2007年12月17日

秘仏封印

今年(2007年)で、現存する世界最古の木造建築・法隆寺が創建されてから1400年になります。
正確な創建年代や、再建・非再建をめぐる論争、そして創建者・聖徳太子厩戸皇子)の人物像など、法隆寺には数多くの謎が残されています。 

世界遺産である法隆寺は、建造物自体はもちろん、仏像や工芸品など国宝・重要文化財の宝庫です。
なかでも特異なのは、八角形の建物・夢殿に安置された救世観音像です。白い布で幾重にもぐるぐる巻きにされ、開帳すれば地震・落雷が起こると畏れられた秘仏中の秘仏。アーネスト・フェノロサ岡倉天心らによる開帳劇は、日本美術史上に残る有名なエピソードです。
世に秘仏は数あれど、ここまで厳重に封印されたのは異例でしょう。



救世観音像封印の謎

救世観音像は、聖徳太子の等身像であると伝えられてきました。
一方、法隆寺の金堂には、こちらも聖徳太子の写し身とされる本尊・釈迦三尊像があります。どちらも聖徳太子がモデルであるとされながら、この祀られ方の違いはなんなのでしょう。
救世観音像が封印された理由は。そして真のモデルは誰なのか。同じく法隆寺が所蔵する百済観音像のモデルを天智天皇中大兄皇子)だとした倉西裕子氏が、救世観音像の謎を推理します。

美術史的観点から、救世観音像が製作されたのは舒明天皇から孝徳天皇の時代(629年〜654年)。そうなると622年に没した聖徳太子の生前像ではなくなり、それ以降に活躍した人物がモデルでもありません。
また、釈迦三尊像など他の聖徳太子ゆかりの美術品とは扱い方が異なる点からも、倉西氏は聖徳太子モデル説を否定します。

倉西氏が推理する救世観音像モデルの最有力候補は、上宮王家(聖徳太子の一族)ゆかりの皇族・高向王です。
高向王は、実像がほとんど知られていません。聖徳太子の父・用明天皇の孫で、舒明天皇の皇后でもあった皇極天皇(重祚して斉明天皇)の前夫であるとされています。
なお不明とされる高向王の父について、倉西氏は用明天皇の皇子の可能性がある宗像君徳善だとする仮説を提唱しています。徳善が葬られたとされる福岡県の宮地嶽古墳は、規模・副葬品ともに天皇陵クラスです。

倉西氏は百済観音像と救世観音像を比較し、それぞれを祀る勢力がライバル関係にあったことを指摘します。
百済観音像=親物部氏、外交は百済派、モデルは中大兄皇子
救世観音像=親蘇我氏、外交は唐・新羅派、モデルは高向王
物部氏は蘇我氏との仏教受容戦争で、蘇我氏は乙巳の変(大化の改新)で完全に滅亡したわけではなく、その後も朝廷の勢力争いに関与していたようです。

663年の白村江の戦いで日本・百済連合軍は唐・新羅連合軍に敗れ、百済は滅亡します。
しかし勝ち馬に乗ったはずの新羅も、結局は唐に都督府を置かれてしまいました。
白村江という局地戦には敗れたものの、唐に毅然と立ち向かい、防衛強化に努めて日本の独立を守った中大兄皇子の選択を、倉西氏は高く評価しています。

最終章では、救世観音像の封印をいつ誰が命じたのか、倉西氏の推理が展開されています。

(12月9日読了)

倉西裕子ホームページ 倉西先生のご学問所

【不純文學交遊録・過去記事】
女帝・かぐや姫


(管理人のひとりごと)

蘇我氏の出自について、コメントをいただいたことがあります。
私は古代日本のルーツを、なんでもかんでも中国・朝鮮半島渡来に求める歴史観には与しません。
蘇我氏には朝鮮半島出身を思わせる名の人物がいますが、蘇我氏そのものが渡来人であるとする決定的な証拠には至っていないでしょう。
ただ、蘇我氏が渡来人集団と密接な関係があったのは事実で、海外の文物を積極的に取り入れて勢力を拡大した一族であったといえます。
シルクロードの終着駅ともいえる飛鳥・奈良。はるか西域由来の知識や技術をも持った一族が蘇我氏ではないかと思うと、想像力が膨らみます。


