2007年07月08日

まんなかの日本史

日本のほぼ中央に位置する琵琶湖
文字通り「湖の国」を意味する近江国(現在の滋賀県)は、俳人・松尾芭蕉が日本の東西の巷(ちまた)と呼んだように、古代から軍事・交易の要でした。
「近江の歴史を書くことは、日本通史を著すのと同じこと」中世史家の今谷明氏はこう語ります。



近江から日本史を読み直す

近江から読み解く日本史は“新王朝の祖”継体天皇から始まります。本書では応神天皇五世の孫を称する継体の出自を、息長(おきなが)氏に求めています。そういえば応神天皇の生母・神功皇后の名は、息長帯比売(おきながたらしひめ)でしたね。継体が真に皇族の一員なのか、全くの地方豪族なのかは、いまだに議論が尽きません。
天智天皇の時代には近江は首都(大津京)となり、その後は壬申の乱の舞台ともなりました。
平安時代に入ると最澄(伝教大師)が比叡山に延暦寺を開き、近江は日本仏教の中心地となります。鎌倉新仏教の開祖たち、法然親鸞栄西道元日蓮は、いずれも比叡山に学んでいます。
戦国時代には、織田信長が天下布武の拠点として安土城を築きました。そして重臣の木下(のちの豊臣秀吉明智光秀には、それぞれ長浜と坂本に城を築かせます。いずれも湖上交通の要衝です。
古代から近世に至るまで、近江は歴史の転換点の舞台となっています。

近江は単に奈良・京都に近いだけでなく、琵琶湖は日本海側の物資を都へ運ぶための最短ルートでした。
日本の東西を結ぶ交通の要所から生まれたのが近江商人です。現在の日本の大企業のなかにも、近江商人の流れを汲むものが数多くあります。
本書を手に取ったきっかけは、昔読んだ栗本慎一郎氏のベストセラー『パンツをはいたサル』が、日本史における近江の地理的重要性を説いてたことです。彼はまた、栗本家の出自が近江商人であると語っています。

(7月8日読了)


2008年4月、今谷明氏は管理人の母校・都留文科大学の学長に就任しました。ますますのご活躍をお祈りいたします。


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 23:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
fujunさん、こんにちは。
息長帯ヒメの旦那が倭建命の息子・帯中ヒコ(仲哀)で、その叔父が若帯ヒコ(成務)、その親父が大帯ヒコ(景行)。いわゆる「帯(タラシ)王朝」ですが、景行が晩年に近江国・志賀・高穴穂宮に都して以来、ずっとこの地です。大和外の地なので書紀には詳しく書かれていませんが、古代史の中では継体以前にも重要な地であったことは、間違いありませんね。志賀の美冠称が「楽浪の」であるのも何か半島と関係がありそうで、確かに近江は「日本歴史の秘密」を握っています。
Posted by ペンタクロス at 2007年07月15日 09:57
ペンタクロス様

おっしゃるように近江の豪族・息長氏は、大和朝廷のルーツを探る鍵を握っていそうですね。

本州は青森県から山口県に至るまで山々が連なっています。修験者や山の民は、山の道を伝って本州を端から端まで移動できるわけです。
ところが琵琶湖で山の道が遮られます。そこで近江は山の民と平地の民の接点となり、東西交易の要衝となって近江商人が生まれたと考えられます。
そんなきっかけで「近江からの日本史」というタイトルに惹かれました。

Posted by 管理人 at 2007年07月16日 02:25
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