2008年01月21日

新しい年のはじめには自由について考えよう

この本を手に取るのは、初めてではありません。
当blogはこれまで、たびたび「リバタリアニズム」への賛同を表明してきました。
自由主義を意味する言葉に「リベラリズム」があります。しかし実際には、市場原理よりも公共サービスの充実や富の再分配を重視する立場が「リベラル」と呼ばれます。また、経済的自由を主張しながらも個人の自由への介入を認める立場は「保守主義(コンサヴァティヴ)」と呼ばれます。
あまりにも多義的になった「リベラリズム」に対し、個人的自由も経済的自由も尊重するのが「リバタリアニズム」の思想なのです。なお、あらゆる自由を純粋に追求するリバタリアニズムにとって、個人的自由と経済的自由とは区別されるものではありません。

リバタリアニズムの最も優れた入門書と評されているのが、森村進氏の『自由はどこまで可能か』(講談社現代新書)です。



本書では「リバタリアニズム」と「アナルコキャピタリズム」を明確に区別しています。
リバタリアニズムは個人の自由を最大限尊重しますが、国家の存在を否定するものではありません。対するアナルコキャピタリズムは「無政府資本主義」と訳されるように、国家の存在を明確に否定します。
本書は何らかの国家の役割を認めるリバタリアニズムを中心に紹介し、アナルコキャピタリズムに特有の主張にはそのつど断りを入れています。

森村氏は、最低限の社会保障は必要だとの立場です。
自分の責任ではない事情のために、自分の能力と財だけでは生きてゆけない人は存在します。日本国憲法第25条に謳われる「健康で文化的な最低限度の生活」の保障です。ただし公的な年金や雇用保険、健康保険を認めるものではありません。
全体的には穏健な論調なのですが、家族についての提言は非常に大胆です。森村氏が想定する「家族」には、結婚も離婚も遺産相続も高齢者の扶養義務も存在しません。しかしそれは現在の家族形態の否定ではなく、その法定への反対です。「友情や恋愛は法によって規定されていない」と。
本書の魅力は、森村氏のこの文章にあるんでしょうね。リバタリアンの消極的な政治観への批判に対しては、「政治家の公約は商人の契約ほど当てになるだろうか?」と切り返します。

森村氏はもちろん、リバタリアニズムが地球環境問題をも解決すると主張しますが、疑問があることも認めています。
ひとつは、未だ見ぬ将来世代への責任が不明確なこと。もうひとつは人間中心主義的すぎるリバタリアニズムが、自然保護と相容れるのかということです。
私は自分の自由と同様に、他者の自由(他者の生命)をも尊重するストイックさが、リバタリアンに求められる資格だと思っています。

独自のアナルコキャピタリズムを唱えていることで知られるのは、作家の笠井潔氏です。笠井氏の著作『国家民営化論』は、本書でもたびたび言及されています。
竹内靖雄氏の『経済倫理学のすすめ』には、社会の諸問題(感情)を市場(勘定)で解決する策が語られています。
昨年(2007年)出版された蔵研也氏の『リバタリアン宣言』は読み易い本ですが、リバタリアニズムを「勝ち組エリートの思想」だとする出版社の紹介文がイヤラシイ(笑)。橘玲氏が言うように、リバタリアニズムは弱肉強食を肯定するものではないのです。
なお私は、精神的には個人の自己決定を絶対視するリバタリアンですが、現実の社会制度としては富の再分配は必要だと考えます。

(1月2日再読)

【不純文學交遊録・過去記事】
「クニガキチント」しなくていい
ヒトがモノになる…
イケナイコトカイ
波状攻撃三連射


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 19:50| Comment(22) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
家族や地域共同体のような個人レベルより上の集団ユニットをリバタリアニズムが積極的に否定はせずとも(法定や公的支援しないだけで)、合理的個人主義に基づくリバタリアニズム的な世界観が世に蔓延すれば、結局そうした伝統的な相互扶助の集団ユニットも廃れて行ってしまうように思います。

それでも国民がみんな自助努力で一人でも力強く生きていける個人主義者であれば良いですが、世の多くの人はそうではない。といって公教育で国民を立派なリバタリアンに教育するようなことをすれば思想の自由を侵害し、自由を殊更尊重するリバタリアニズムにとっては自己矛盾に陥ってしまう。

リバタリアニズムという理念があり、それに基づいて社会を作る、という一方通行ではなくて、リバタリアニズムのような世界観自体が生まれてきた、より大きな社会的・歴史的背景も含めて深く考えていかねばならないような気がします。
Posted by Hermeneus at 2008年01月21日 22:22
Hermeneus様、いらっしゃいませ。