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 12:19| Comment(8) | TrackBack(1) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
fujunさん、こんばんは。
「聖徳太子」という名称は没後百年以上も経った天平年間に登場し、急に有名になったようですね。時の僧・行信が斑鳩宮復興を目指して夢殿を建て、「太子ゆかりの品」と称する物を掻き集めたそうで、その中のひとつが救世観音像。ところがこの仏像、包布でぐるぐる巻きにされたどころか、百毫と思われたものは何と釘の頭だそうで、額から後木に打ち付けられているそうです。後にこの行信、呪術行使の罪で下野に流刑にされたとか。行信は「聖徳太子伝説」を創るあまり、時の藤原政権にとってとんでもなく都合の悪いものまで持ち込んでしまったようですね。
古代豪族支配の倭国時代から新興律令国家日本国への切り替えが始まったこの時期、「藤原政権が極度に恐れたもの」とは?。救世観音像はその大事な生き証人だと思います。
Posted by ペンタクロス at 2007年12月19日 02:07
ペンタクロス様

ご紹介いただいた救世観音像をめぐるエピソード、なんとも不気味ですね。
光背を直接後頭部に釘で打ちつけてあるのも、非常に乱暴な仕打ちです。

倉西氏の説では、法隆寺東院伽藍は長屋王の鎮魂も担っているとのこと。
長屋王の母・御名部皇女は、蘇我倉山田石川麻呂の孫。
長屋王も蘇我系皇族のひとりと言えます。

倉西氏が考える救世観音像封印の理由は?
封印は、いつ誰が命じたのか?
本書の結末については、ネタバレになるので割愛いたします。
Posted by 管理人 at 2007年12月19日 21:44
梅原猛の『隠された十字架 法隆寺論』(新潮文庫)には、その手の話と梅原氏の独自の解釈が山盛りです。
Posted by おおくぼ at 2007年12月19日 22:48
おおくぼ様

法隆寺には小学校の修学旅行で訪れました。
あの頃は、法隆寺が怨霊を封じ込めた場所だなんて思いもしませんでした。

ちなみに倉西裕子氏の解く救世観音像封印の理由は、聖徳太子の怨霊ではありません。
Posted by 管理人 at 2007年12月20日 21:30
fujunさん、こんにちは。
「法隆寺の怨霊」は奥が深そうですよ。厩戸以前に物部氏の影がちらついています。詳しくは名前にリンクしましたので、お読みください。
Posted by ペンタクロス at 2007年12月21日 14:36
ペンタクロス様

現在の法隆寺と若草伽藍(旧法隆寺?)の位置のズレは気になりますね。
若草伽藍の西への傾斜は何を意味するのでしょうか?
(栗本慎一郎氏の説では、西への傾斜はシリウスの遥拝角度で、ペルシア帝国の首都・ペルセポリスにも見られるという…)
現在の法隆寺の位置は、真北と若草伽藍の傾斜との、ちょうど中間にあります。
正しく南北に向けようとする勢力と、若草伽藍の位置を維持しようとする勢力との間で妥協した結果なのでしょうか?

ご紹介のリンクでは、物部氏と四国の縁について触れていますね。
高知県の旧物部村は、小松和彦氏の「いざなぎ流」の研究で知りました。
ペンタクロース様からのクリスマスプレゼント(竹取物語と四国に関するお話の続き)を楽しみにしています。
秋田県の唐松神社の宮司も、物部さんですね。門外不出の古文書を、一子相伝で継承しているそうです。
Posted by 管理人 at 2007年12月21日 21:17
わたくし、小学生時代は仏像が大好きな変な?子どもでした。法隆寺の救世観音はのぺっとした風貌が強烈なインパクトでした!
これには隠された?いろいろな意味があるのですね。

秘仏といえば、信州を代表する善光寺のご本尊・釈迦三尊像は秘仏です。御開帳のときに公開するのは前立ですので、本当の本物はいまだに秘仏らしいですね。美術という観点からも見てみたいような気がします!
Posted by 線翔 at 2007年12月27日 12:42
線翔様

善光寺のご本尊は、欽明天皇の時代に日本で初めてもたらされた仏像だとの伝承があるそうですね。美術品としても史料としても興味が惹かれます。
俗人の興味に応えるかたちで見せてくれそうにはありませんが…(笑)

これは小説ですが、当blogがたびたび交遊している高田崇史氏の『QED』シリーズ新作は、信州・諏訪の御柱祭りを採り上げます。来年1月の発売が楽しみです。
Posted by 管理人 at 2007年12月28日 20:07
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Tracked: 2007-12-18 10:06
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