2007年10月22日

ピンク石の秘密

史跡公園として発掘・整備が進められている、大阪府高槻市の今城塚古墳。第26代継体天皇の、真の陵墓だと考えられています。6世紀前半では全国最大級の古墳ですが、大地震によって墳丘は大きく崩れ、石室も失われています。
しかし石室の破片が数多く発見されており、それはピンク色の石片でした。この石は、今城塚古墳近辺の産出ではありません。なんと九州・阿蘇山のものです。

讀賣新聞西部支社は2005年、ピンク石の産地・熊本県宇土市から大阪の今城塚古墳まで、石棺を船で運ぶという壮大な実験を行いました(航海は1006km、34日間)。
九州産の石棺がなぜ畿内に、しかも限られた古墳にだけ用いられているのでしょうか。



大王家の柩

ピンク色の石の正体は、阿蘇凝灰岩。約9万年前の阿蘇山の大噴火で生成されました。凝灰岩がピンク色になるのは非常にまれで、その成因もハッキリしないそうです。貴重な石であるといえます。
このピンク石が石棺に用いられた古墳は、全国でわずかに13基。1基を除いては(後述)、いずれも5世紀後半から6世紀前半のものです。

この時代、ヤマト朝廷は大きく揺らいでいました。
第21代雄略天皇は、皇位継承のライバルとなる皇子たちを次々と倒して権力を掌握した強大な大王です。そのため彼のあとは有力な皇子がいなくなり、皇位継承が不安定になったと考えられます。
本書では第22代清寧、23代賢宗、そして暴君として名高い25代武烈の三天皇の実在を疑問視し、日本書紀にいう「まさにいま絶えて継嗣なし」となったのだとします。そこに現われたのがオホド王=継体天皇です。
そして阿蘇ピンク石の石棺は、継体天皇とその支持勢力のものであると。

継体天皇は、晩年もまた謎に包まれています。
先代までの天皇との血縁が薄い(ない?)継体天皇は、第24代仁賢天皇の娘である手白香皇女を皇后としました。いわば婿入りです。一方で地方豪族出身の、即位前からの妃もいました。地方豪族出身の妃から生まれた第27代安閑、第28代宣化天皇と、手白香皇女から生まれた第29代欽明天皇とのあいだで皇位継承争いが起こったのではないかと考えられています。
皇統は欽明天皇に受け継がれ、ピンク石の石棺は途絶えました。そして継体天皇を擁立した豪族・大伴氏も失脚し、代わって蘇我氏が台頭します。

継体天皇の時代から半世紀ほど経て、一度だけピンク石の石棺が復活しました。それが奈良県橿原市の植山古墳で、推古天皇と息子・竹田皇子の合葬墓と推定されています(推古天皇はのちに改葬)。竹田皇子のものとされる石棺にピンク石が使われた理由は、全くわかりません。
そして推古天皇の摂政・聖徳太子ゆかりの四天王寺にも、なぜかピンク石があります…

ピンク石の石棺を最初に用いたのは誰なのか。
今城塚古墳より前の時代に造られた、大阪府羽曳野市の峯ノ塚古墳。ピンク石の石棺と豪華な副葬品が発掘されています。この被葬者が、継体王朝誕生前夜の秘密を握っているのかもしれません。

(10月22日読了)

参考サイト;讀賣新聞「大王のひつぎ」実験航海
(↑『古代ペンタクロス文化』管理人ペンタクロス様、ご紹介ありがとうございます)

【不純文學交遊録・過去記事】
古代史の謎・継体天皇U
古代史の謎・継体天皇
天皇陵、発掘。




(管理人のひとりごと)
のちの世の持統天皇は、天武天皇の皇后です。
持統天皇は我が子・草壁皇子に皇位を継がせようとし、天武天皇の別の妃の子で、文武に優れて人望もある大津皇子を謀反の疑いで処刑します(しかし草壁皇子は早世、皇位を継いだのは孫の文武天皇)。
遠山美都男氏は、NHKラジオ・カルチャーアワー歴史再発見『聖武天皇とその時代
』で、奈良時代の皇位継承は「天武皇統ではなく草壁・文武皇統が意識されていた」と述べていました。
皇室の祖神・天照大神にイメージが重なる持統天皇。皇統の節目には「女系の力」が大きく影響しているようです。