本文でも述べましたように、私は個人の心情・信条としてリバタリアニズム(むしろナルシシズムに基づく自己決定主義と言っていいかもしれません)を信奉しています。現実の政治・経済制度としてリバタリアニズムがふさわしいとは思っていません。

私は富の再分配の必要性を認めます。
経済格差の大きな社会は、社会全体の活力が損なわれます。格差がありすぎてやる気が出なければ、競争する意欲も生まれません。
そして自由な競争が行われるには、公正な市場を運営するコストがかかります。それは市場のプレイヤーが税で負担せねばならないでしょう。
また、広域な経済活動では武力による脅威やニセモノを掴まされるリスク、言語や貨幣価値の相違から生じるトラブルがありがちですから、国家という名の用心棒(ヤクザの親分?)が必要となってきます。

Hermeneus様の疑問に対して森村氏は、法や制度で定めなくても家族愛は存在するし、諸個人の自発的な行動によって相互扶助的な共同体は自生すると回答するものと思われます。
Posted by 管理人 at 2008年01月21日 23:15
富の再分配についてはリベラリズムとの対立点になりますが、後者の共同体の問題は文字通り共同体主義(コミュニタリアニズム)との対立点なわけです。これは初期ロールズのリベラリズムに対する批判にも共通することですが、共同体主義者達は「それでは共同体は自生しないだろう」と主張するわけですよね。

実際、家族・地域共同体の崩壊が言われて久しいわけですが、リバタリアニズムはこの傾向に拍車をかけることはあっても解決策とはなりえないのではないでしょうか? 国家が積極的に介入して家族や地域共同体を活性化するのもまた何ではあるとは思いますが、と言って「何もしないでOK」という選択肢は無いように思います。『ポリティカルリベラリズム』以降のリベラリズムは方向転換して共同体問題についても積極的に取り組んで行くことになりますが、リバタリアニズでは今でもこの問題は基本スルーでしょう。

そして、個人を重視するリバタリアニズムのような思想自体もまた、西欧近代という共同体が育み支えてきた文化的遺産であることは留意しておく必要があるでしょう。リバタリアニズムは物理法則のごとく永遠普遍の真理として天空に鎮座しているわけではない。更には、リバタリアニズムという思想は、そのような思想を育む土壌となる共同体の存在を尊重しえない。つまり、自由を蔑ろにしてもいい自由を認め、ある意味自身を否定しかねない。民主主義を否定する独裁主義政党を民主的選挙で当選させてしまう的な事態にもなりかねない。その歴史的、社会的背景からリバタリアニズムという抽象概念だけを切り離して、普遍的法則であるかのように扱い、政策レベルでどんどん推進していってしまうのは危険ではないかと私は思うのです。

実際、日本社会も自由の恩恵を受けるようになって久しいわけですが、昨今は自由のありがたみをあまり感じない人が随分増えたのではないでしょうか? 逆に自由の弊害を批判する人のほうが多いくらいです。憲法や国連憲章で謳われる自由という理念は、自明で崇高な抽象理念であるかのように暫し言われます。しかし、その価値はやはり前近代の不自由な階級社会、そしてそれに対する改革の歴史という具体的な背景があって初めて分かるものなわけです。元奴隷の人間が勝ち取った自由のありがたみを今の人は感じることはできない。だから今の子供達にはそれを知識として教えるしか無い。しかし、市民教育でそれを補うようにすれば先にも言ったように思想の自由に觝触しかねない。

リバタリアニズムの提唱する理想社会像は大変興味深いものではありますが、実現可能な政治思想たるにはより深い包括的な人間存在の考察が必要なように思います。人間はサルの頃より社会的な動物ですから、共同体の問題は避けて通れません。これまで共同体が果たしてきた役割を別の個人主義的制度で置き換えるというような代案があればまだ分かりますが、楽観的に「放っておいても自生するから大丈夫だろう」では政治思想として深刻な欠陥であるように私は思うのです。
Posted by Hermeneus at 2008年01月22日 01:27
Hermeneus様

太古の人類は国家なき状態にありましたが、当時の人類に「自由な個人」という概念があったとは思えません。
橘玲氏は訳書『不道徳教育』でこう書いています。
“リバタリアニズムの本質は、「自由な個人」という近代の虚構(というかウソ)を徹底する過激さにある。その無謀な試みの先に、国家なき世界という無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)のユートピアが蜃気楼のように浮かぶとき、人はそれを「希望」と呼ぶのかもしれない。”
私が多言を弄するよりも、ずっと明快にリバタリアニズムの魅力を語っています。

なお、民主主義を否定する独裁主義政党を民主的選挙で当選させてしまう危険性は、リバタリアニズムだけの問題ではありません。
Posted by 管理人 at 2008年01月22日 22:35
リバタリアニズムを論じる時は、生命倫理学と環境倫理学を無視できないと思います。

加藤尚武氏によれば、生命倫理学と環境倫理学は対立する立場にあるそうです。一種の宗教戦争?

