入りを、神武東征のモデルだとする説は目にしたことがあります。
応神・仁徳同一人物説もありますね。竈に煙が立たないのを見て免税した聖帝・仁徳が創作された人物なら、世界最大の陵墓の被葬者は一体誰なのでしょうね。

また「継と長子安の暗殺」とは、『百済本記』の日本の天皇と皇子(継体と安閑?)が同時に死んだとの記述を指しているのでしょうか?

かつて濃尾平野が海であったように、古代の海岸線が現在と大きく違っていたことは重要なご指摘だと思います。
いまは内陸に位置する古墳が築造当時は海岸線に面していたなら、石棺を船で運ぶのも現在の我々が想像するよりも容易だったでしょう。
そして大和盆地もまた、古奈良湖と呼ばれる湖でした。
Posted by 管理人 at 2007年11月10日 23:12
伝仁徳天皇陵は、倭興王君で桓武天皇の日本書記・古事記で、斎主・経津主であり倭武大王を播磨で打ち破った邇波王{大}荒田別に、出雲王朝と三王朝の解体協議させた。出雲大社原型を建立した。

神武の東征は、倭讃王君の元倭武日の子王{大}伴武持将軍にして、邇波彦狭島が先導した。東三河の君子国徐福子孫である夷人制圧である。

夷人は東遷し筑波王国を築くが、邇波竹葉瀬により完全滅亡する。
以後毛人と夷人混血化する。
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月17日 17:31
倭興王君は、倭武の擁護者である。実の息子明{桓武天皇二本で、竹内宿禰・イニシキイリヒコ}も邇波荒田別に破れ手も足も出ず。


継大王と安は桓武天皇編纂二本に記載。継体と安閑で良い。

百済王系天皇正式系譜

百済毘有王-昆支=倭武大王-幼武大王{欽明}-敏大王{敏達}-舒大王{押坂彦人・舒明}-智大王-大智大王。

日本は、日本書記・古事記の二本立て、神社は本殿、寺は本堂の二本立てで日本。本州は、二本の出来事の中心地。
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月17日 17:54
初期天皇族正式系譜


金首露王・倭嘗王君-仁王君-讃王君-隋平西将軍-済王君-興王君-明大王{上宮家}-峻大王-聖大王-建天皇{天武天皇}

王治氏・物部氏正式系譜


金首露王・倭嘗王君-得玉{桓武天皇二本で、国常立尊}-王治弟彦{天香語山}-金-坂合-草香{高倉下}


王治坂合-物部目-荒山-王輿{尾輿}-多治見{多治髪・守屋}-片野田-薦何見-櫛麻呂-弓削道鏡

邇波記使用禁止
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月17日 21:14
倭武とは

雄略も含むのを認めます。事跡を配役を入れ替え世代数を増加させている事を指摘しておきます。

素佐之男は、上宮家では、倭建天皇{天武天皇}

下宮家{百済系}では、倭武大王
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月17日 21:37
継体天皇事跡は一部分

上宮家倭聖大王から借用されたものである。聖徳太子・山背大兄皇子の一部分でも構成されている点を指摘しておく。

倭聖大王は・・・・・・

倭峻大王の子で、峻大王の葛城馬子領地没収により、邇波駒子に暗殺される。
幼い聖は、越の邇波氏族三国氏の元で成人。
馬子に理解を示す。

隋の高句麗征伐に全幅の期待を寄せるが、隋敗北皇帝殺害される。
聖に先立ち隋に遣いを内密に送っていた倭舒は戦いを挑む。

倭聖大王は、少数兵力で互いに戦さに臨む提案を出す。

葛城領を奪われ怒り心頭の邇波氏{東漢氏}は、倭舒に味方して倭聖大王敗北。
倭聖の将軍物部多治見戦死。

再起を図ろうと述べた三輪文屋の助言にこれ以上の死者を出したくないと言い捕縛され、斑鳩宮に幽閉され毒殺される。

巫女で后の佐富{桓武天皇二本では、宝で皇極・斉明}は、息子建と引き離され母として悲しみの歌を作る。建は泣き喚く。
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月17日 22:03
邇波言壱様