ラベル:古墳
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 22:06| Comment(9) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いつも「あしあと」を残していただきましてありがとうございます。
コメントの書き込みは、はじめまして、です。
おてやわらかによろしくお願いします。

四天王寺にピンク石があるというので調べてみました、
すると確かに、南大門を入ったすぐのところに、
熊野参拝の際に礼拝する石 というのがあります
「何の意味がある石?なぜ石碑のように立てずに横倒し?」と、
うっすらと疑問に思ったことのある石です。
あれがそのようないわくのある石だとは思いませんでした。
いや・・どうやら、古代史に興味が無い時期に、そのいわくを知って
いたのだが、気にも留めなかったのでこれまで忘れていたようです。
四天王寺の入口にそのような石が無造作に埋まってるなんて、謎ですね。

蛇足ですが、
さらに調べると、
四天王寺の南大門だけでなく、東大門や極楽門の傍らにも
引導石や伊勢神宮遥拝石という、いわくのある聖石があるようです。
ほかにも舞楽が舞われる「石舞台」や、
木・金属・石の三大鳥居のひとつ「石の鳥居」
「牛王尊石神堂」という祠もあるようで、
どうやら、石への信仰が強く残っているようです
古代、現在大阪城のあるところは、石がごろごろしていて、
それが信仰の場とされ、生國魂神社の由緒や、
物部氏の岩船伝説や石切剣箭神社につながり、
「石上本願寺」の名の由来となったらしいので
難波には岩石信仰があった事は確からしいですね。
Posted by 幸玉 at 2007年10月23日 01:04
fujunさん、こんにちは。ブログのご紹介、ありがとうございます。
宇土のピンク石はどうやら大伴氏と関係がありそうですね。大伴氏を「我が君」と仰ぐ日羅は葦北出身、白村江の捕虜帰還軍人・大伴部博麻は八女出身。
またピンク色は朱と同じく生命の蘇生(血液)を意味していそうです。
さらにこの三島・安威地方は後の中臣鎌足とも関係しており、植山古墳東棺は藤原京造成の重要な鍵を握っていそうです。
古代史の謎は文献だけでは解けませんね。
Posted by ペンタクロス at 2007年10月23日 11:40
下手こいた〜
「石上本願寺」じゃなくって「石山本願寺」でした
「でもそんなの関係ねえ!」とは言えない(汗;
失礼しました。
Posted by 幸玉 at 2007年10月23日 20:54
幸玉様、いらっしゃいませ。

たびたびのご訪問、ありがとうございます。
あまり更新していませんが、今後ともよろしくお願いします。
近くにお住まいの方による畿内史跡ガイドは、わかりやすくていいですね。
畿内は史跡が豊富で羨ましいなと思いつつも、自分の地元にも行ったことのない史跡が結構ありますので、これから足を運んでみようと思っています。

四天王寺のピンク石にどんないわれがあるのか、いまのところ私には全く見当がつきません。聖徳太子の謎ともつながってくるのでしょうか。いろいろ推理してみると面白そうです。

石山本願寺の名が、文字通り石の聖地に由来するとは思ってもみませんでした。豊臣秀吉の大阪築城で随分変わってしまったようですが、元はどんな場所だったのでしょう。
物部氏ゆかりの石上神宮も、謎が多くて魅力的ですね。
Posted by 管理人 at 2007年10月24日 22:22
ペンタクロス様

このたび交遊した一冊は、ペンタクロス様が以前リンクを貼ってくださった、讀賣新聞のサイトが元になっています。著者は讀賣新聞西部本社の板橋旺爾・編集委員です。
この本の見解も、阿蘇ピンク石を持ち込んだのは大伴氏となっています。九州には、大伴氏の拠点があったのでしょうか。瀬戸内海の中継地である吉備の築山古墳も、ピンク石の石棺ですね。

時代が進んだ植山古墳にピンク石の石棺がある理由は、私には見当がつきません…
古墳の石棺の形状や材質の共通性は、同族関係や政治的同盟関係を意味します。古代人が、単に流行りや色が綺麗だからという理由で、わざわざ九州からピンク石を持ってくるはずがありません。
歴史書はウソをつきますが、古墳はウソをつきませんね。