武田邦彦と池田清彦(A田B彦コンビ、AとBは任意の漢字)の本は、倫理学の書として読むと面白い気がします。彼らの意見に、賛同する、しないに係わらず。

倫理学には、科学のような真偽はないと思います。でも倫理学を学ぶことは、政治・政策を決めるための、有効なトレーニングだと思います。自分と違う立場に立って考えるということは重要です。
Posted by おおくぼ at 2008年01月23日 00:02
リバタリアニズムという「虚構」を「過激」に「徹底」させようとすれば、リバタリアニズムの理念に反することになるのではないでしょうか? 自然のままの状態では人間が「自由な個人」たりえないなら、何らかの形で人々を教育しなければならない。しかし、リバタリアニズムの思想教育を強制的に行えばリバタリアニズムの理念に反するでしょう。あるいは、共産主義がプロレタリア独裁を介して「平等」なユートピア社会実現を目指したように暴力的な手段を取るにしても、同じく自己矛盾することになる。矛盾を顧みず結果重視で断行したとしても成功する公算が高いとは思えない。この種の「過激」な理想主義に走ればたいへん危険です。

仮に何らかの形でリバタリアニズムが提唱するような理想社会が実現しても、先に指摘した諸問題が残っている。この問題はリバタリアニズムに固有のものではなく、リベラリズムにも共通するものです。地域共同体の崩壊や自由理念に対する尊重の薄れなどは、実際の西欧型自由民主主義社会において起こっている現象です。それゆえにリベラル-コミュニタリアン論争が生じたわけですが、リバタリアニズムはこの論争の蚊帳の外であったように思います。リバタリアニズムにこうした現代的な問題に対する解決策も代案も無いとすると、魅力的であっても実現可能性を欠くとすると、政治思想としては致命的な欠陥であるような気がします。
Posted by Hermeneus at 2008年01月23日 00:08
おおくぼ様

生命倫理学は個人の生の尊厳を重視し、リバタリアニズムと親和性が高い。
環境倫理学は地球の生態系の保全を重視し、ファシズムと親和性が高い。
加藤尚武氏は、生命倫理学と環境倫理学の対立は、個人主義と全体主義の対立であると述べていますね。

市場原理の方が資源は効率的に使われ、省エネ技術の革新も進むと主張する「リバタリアニズム環境倫理」、遺体はすべて国家が回収して、使える臓器を病人に分配すべきだとする「ファシズム生命倫理」もありえます。

極端なケースを思考実験することで、見えてくるものがありますね。
Posted by 管理人 at 2008年01月23日 22:32
Hermeneus様

橘玲氏は、リバタリアニズム教育を徹底しろとは一言も書いていませんが…

100%統制社会が上手く行かないように、100%自由な社会も上手く行きません。
国家も法律も全く必要ないと考えるリバタリアンは、ごくごく少数派でしょう。
完全なリバタリアニズム社会が実現不可能だからといって、リバタリアンの唱える政策がすべて実現不可能である、リバタリアニズムが政治思想として無価値であることにはなりません。
例えば警察や裁判所や刑務所の民営化は、実現可能な政策であると思います。
Posted by 管理人 at 2008年01月23日 23:32
哲学は思考実験です。映画や演劇や小説と同じです。

ただ「論理の整合性」と「概念の厳密さ」を要求するところが、芸術作品とは違います。
Posted by おおくぼ at 2008年01月23日 23:48
最近、捕鯨問題の専門家・小松正之さんの本を読んでいます。捕鯨問題もリバタリアニズムの問題として考えることができます。

倫理学では、どんな問題でも、絶対的に正しい答えはありません。その状況にあったベストな回答を模索するしかないと思います。
Posted by おおくぼ at 2008年01月24日 00:11
政治思想であるからには、重要なのは枝葉末節の政策レベルではなくて、最終的に目指すところの理想社会像、およびその正当性を立証する哲学的根拠と、その実現可能性じゃないかと私は思います。

民営化という政策自体は、別にリバタリアニズムを思想的後ろ盾にしなくても他の思想・目的から行うことも可能なわけですし。例えば福祉制度を推進するのには共産主義者にならなくとも社会民主主義者で十分なように。仮に福祉制度という一政策が優れたものであったとしても、それは必ずしも共産主義が優れた思想であることを意味しないわけです。

やはり考慮されるべきは、その思想が提唱するところのものが全て実現した状態でしょう。その完成された状態にある社会は、果たして真に望ましい正当なものなのか? そして、実際の社会がその状態に至るための現実的な手段はあるのか?