浅学な管理人にとっては非常に難解ですが、邇波様の意図するところは、古代天皇の系譜には「日本土着大王家」と「百済渡来大王家」の二本ある(まさしく日本史?)との解釈でよろしいでしょうか。
また「桓武天皇二本」とは、桓武時代に二本の皇統が統一されたことと、続日本紀が編まれたことを意味しているのでしょうか。

ハレとケ、国津神と天津神、朝廷と幕府のように、確かに日本はふたつを並立させることが多いですね。また天皇家と出雲国造家が、まるでコインの表裏のように太古の神事を継承しているのも面白いです。

神武即位を紀元前660年にしてしまったため、初期の天皇は異常なまでに長寿であり、実在性が乏しいとされています。
しかし無理やり長寿にするくらいなら、もっと多くの架空の天皇をでっちあげて、一代あたりを常識的な在位年数にする方が自然でしょう。そうなると、全ての天皇になんらかの実在のモデルがいたと考えることもできます。
…素人考えですけど(笑)
おっしゃるように複数の天皇に似た事績が見られたり、名前だけで事績が乏しい天皇が見られるのは、世代数を水増しさせているからだと思われます。

古代天皇の系譜に、百済王家の系譜が交錯しているのかどうか、私には全く判りません。
ただ、乙巳の変における「韓人が鞍作臣を殺した」との記述について、私は中臣鎌足が百済王子・豊璋ではないかとの疑いを持っています。

追記;一部コメントの「使用禁止」が意味するところは、邇波様のオリジナルな学説とのことでしょうか。それとも邇波家に残る門外不出の家伝が出典とのことでしょうか。
Posted by 管理人 at 2007年11月18日 00:56
二本・・日本書記と古事記は、桓武天皇時代編纂完了。

百済王族

毘有王-昆支-武寧王-聖王--略-義慈王-豊=不比等{倭智大王の孕んだ后を賜る}

百済不比等は、倭智大王が、拉致暗殺された時拘束される。

妹の持統天皇の簡素即位式は、不比等の自宅。

邇波氏族の中臣大嶋は、壬申の乱で三河守備、草壁皇子と。


壬申の乱功績で、天武天皇から、藤原姓賜り衣、袴、額田王戴く。

三河で、草壁皇子暗殺・・持統天皇は、天武天皇三河居住中関係した御落胤狩りを行い藤原大嶋咎を認め許される。草壁皇子を弔い鹿砥{咎}神社建立。百済不比等は、天武天皇御落胤宮子助命養女として、藤原大嶋は、名誉ある藤原姓譲渡。自らは草鹿砥公宣と名乗る。
{日下部氏}
藤原不比等は、豪族に藤原姓使用を禁ずる。

全て家伝使用禁止。

Posted by 邇波言壱 at 2007年11月18日 21:27
桓武天皇は、井上内親王幽閉毒殺関与。初期大王族を消滅させる。
独裁政権にする。後宮を多く派手に持つ。記紀の記述から、民衆の反発を恐れ遷都平安京。
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月18日 21:42
一代の寿命を長くしているのは、記紀の参考書が、聖書だからだ。
聖書を読め。

女性の子は、イエスキリストが、人の子と呼ばれた事に由来する。

米国大統領が宣誓する時聖書に手を置く。
本当?と聞くのは此処から出ている。
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月18日 21:52
正式邇波{蘇我=記紀創作}氏系譜。

邇波道主-八綱田{出雲王朝}-彦狭島-御諸別-荒田別-依網-葛城垂見--馬背-馬子-鞍作毛人{蘇我毛人・入鹿・豊浦}-宗形鳥麻呂{役小角}

毛人の娘庄子は、天武天皇の后で倭建知{桓武二本で高市皇子}を産む。
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月18日 22:17
鞍作毛人次男田禰子系譜

