2007年05月24日

疑惑の国宝

小・中学校の教科書でおなじみ、福岡市の志賀島から出土した漢委奴國王の金印。国宝であり、現在は福岡市博物館に所蔵されています。

あまりにも有名なのですが、私は以前から疑問を持っていました。
金印は江戸時代の1784年、志賀島の水田の溝を掘っていたところ偶然に発見されたと伝わっています。しかしその場所は、古墳でも古代の王城跡でもありません。そんなところにポツリと金印だけが、しかもほとんど無傷(金は非常に軟らかい!)で見つかったのです。
はたして金印はホンモノか…

金印偽造事件



三浦 佑之著


漢委奴國王金印に対する疑惑は、これまでもたびたび提出されています。
ひとつは金印はホンモノであるが、水田から出土したのではなく、志賀島の神社の神宝を盗み出したという説です。出土したとされる地に遺跡は全く見つかっていませんが、博多湾は大陸との交易の玄関口であり、志賀島に金印が伝わっていてもおかしくはありません。
ただ、いくらなんでも神宝が盗まれたなら、大騒ぎになって記録に残るのではないでしょうか。金印の発見には福岡藩のみならず、本居宣長上田秋成など、当時の名だたる文化人たちが強い関心を示していたわけですから。

もうひとつは真っ赤なニセモノ説です。著者・三浦佑之氏は、金印の鑑定人である福岡藩の学者・亀井南冥(なんめい)が金印偽造の首謀者であるとみています。
金印が発見されたその年、福岡藩にはふたつの藩校が開校しました。
南冥は、町医者から藩校の祭酒(館長)に大抜擢された、野心あふれる人物です。金印の出土は、彼の学識をアピールし、自らの率いる甘棠館(かんとうかん)を興隆させる、絶好のチャンスだと捉えていたようです。
もう一方の修猷館(しゅうゆうかん)に属する学者たちの、金印に対する反応は、かなり冷めたものでした。
金印の製造年代はいつなのか、科学鑑定が待たれます。

さて「漢委奴國王」の読みですが、カンノワノナノコクオウとするのが一般的です。委は倭(ワ)の人偏を取った省略字体で、後漢書に記された倭の奴国に西暦57年に贈られた金印だとしています。
カンノイトコクオウと読む説もあります。こちらは委奴を魏誌倭人伝に記された伊都国と同一視します。
著者の三浦氏は、本書のテーマは江戸時代の金印偽造事件であり、古代史の解明ではないとしているのが残念ですが、推理小説のような謎解きの楽しみが味わえる一冊です。

(5月24日読了)


金印といえば、やはり魏誌倭人伝に登場する卑弥呼親魏倭王の金印ですね。これが発見されれば日本の歴史は大きく動きます。一体どこに眠っているのでしょうか?


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 22:28| Comment(10) | TrackBack(2) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
fujunさん、こんにちは。いつも楽しい話題提供、ありがとうございます。
後漢書には「倭奴国」とありますので、偽造ならその通り彫るでしょうが、事実は「委奴国」です(正式国印に略字偽造を発想するのはどうか)。これは逆に本物であることを強調するものです。
詳しい分析は私のブログに掲載してあります(ネームに貼り付け)ので、ご参照ください。
Posted by ペンタクロス at 2007年05月31日 18:34
ペンタクロス様

「漢委奴國王」金印は漢の字が大きく、委/國と奴/王が左右に並ぶ配置となっています。
そのまま「漢倭奴國王」と彫ると、字画の多い倭/國と字画の少ない奴/王とが並んでバランスが悪いため、故意に「倭」の人偏を省略して「委」と彫ることで、全体の文字配置バランスを取ったと考えられるそうです。

金印偽造説を唱える三浦佑之氏は、偽造の首謀者とにらむ亀井南冥は非常に高度な漢籍の知識を有しており、古代中国の印章に略字の慣習があったことを知っていたとしています。
その一方で三浦氏は、金印が江戸時代の作ではないと証明されたら素直に自説を撤回すると、弱気なことも書いています(笑)
なお亀井南冥は、倭奴國を「ワノナコク」でも「イトコク」でもなく「ヤマトコク」と読んでいます。