仮に95%の自由化で留めることを目的にするなら、その95%自由な社会の状態というのは本当に望ましいのか? それは実現可能なのか?
Posted by Hermeneus at 2008年01月24日 01:05
おおくぼ様

私の捕鯨問題に対する見解は…
クジラが希少な生物であるなら保護すべきです。クジラが食べられなくなったって、日本人が飢える心配はありません。
ただ、捕鯨禁止の倫理的根拠として「クジラは知能が高い(人間に近い)生物だからウシなんかとは違う、だから捕鯨は禁止せよ!」と肉食文化の人たちからは言われたくないですね。
クジラは知能が高いから大切にせよというなら、知能に障害を持った人間は生きる価値がないのか…という問いにもなりかねません。

これは生命倫理にも向けられた問いであります。
脳死移植や安楽死は、本人の自己決定であるなら尊重すべしというのが生命倫理学の立場です。
では、知能に障害のある人の「意思」は確認できるのか?
知識が十分でない子供の「意思」は、どこまで尊重すべきか?
自己決定主義のカバーできない部分だと思います。
Posted by 管理人 at 2008年01月27日 16:24
Hermeneus様

95%自由な社会が望ましい社会であるかどうかわからないように、50%自由な社会がバランスの取れた良い社会であるかどうかもわかりません。
完全な民主主義(例えば全員参加の直接民主制)が実現したとしても、そこで行われる政治が理想的であるかどうかはわかりません。

私は、法や規制がなくても上手くいく100%自由な社会が実現するなら、それは望ましいことだと思います。
しかしながら、すべての人間が他者に危害を加えない「道徳的な自由人」であるという保証はありません。
また、私が他人に危害を加えない範囲で享受したつもりの自由が、もしかすると誰かに損害を与えている可能性を完全に否定することはできません。

自由な意思とやらを持った生物、人間のやることは複雑で不確実です。
自然の摂理に従って生きている生物の世界とは異なります(生物の世界もそう単純ではないかもしれませんが…)。
政治思想や倫理学に、万人が納得する「絶対的に正しい答え」はないでしょう。
それでも正しい答えに近付こうと試行錯誤することに、知恵あるヒト=ホモ・サピエンスの存在価値があると思っています。
Posted by 管理人 at 2008年01月27日 17:06
家畜は良くて、鯨やイルカは駄目なのかは、宗教問題ですね。でも、かつては欧米も捕鯨をして、大量に鯨を虐殺してました。鯨の肉を食べる習慣は無く、皮や油を取る目的で捕鯨してました。

これは差別問題として考えることができるでしょう。

アメリカの大統領選挙では、キリスト教徒が圧倒的に有利です。陪審制もそうですが、多数決の制度では、少数派は不利です。

捕鯨問題を「信仰の自由」の問題として、国際的に考えてみる習慣があってもいいかもしれません。そうすると、「人食い」はどうなるの?と言う問題に突き当たるかもしれませんが(笑)。
Posted by おおくぼ at 2008年01月28日 06:52
江戸幕府に開国を迫ったペリー。彼の使命は、アメリカの捕鯨船に燃料や水を補給するための寄港地を確保することでした。
今では日本のローカルな文化と思われがちな捕鯨が、実は日本を国際社会に送り出すきっかけになったわけです。
石原莞爾は、極東軍事裁判の検事が「日本の戦争責任は日清・日露戦争にさかのぼる」と述べたのに対し「それならばペリーを連れて来い」と答えたとされます。日本は泰平の眠りから、無理やり世界帝国主義戦争に引っ張り出されたのだと。

「人食いは良いのか?」との問いは極論でしょうが、こんなケースはどうでしょう?
ある少数民族が主食とする動物(あるいは植物)が、もう地球上ではその地域にしか生息していない希少種だった場合、私たちは彼らの主食を奪うことはできるのでしょうか。他の地域では既にその種を絶滅させてしまった責任を棚に上げて…

生命倫理・環境倫理は、ローカリズムとグローバリズムの対立という問題もあぶり出してくれますね。
Posted by 管理人 at 2008年01月28日 18:33
蔵硏成さんの本でこんなのがあります。

http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%84%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84-Yosensha-Paperbacks-033-%E7%A0%94%E4%B9%9F/dp/4862482082/ref=pd_sbs_gw_img_1/503-3340160-0279923