田禰子-黒比古-緒雄-賀茂忠峰-。{松平氏へ}


邇波縣君正式系譜

邇波荒田別-塩古-角古-真咋-孝日-玄理{高向玄理}-恒則-美並-。

鹿島大宮司正式系譜

王治坂合-山背根子-三輪石床-占部子足-稲実-友成-。
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月19日 18:13
邇波言壱様

当blogが過去に交遊した書物では、戸矢学氏の『ツクヨミ‐秘された神』が、桓武天皇が日本の歴史を書き変えたとの説を唱えています。
http://blogs.dion.ne.jp/fujun/archives/5734162.html

記紀の編纂者が聖書を読んでいたかどうかはわかりませんが、フランシスコ・ザビエル来日よりもはるか以前に、景教(ネストリウス派キリスト教)の逸話は日本に入ってきていたでしょう(厩戸皇子出生譚)。

ところで、ご紹介の系譜のなかに後世の天皇諡号とほぼ同じ王の名(継・敏・智など)と、そうでない王の名(倭武・幼武など)が混在しているのはなぜでしょう。
Posted by 管理人 at 2007年11月19日 19:26
大彦は、王彦で彦坐王同一人物邇波道主。

毛人族は、自然を愛してきた記録は、伝承が殆どアイヌを考察せよ。

北陸道を騎馬民族入国告知使者として進んだのは、三国若子である。

川上真稚は、邪馬台国の西征に加わる。

知らない近江三船の創作である。多安万呂は二本に関わらず。

以上完結使用禁止。
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月20日 01:09
邇波言壱様

栗本慎一郎氏は、蘇我氏の祖先はペルシアにあり、北方シルクロードを経てアムール川から東北日本に渡来したと唱えています。騎馬民族の渡来ルートは、中国・朝鮮半島経由⇒九州ではないとのことです。
そして、蘇我氏が実は大王だったとも書いています。
http://blogs.dion.ne.jp/fujun/archives/6302873.html

中臣鎌足=百済王子・豊璋(余豊)説にはご同意をいただけているようで、うれしく思います。

天皇諡号の件は、邇波様の記された古代天皇の正式系譜が記紀成立以前の古伝に基いているのであれば、後世の天皇諡号と酷似した王の名があっては(しかも百済王系にあるのは)不自然ではないかと思ったまでです。
古代においては、一般人が貴人の本名を呼ぶのは憚られたでしょうから、本名が正しく伝わらないこともありましょう。
天皇諡号のネーミングの由来を、淡海三船に聞いてみたいですね。
Posted by 管理人 at 2007年11月20日 22:53
色々な説はこれからも出るだろう。構ってはおられん。

中臣氏正式系譜。

邇波道主-八綱田-船穂足尼-島根尼-中臣阿麻毘-阿毘古。阿毘古弟、科野国造金弓-倉足。
中臣中央進出は、百済系継大王監視。中臣勢力圏内で即位。古墳造営。

諸問題を起こす百済王系対策の舎人騎馬軍団。

阿毘古-可多能祐-オキ-大嶋・・・科野で育てた馬で壬申の乱で活躍
草壁皇子と三河で後詰め。額田王を戴く、天武天皇の衣、袴を戴き
名誉ある藤原姓賜る。

草壁皇子暗殺。持統天皇の天武天皇御落胤狩りで咎を認め弔う。

砥鹿{咎}神社。御落胤宮子を百済不比等養女にした。藤原大嶋は、藤原姓を譲り草鹿砥{クサカド}氏を名乗る。{日下部}

使用禁止
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月24日 18:51
推測

応神=百済系初の大王即位者で神。王神。

継体=兄の武の子でなく自分が、王家を継ぎたい。

神武=武力制圧した王は神。{倭建・讃+武創作}

崇神=崇拝されるに相応しい神である王。{倭嘗・武・智}

著作。
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月24日 19:07
邇波言壱様

疑問

持統天皇に暗殺されたのは、実子・草壁皇子ではなく大津皇子ではないのですか?
中臣鎌足に藤原姓を下賜したのは、天武天皇ではなく天智天皇ではないのですか?