また、宮内庁指定継体陵の太田茶臼山古墳は意富富等(オオホド)王との説がありますが、どうなんでしょう。允恭天皇の義兄(皇后・忍坂大中姫の兄)で当時の皇族ナンバー2であり、大王陵クラスの古墳でもおかしくないとのことですが。
オオホド王は、応神天皇の孫で継体天皇の曽祖父。もしかして太田茶臼山古墳の石棺はピンク石なのでしょうか?
Posted by 管理人 at 2007年10月24日 22:46
fujunさん、こんばんは。
ピンク石を含む阿蘇凝灰岩製石棺は、九州から東征し中期古墳時代を制した紀氏系豪族(武内宿祢を祖とする主要豪族群)と関係がありそうですね。彼らは紀ノ川や淀川水系(岩清水八幡宮の始祖は紀角で、古墳の石棺は阿蘇凝灰岩)も制しています。紀氏と大伴氏は主従関係です。太田茶臼山の発掘が許されれば、阿蘇凝灰岩製石棺が出るのではないかと思います。時代を離れて登場した植山古墳のピンク石は、古代史の謎を解く「キーストーン」ですね(蘇我氏も紀氏系豪族)。
Posted by ペンタクロス at 2007年11月10日 23:10
ペンタクロス様

やはり太田茶臼山古墳には、阿蘇凝灰岩の石棺が眠っていそうですね。
(九州と縁の深い応神天皇の御陵はどうなんでしょう?)
古代の河内平野は、埋め立てが進んだ現在よりも海岸線が内陸に入り込んでいましたから、九州から石棺を船で運ぶのも今よりずっと容易だったはずです。

蘇我氏のルーツには大変興味があります。
蘇我氏は渡来人の職能集団を配下に置き、仏教導入に積極的でしたが、蘇我氏そのものが渡来人なのかどうかは定かではありません。
渡来人の定義にも拠りますが。純粋な縄文人(古モンゴロイド)以外は全て渡来人なら、今の日本人は大部分は渡来人でしょう(笑)
蘇我氏のルーツを西域(ペルシア)に見る論者もいます。そう言われてみると、飛鳥の地に残る謎の石造物の数々は、確かにエキゾチックな薫りを漂わせています。
近年、蘇我氏を悪者だとする従来の歴史観は覆りつつあります。実は蘇我氏こそ天皇であったとの説も、捨てがたい魅力がありますね。
Posted by 管理人 at 2007年11月11日 00:14
なぜ、蘇我氏渡来系説が出てきたかというと、彼らの公式の祖先である武内宿禰が伝説に満ちた人物(年齢が異様に長い)だから、そして、蘇我氏の歴代当主に、高麗とか韓子という名前の人物が出てくるからです。

しかしながら、日本書紀の継体紀にはこのへんの事情が書いてあって、大日本人が隣国(韓半島か?)の女性に孕ませた子供に韓子と名づけた、という注釈があります。実際に、この時代の日本の貴族の中に、たまにそういう名前の人がいるのは、そういうことを表しているのではないでしょうか?

この時代の豪族は、姓は父方から受け継がれるかわりに、名前には母親とか養育者に由来させることがトレンドだったわけです。

蘇我氏の系譜は、公式には皇別氏族で、孝元天皇の後胤・武内氏族です。実際に、蘇我氏のヤマトでの領国は、武内氏族の有力家系である葛城氏、平群氏などと重複しており、武内氏族の嫡流である葛城氏が失脚した後に、それに代わるように台頭してきました。

武内宿禰の年齢についてですが、上古代の日本では暦が違っていたこと(春秋暦・春分〜秋分で1年、秋分〜春分で1年と計算)が要因として挙げられますが、それを考慮しても長いです。宿禰というのは個人名というよりは、身分・職務を表すような名称なので、当時は世襲制なので、武内宿禰は1代の人物ではなく、親子2代くらいを表しているという説もあります。(武内長官みたいな感じ?)

武内宿禰は4世紀の朝鮮出兵の時の権力者で、そういう関係で朝鮮半島の利権を多く保有していた形跡が伺えます。
Posted by まつ at 2007年12月03日 17:14
まつ様

武内宿禰=襲名説は、私も考えました。
Posted by 管理人 at 2007年12月04日 12:44
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