金印が漢代のものであれ後世の作であれ、発見場所が遺跡でもなんでもない水田で、発見の経緯もなにやらスッキリしないのは、どうしたことでしょうか。
金印は本当に最初からそこ(水田)にあったのか。ペンタクロス様はどう思います?
Posted by 管理人 at 2007年05月31日 23:26
fujunさんへ
亀井南冥が後漢書情報にはない「委奴国/蛇鈕金印」を高度な知識で創作・偽造したとしたらスゴイですね。発見は「田の溝の修理中に大石の下から出てきた」と記憶していますが?
Posted by ペンタクロス at 2007年06月01日 02:22
ペンタクロス様

亀井南冥が故意に「倭」を「委」と彫ったのだとしたら、スゴイことですね。三浦センセイ、超深読みです(笑)
蛇鈕についても、漢委奴國王金印は古代中国のものと比べて出来が悪く、これは鋳造の際にカタチが崩れたのだとしています。

発見のきっかけは、水田の溝を掘っている時に大きな石にぶち当たり、大石を除けたところ金印が現れたことになっていますね。
この大石は、はたして古墳の石室だったのでしょうか?
金印が石室に安置されていたのならば、ほとんど無傷だったのも納得できます。
しかしながら、金印発見の地とされる周辺で遺跡らしきものは現在に至るまで確認されておらず、発見地そのものが現在の金印公園の場所なのかも定かではないと三浦氏はいいます。

金印を所蔵する福岡市博物館のWebサイトも「発見者や発見場所に謎が多い分だけロマンが香るのかもしれません」と、逃げています(笑)
Posted by 管理人 at 2007年06月02日 22:05
fujunさんへ
50年後に「倭国王」帥升が生口(奴隷)を160人も献上したのに授受などの記事がありません。中国にとって特臣認定意義が薄れたことを物語っています。またこの時すでに「漢委奴国王」印は、帥升の手にはなかったことが考えられます。私はこの金印は、何らかの理由で「隠された」のだと考えています。周辺にそれらしき気配のない所に。
ちなみに「倭」の字は「献上品に人(生口)が多く使われたことから、委の字にニンベンをつけて国名に使った」との説があります。類例として高句[麗]が高句[驪]と表現されることがあります。名馬の産地です。これから類推すると倭の本字は「委」で、匈奴に対する委奴との命名意義も考慮しての現実性が出てきます。
そしてこの「金印認定意義」は、卑弥呼が貧相な献上品にもかかわらず「親魏倭王/金印」を受けたことにも通じます。当時の魏呉戦争中に「倭人が魏の味方となる」ことは、魏帝にとって至上の喜びだったことでしょう。魏・曹家の墓から「倭人、盟するや否や」との「倭人磚」が出土しています。
Posted by ペンタクロス at 2007年06月03日 06:39
ペンタクロス様

おっしゃるように、漢委奴國王金印が「なんらかの理由」で人目につかない場所へ埋納されたものならば、古墳でも王城でもない場所から見つかったことが納得できます。なにもないような場所に大量の銅剣が埋納されていた、出雲の荒神谷遺跡のイメージですね。
偽造説を唱える三浦氏も、志賀島が宗教的・海上交通的な要衝であったことを否定していません。
ただ、今となっては発見地がハッキリしないこと、発見の経緯があやふやなことが残念です。