追記

フリー百科事典『Wikipedia』の尾張連草香の項目において「出典・邇波記外部持ち出し禁止。使用禁止」と書かれている、また内容が独自研究であると問題提起がなされております。
邇波様の記述ではないかと思われますが…

Posted by 管理人 at 2007年11月25日 12:48
文足らず申し訳ない。中臣大嶋が、草壁皇子暗殺。
藤原姓は、不比等が、大嶋から貰う。

あまり事実が、書けない怖さもあろう。知られている事実を巧みに混ぜ合わせることもあろう。万世一系で諸部族融合或いは、後の渡来人にするなど、上層部だけの内密事項もある。

僕も此処に記述する事を恐れる内容多い。
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月26日 16:42
邇波言壱様

私は邇波様の語る歴史が、真実なのかどうか判定する知識を有していません。
邇波様の記した人名も、知らないものばかりです。
疑問ばかりで申し訳ありません。
古代史は、まだまだ深い闇に包まれています。
教科書に比較的明快に書かれている7世紀以降の歴史でさえ、疑問点だらけです。
・聖徳太子とは誰だったのか?
・乙巳の変(大化の改新)の真相は?
・なぜ天智はすぐに即位できなかった?
・天智と天武は実の兄弟なのか?
・奈良時代の皇統は天武系?(でも皇后・持統は天智の娘…)
真実を知ることは、恐ろしいことなのかもしれません。
学校で教える歴史に疑問を抱かず丸暗記した方は、おそらくいい大学に入って、大企業・官公庁に就職しているのでしょう(笑)
Posted by 管理人 at 2007年11月26日 20:38
聖徳太子は、倭聖大王・・大聖勝軍寺=王聖に勝利した軍の寺。

父倭峻大王は、葛城馬子の葛城領取り上げ。息子や一族葛城姓名乗れず鞍作姓を名乗る。

暗殺され息子の聖は、越の三国氏を壬生として高向王。
成人して大倭に戻り大王即位。父の轍を踏まず秦河勝の景教を学び大陸で行われる慈善事業に取り組み民衆の支持絶大。邇波氏族の中臣御食子より唯一神道も学ぶ。

百済救援せず隋に期待する。隋は高句麗遠征出敗暗殺される。百済系倭舒は、密かに隋に先に遣隋使派遣。

責任を取らせる為、戦いに成るが、邇波氏族の怒り心頭。大敗北。聖大王の物部多治見{守屋}将軍戦死。三輪文屋東国から再度戦う事提案を拒否。幽閉捕縛した舒は、毒殺に踏み切り。鞍作毛人{蘇我毛人・入鹿}毒殺に憤る。御子建は、后の佐富{宝・・百済系には宝}と引き離され三河拠点の秦氏と大海氏に援助を受ける。
秦河勝の子石勝も同行。

倭舒は、巫女の佐富と同衾して大王即位し智{天智}を儲ける。
百済豊は、元興寺の寺司の鞍作毛人を待ち伏せ暗殺し、自分等の拠点へ逃走。
倭孝{孝徳}所謂有間王子の子所謂額田王と三河で后になるが、
智は、額田王を欲し譲り渡し大王となる。

壬申の乱後大化の改新実施。以上完全使用禁止。
Posted by 邇波言壱 at 2007年11月30日 18:13
追伸

倭峻{崇峻}弟等には、田目、来目有り、田目の子孝。

倭得玉{国常立尊・ニギハヤヒ}系王治氏拠点愛知県犬山市本宮山。

王治豊玉系海人水軍系拠点蓬州日高見国常世島{愛知県大高町}

倭得玉系草香の死後、息子栗原海人水軍の拠点移動。

王治豊玉系は、九州に拠点変更秦氏渡来助力。後日宇佐氏。

全部完全使用禁止。
Posted by 邇波言壱 at 2007年12月02日 00:27
日本海の東海係争問題は・・

昔から中国から見た状態で呼ばれていた。東海地方は、実際に文字通り中国の東海上にある事証明。

九州が、北で青森が、南向き。

中国から見て人の移動や交易が、盛んに行われていた証拠。

邪馬台国位置も確証され様。
つまり奈良県である。

現在の東海地方は、太平洋地方と呼ばれるべき場所で、世界的に見て正しい。

これは多いに使用して下さい。
Posted by 邇波言壱 at 2007年12月02日 08:28
邇波言壱様

邇波様の「家伝」がどの系統に属するものか、とても気になっています。

地域でいうと出雲系とか吉備系とか…
氏族でいうと中臣氏系とか物部氏系とか…

東海地方を中心とした視点は、やはり尾張氏系統のものでしょうか?
Posted by 管理人 at 2007年12月02日 16:56
出自に関係し深くは、教えられない。ヒントを出そう。一つ出雲邇波の、葛城系宗像氏族。一つ出雲邇波の、縣君氏族。

北方扶余人系王治・・尾治・・尾張氏族正解。

Posted by 邇波言壱 at 2007年12月02日 19:48
継体天皇は遠い傍系から継承された天皇で、しかも、その時代のリアルタイムで記載が残ってないので、よく、新王朝説の疑いがかけられる。

が、継体天皇の前と後では、大和王朝における豪族の勢力地図というのは殆ど変化がありません。

よって、そういう面から考察して、基本的に継体王朝は、それ以前の王朝と内部は殆ど代わってないといえるので、普通に遠い傍系の皇族が即位したといえるのではないでしょうか?

彼の出生地と目される近江は、大和王朝内部で権力を持っていた皇族・貴族たちの直轄地として置かれた土地であり、継体天皇の祖父や父は、大和王朝内部の比較的に近いところにいた皇族だと思います。

中臣鎌足=百済王子・豊璋(余豊)説は流石に・・・?だと思います。無理があると思う。

で、結局、なぜ、騎馬民族説とかそういう説が在野では出回るとか言うと、リアルタイムの文献が存在しなく、このへんの時代の時系列が混乱しているからだと思います。
Posted by まつ at 2007年12月03日 17:26
仕方ない。我が王{大}国主族には関係ないが・・・・・・・・・・・
最後だが、重大な発言をする。
金首露=深瀬のでくまわし大職官の首羅王=王治{尾張}氏海水軍系拠点愛知県名古屋市緑区大高町地名首羅=扶余依羅王である。金神社は、本来金首羅王を指す。

因みに神祇氏族系王治氏の拠点は、愛知県犬山市本宮山である。

百済王族誘致は、苦渋を飲んだ初期王君{大王・天皇}族の扶余国の高句麗併合阻止の為広開土王碑の帯方群進撃した倭軍の壊滅を思い倭興、明父子が、百済国との結束を計った為である。百済出自を古事記に記載してあるのを知らないのか?

口外禁止・使用厳禁。
Posted by 邇波言壱 at 2007年12月03日 22:57
邇波言壱様

継体天皇の妃(目子媛)を輩出し、壬申の乱で天武天皇を支えた尾張氏の存在には、関心を持っています。
それから尾張氏と製鉄の関係も気になります。
(熱田神宮の草薙剣に関連はあるのでしょうか?)
Posted by 管理人 at 2007年12月04日 12:50
まつ様

日本のルーツを何でもかんでも中国・朝鮮半島渡来に求める歴史観には、私も与しません。

栗本慎一郎氏の説(蘇我氏=北方シルクロード経由・ペルシア渡来説)は、私が栗本氏の愛読者なので関心を持って紹介しています。
Posted by 管理人 at 2007年12月04日 12:57
蘇我氏?大国主族の邇波氏の事だな。我は宗家の意味だ。インドネシア経由津軽と琉球経由とバイカル湖樺太経由だ。