卑弥呼の親魏倭王金印授受についての見解にも、同意いたします。
明石散人氏は『魏志倭人伝』のデタラメな邪馬台国の位置情報について、魏にとって海の向こうの得体の知れない国が味方していると喧伝することが三国志の時代を戦い抜くうえで有効であり、場所なんてどうでもよかったのだと述べています。
Posted by 管理人 at 2007年06月03日 17:31
fujunさんへ
その明石散人という人の見解は大間違いですね。自分が理解できないとデタラメだとする「酸っぱい葡萄」の類です。「わからない」が正解でしょう。実際に魏使は倭地を踏んでいますし、卑弥呼や魏帝の行動・反応など「魏呉戦争・東夷情勢」を実によく知った上での様子が見てとれます。私の「魏志倭人伝・行路記事分析」をネームに貼り付けましたので、ご参照ください。
Posted by ペンタクロス at 2007年06月04日 07:54
ペンタクロス様

明石散人氏の著書を読んだのは、もう10年近く前でしょうか。「デタラメ」は私のあいまいな読書記憶に基いた誇張した表現ですので、ご了解ください。

『魏志倭人伝』の記述「南へ水行十日、陸行一月」をマトモに読むと、邪馬台国は海の中になってしまいます。そこで南を東と読み替えるのが大和説、距離単位が違うとするのが九州説ですね。
魏の使者は実際に邪馬台国を訪れていますから、当然ながら正確な位置を知っています。では、なぜ邪馬台国は海の中になってしまうのでしょうか。
明石氏の推理はこうです。『魏志倭人伝』は倭人に読ませるために書かれたわけではありません。呉に向けて書かれているとします。呉の背後の東シナ海に、邪馬台国という強大な魏の同盟国があると牽制しているわけです。だから『魏志倭人伝』を読んでも邪馬台国の正確な位置はわかるはずがないと。面白い説なのでご紹介しました。
明石氏は作家で、TVの歴史推理番組『謎ジパング』の制作者でもあり、奇想天外な説(トンデモ?)を数々発表しています。金印についての著作(『七つの金印』)もあります。

素人の浅はかな意見ですが、『魏志倭人伝』に描かれた邪馬台国の習俗は、どことなく南国風ですね。そうなると九州でしょうか。当時の日本の気候は、大和でも温暖だったのかもしれませんが。
また、卑弥呼の死と皆既日食(=天岩戸隠れ?)に関係があるとするならば、247年と248年の皆既日食を観測できたのは大和ではなく九州です。
卑弥呼時代の邪馬台国は、九州だったのではないかと思います(台与時代は大和かもしれません)。

Posted by 管理人 at 2007年06月04日 22:06
fujunさんへ
ご丁寧な回答、ありがとうございます。
呉は魏に先だって高句麗に介入をはかっており、また東シナ海にも既に大船団を送っています。つまり東夷抱き込みの先手を打ったのは呉のほうで、魏帝にとって「卑弥呼奉献」は涙が出るほど嬉しかったことでしょう。ちなみに神獣鏡は呉でよく行なわれたデザインで、三角縁神獣鏡の原型となったのは「呉鏡」である可能性が強くあります。
皆既日食のことは知りませんでした。ありがとうございました。
Posted by ペンタクロス at 2007年06月04日 23:04
ペンタクロス様

歴史書に誇張は付きもの。
もしかすると『魏志倭人伝』の邪馬台国も、実際より大きく(人口7万余戸)、場所もまるで呉の背後にあるかのように描かれたのでしょうか。
あるいは日本の歴史書にない邪馬台国は、呉を牽制するための捏造…なんて極論を唱えるトンデモさんもいるかも(笑)

三角縁神獣鏡は中国大陸では出土しておらず、しかも存在しない景初四年の年号が刻まれていることから、国産鏡だと私は思います。

「邪馬台国」「卑弥呼」という呼称は、倭人の発音にそのまま当て字をしただけでしょう(邪とか卑とか、いかにも中華思想ですね)。
「ヒミコ」という名前は固有名詞ではなく、一般名詞の「日巫女」もしくは「姫御子」のことでしょうね。古代は貴人の本名を、畏れ多くて口にしなかったはずですから。
「邪馬台国」の読みは「ヤマトコク」?
「大和」はもちろんそうですが、九州にも「山門」がありますね。さて、どっちが真の邪馬台国なんでしょう?
Posted by 管理人 at 2007年06月05日 22:26
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