名古屋地名由来を紹介しよう。
古伊勢湾は、南北に連なる島がある特徴を持ち長王治と書きナヲチと呼ぶ。名籠屋の字で、ナゴヤと呼ぶ。籠屋とは、大物主の事で鳥を獲得した為である。鳥は天女で止由気・・豊浦・・豊受大神を生み出した大国主族を表す。白鳥伝説は、この崇拝を放棄した伝承である。
香具山・・カグヤ媛伝承も同一。大国主は月崇拝した。
厳重使用禁止
Posted by 邇波言壱 at 2008年01月23日 12:38
追加
後発天皇族は九州南方に起源を求め東海地方伝承を捨てた為名籠屋は、名古屋に。王治水軍軍船繋留地は王渡から大済の読み同じから古渡に・・新伝承地は名護屋になる。厳重使用禁止
Posted by 邇波言壱 at 2008年01月23日 13:30
邇波言壱様

蘇我氏については、蝦夷・入鹿親子の名前が本名ではなく、後世付けられた蔑称ではないかとの疑念が絶えません。

豊浦といえば、蘇我蝦夷は「豊浦大臣」と呼ばれていましたね。こちが本名なのでしょうか?
Posted by 管理人 at 2008年01月23日 23:44
葛城馬子の子で、鞍作毛人が実名で豊浦大臣です。親子では在りません。
Posted by 邇波言壱 at 2008年01月24日 11:02
葛城馬子の子で、鞍作毛人が、蘇我毛人であり入鹿であり豊浦大臣
なわけです。豊浦とは止由気・・豊受大神の事で隠匿です。
Posted by 邇波言壱 at 2008年01月24日 11:11
草薙の剣?八剣だな。モーセの杖の事だ紅海の水を分けたと言う・・草薙の剣は草を分けたと伝承されていたかな?
伊勢音頭を参照せよ。ヘブル語だがね。王治氏戦勝地に八剣地名存在する。
Posted by 邇波言壱 at 2008年01月24日 18:05
八はヘブル人系で神聖視されて居る。ヤハ成る神である。上記の全て厳重使用禁止。
Posted by 邇波言壱 at 2008年01月25日 07:02
邇波言壱様

蘇我蝦夷(毛人)は豊浦大臣。
蘇我入鹿は鞍作大臣。
蘇我蝦夷の本名が「鞍作毛人」なら、邇波様の家伝では蘇我蝦夷と蘇我入鹿は同一人物なのでしょうか。

モーセについても、世界最初の一神教者であるエジプト王アクエンアテン(アメンホテプ4世またはイクナートン)と同一人物だと唱える人(トンデモ説?)がいるようです。
Posted by 管理人 at 2008年01月27日 17:17
同一人物である。他にも別名があるが・・これはまだましな方だ。
天皇に至っては同一人物で系図を構築している場合がある。
名指しは避けよう。

王治氏の時代とモーセの時代とは千年は異なろう。剣
だけ伝承したのだろう。

万世一系は民族紛争部族紛争終結に寄与している。詳しくは語れないさらばだ。
Posted by 邇波言壱 at 2008年01月27日 20:28
邇波言壱様

熱田神宮に祀られているとされる草薙剣の形状や材質が検証されれば、その由来は自ずと明らかになるでしょう。
(そんな日が来るとは思えませんが…)

自白(歴史書)と物証(考古学的遺物)のみならず、神話・祭祀・民間伝承さらには地理・気候など自然科学の成果といった状況証拠を加えることで、歴史の真相は解明されていくことでしょう。
Posted by 管理人 at 2008年01月28日 17:45
それはある程度までしか期待出来ないだろう。一つ指摘しよう。
魏志倭人伝は明らかな後世の挿入や削除がある。
禊の風習と近畿地方存在のヤムトェ[邪馬台]国までの記録である。


その他の文献も創作されている。対騎馬民族の中国政策
に配慮した文献創りに成っている。

もうこれ以上口外出来ぬ。
この件は調査、推論を大いに行う事ができるだろう。
Posted by 邇波言壱 at 2008年02月01日 08:47
邇波言壱様

「南へ水行十日、陸行一月」
魏志倭人伝の記述をそのまま読むと、邪馬台国は海の中…

「魏志倭人伝は日本人に向けて書かれた書物ではない。邪馬台国という得体の知れない魏の同盟国が、呉の背後の東シナ海にあると牽制している。だから魏志倭人伝をいくら読んでも邪馬台国の正確な位置はわからないのだ」…こう推理するのは明石散人氏です。
だとすれば、邪馬台国の位置はどこだっていい、架空の国だってかまわない…という解釈にもなりかねませんが(笑)

支那の歴史書は、前の王朝の事跡を次の王朝が記すのがならわしですから、当然そこには政治的な思惑がありましょう。
Posted by 管理人 at 2008年02月01日 23:04
投馬国以降ヤムトェ国迄である。国土自体は当時南方に存在した。

私の推論では、地球の膨張による大陸移動開始時期から
全体の最終段階付近で日本形成されたと考える。移動速度は
現在の停滞期とは比べ物にならないのではと考えている。
将来地球の縮小の際中国に吸収されると推測される。


禊の風習は、天皇族が持ち込み6世紀以後である。

改竄をしたのは日本であると考えている。8世紀頃と
考えている。

この点は大いに推論して欲しい。
Posted by 邇波言壱 at 2008年02月05日 15:40
邇波言壱様

地球全体が膨張して大陸が離れ、縮小して大陸が近付くのではありませんが…

3世紀の日本の位置は、現在とほとんど変わっていないと思います。
Posted by 管理人 at 2008年02月06日 22:19
そう考えるのは無理もなかろう。伊豆半島ができたのも、
富山湾も能登半島先端から東に突き当たる新潟迄陸地
であった事や若狭湾も陸地が水没し現在の様に入り組んだ事
瀬戸内海が出来あがったのも遠い昔ではない。
古伝承は、朝廷の賀茂が禰宜を各地の神社に入り婿を送り込み
従わなければ戦を仕掛けて滅ぼし乗取りして古伝承を消した
明治時代以降の教育も拍車を掛けた点を指摘しておこう。
これ以上は言えぬ。
Posted by 邇波言壱 at 2008年02月07日 10:52
邇波言壱様

仰るとおり、伊豆半島は最初から現在の姿だったのではなく、本州に別の島が衝突して形成されました。100万年ほど前のことです。
これを遠い昔と考えるか、比較的新しい時代と捉えるかは、見解の相違でしょう。

古伝承の抹殺については、乙巳の変での「天皇記」「国記」の焼失が、日本における焚書と言ってよいでしょう。

Posted by 管理人 at 2008年02月08日 23:20
古伝抹殺?そんな大それた事は邇波氏族はしていない。桓武天皇が行った事だ。良く調べよ。私も真実を知られている事をダブらせながら公表している。だから述べる事が変わっているだろう。見解の相違?そこが認められねば日本古代史を正確には知れまい。
Posted by 邇波言壱 at 2008年07月29日 11:55
邇波言壱様、お久しぶりです。

当方のようなマイナーblogでは、新事実を公表する場として不足ではありませんか?
邇波様はホームページ・ブログ等をお持ちではないのでしょうか?
Posted by 管理人 at 2008年07月30日 22:13
十分です。マイナーだから良い。正しい真実を知るのは何時の時代も小数・・
映画やドラマでもそうである。公式発表等は出した者の意図した目的を達成する手段に過ぎない。
多過ぎては又其処で捻じ曲げられる。神社でも伝承に隠された真実を
語るのを恐れている。其れは仕方の無いものである。
Posted by 邇波言壱 at 2008年07月31日 22:25
邇波言壱様

了解です。
公に出来ない伝承にこそ、真実が秘められているのでしょう。
残念ながら私は研究者ではありませんので、邇波様の「家伝」の真偽を判定することはできません。
Posted by 管理人 at 2008年08月02日 23:13
・・・概要だけ述べよう[口外使用禁止]

倭旨王君=扶余依羅より興王君迄5代
倭興王君の子明・・所謂竹内宿禰より天武天皇迄4代
此れは良く調査すれば理解可能である。
百済王族入り婿倭武大王より所謂天智天皇である倭智大王迄5代である。

邪馬台国と3王朝を組んだ邇波国は、扶余族誘致し邪馬台国を攻め倒し解消して出雲国に王朝樹立新3王朝[三輪王朝]を組み直す。

3王朝方式を改めさせたのが百済の入り婿政権で集権化し大王とする。

東海地方の邇波川上の御嶽を伊勢に移すのは参州三河の徐福子孫の豊葦原瑞穂国征伐後の夷人を遠州方面より東に追いやる軍事作戦展開中で伊勢湾奥で神事を行うより伊勢の方が都合が良いからである。

Posted by 邇波言壱 at 2008年08月05日 22:00
従い所謂継体天皇である倭継大王は、邇波氏族三国氏の本拠地から出たと言う事実は無い。

所謂聖徳太子つまり倭聖大王・・聖徳天皇が、父王峻大王暗殺後に少年期過ごされた場所で有り継体天皇に摩り替えられたのだ。

暗殺指令を出したのは葛城馬子で所謂蘇我馬子・毛人で同一人物である。葛城所領没収に敵対し百済系天皇族はこれに便乗して勢力を拡大したのだよ。
Posted by 邇波言壱 at 2008年08月05日 22:13
継体天皇に好意を抱いている方は読まないで


百済系天皇族(倭武大王系)に事実は憎まれた倭継大王である。

武大王の葬儀の際に、武の遺族が・・継を見て武と間違え大いに怒っいる。「死者と間違えるとは何事か」遺族は縮みあがっている・・イメージダウンさせて申し訳無いが真実なのだ・・身内を外部には庇うのは何処にでもありがちな話であり・・邇波氏の者に摩りかえられている。迷惑も甚だしいが・・仕方無い。
Posted by 邇波言壱 at 2008年08月05日 22:43
邇波言壱様

歴史上の人物に対して、好意的な評価をしようが否定的な評価をしようが構いません。

どちらかというと当方は、世間一般では評価が低かったり人気がなかったりする人物を、好意的に書く傾向はありますが(笑)
蘇我入鹿とか田沼意次とか吉良上野介とか…
Posted by 管理人 at 2008年08月06日 21:45
ここだけの真実公表。(使用厳禁・口外禁止)鞍作毛人の子宗形鳥麻呂、鞍作田禰子(太田田禰子)庄子。
*田禰子の子賀茂虫麿(実は役小角モデル)の子諸雄の子三千代は橘諸兄の母。
*庄子は天武天皇の子稚武王(建知・・高市皇子)を産む。
Posted by 邇波言壱 at 2008年09月15日 18:18
邇波言壱様

三千代=橘(県犬養)三千代、庄子=宗像尼子娘で宜しいですね。

…宗像徳善は誰なのでしょう?
Posted by 管理人 at 2008年09月15日 20:39
鞍作毛人(蘇我入鹿)。・・使用厳禁・口外禁止・・

鞍作毛人は、倭聖(聖徳)大王を毒殺した舒(舒明)に対して憤る。

倭聖大王は、父君峻(崇峻)大王と共に現藤木古墳に葬られる。

后佐富(皇極)は、息子建と引き離され舒の后となる。

倭建は、鞍作毛人に大王として擁立され娘庄子を与えらる。

百済豊(扶余とは別種)に道端で暗殺される。
Posted by 邇波言壱 at 2008年09月15日 22:09
宗形徳善=鞍作毛人(口外禁止・使用厳重禁止)
Posted by 邇波言壱 at 2008年09月15日 22:27
邇波言壱様

ご回答ありがとうございます。

Posted by 管理人 at 2008年09月17日 20:46
こちらも最後にしましょう。(使用厳重禁止)

邇波彦狭島(彦佐須岐・倉岐)の子御諸別(彌母里別)の兄弟は、(川上)明国彦(長脛彦)である。

彦狭島は倭讃王君の軍勢を先導し君子国平定に活躍し絹織物の技術を入手した。兄弟等の柿本得足・小野大樹がいる。

邇波氏族川上氏とは事実上邇波氏である。
Posted by 邇波言壱 at 2008年10月21日 17:36
お疲れ様でした。
Posted by 管理人 at 2008年10月22日 22:17
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