橘玲さんは『雨の日は幸福について考えてみる』がいいですね。


小さな国家論は、ハイエクが有名です。ナチスなどの強権からの反省から、強い警察国家を嫌う思想ですね。

国家の機能をなるだけ弱くし、巨大な国家連盟を作るという思想もあります。EUなんかがそうですね。

国家の機能を、自動車社会を例えるなら、道路がなければ困るし、信号は必要だし、違反した車は取り締まらないといけないし、事故は処理しなければいけません。

でも一部の人だけが優遇されたり、必要もない道路ばかり造られると無駄です。
Posted by おおくぼ at 2008年02月05日 01:37
おおくぼ様

自由な社会には、自由を守るためのルールが必要。
池田信夫氏のblogを読んでいますと、リバタリアニズムとアナルコキャピタリズムは全く違うことをたびたび強調していますね。

本題とは離れますが、雑誌『NAVI』の京都会議直前エコロジー特集(1998年1月号)を読み返してみましたら、まるくす主義編集者・鈴木正文氏が面白い発言をしていました。
「鉄鉱石や原油の採掘で地球の比重が軽くなり、地球は太陽に近付いていく」
地球の重さって、そんなに変わるもんなんでしょうか?
Posted by 管理人 at 2008年02月06日 21:51
不純文學さんは前に、講談社現代新書の「鉄」の本を紹介してましたね。

鈴木編集長と言えば、矢作俊彦の小説のモデルですね。

>「鉄鉱石や原油の採掘で地球の比重が軽くなり、地球は太陽に近付いていく」

化石燃料は地球の体積では、ゼロに近いぐらいです。中心から見ると、かなり表層の方にしかありません。だから「化石が燃料になった」という仮説が強いのです。

でも、地球は金属が多いのは事実です。でも採掘不可能な金属がほとんどです。しかも液体状だし。

地球が太陽に近づくことはないでしょう。でも太陽が大きくなって、距離が縮まることはあります。太陽は気体です。

引力では木星の引力が大きいみたいです。

鈴木編集長の発想は、古代の天文学論争を連想させて楽しいです。子供の心を忘れない人なんだと思います。

頑張れ!スズキさん
Posted by おおくぼ at 2008年02月07日 04:08
おおくぼ様

私が書物に求めるものは、まさに「奇想」と「非日常性」です。
倫理学もまた「奇想」を「競う」思考ゲームですね。

完全な共産主義社会はロボットの社会でしか実現しないという、稲葉振一郎氏の発想も面白いです。
そして完全に自由な社会は、人間が肉体から自由になって思念のみで生きる生物に進化したときに実現すると私は思います。

サイバースペースには無限の自由がありそうですが、実際にはサイバースペース内での行為から利害関係を生じる、肉体を持った人間がサイバースペースの外にいます。
また、サイバースペース内にアクセスするには一定の経済力が必要です(パソコンや通信インフラや電話料金)。
そしてサイバースペースは物理的に無限大ではなく、サーバ容量という限界があります。
Posted by 管理人 at 2008年02月08日 22:34
私は「奇想」は好きで、特に澁澤龍彦ワールドがいいです。中世欧羅巴の人々は、真面目に「奇想」の世界を構築してました。

けれど、私は倫理学に「奇想」を求めてはいません。

極端な例を想像することで、現実をうまく把握できることがあります。でも、それは「奇想」を求めているからではありません。

私はSF的な解釈を倫理学に求めますが、それは「奇想」を求めているからではなく、抽象的な言葉遊びになりがちな「不毛な哲学論争」への打開策からです。私が永井均を評価するのは、「奇想」からではなく、SF的な解釈と論理的な整合性からです。

     ★

計画社会がロボットや技術革新を前提にしているのは、サン・シモンなどの例があります。社会主義国家の計画経済も、人間をロボットとして、見なす考えから来ています。

     ★

サイバースペースであろうと、なかろうと、人と人の対立は無くなることはありません。

人が権利を主張した時には、対立は必然なのです。

ルソーの『社会契約論』や吉本隆明の『共同幻想論』の問題点でもあります。スターリンのように、反乱分子を弾圧して、カリスマ的な崇高(宗教の教祖)を重視する社会は、嫌いです。

呉智英の分析の通り、共産主義社会はフランス革命思想の実現でもあります。

マルクスは評判悪いですが、彼にはユートピアの思想は微塵もありません。彼は徹頭徹尾、革命家です。『共産主義宣言』は共著になってますが、エンゲルスの本です。

ポール・ジョンソン・著『インテレクチャルズ』(講談社学術文庫)を読むと、ルソーとマルクスの実生活と人間性が理解できて、爆笑です。オススメ本です。


>「人間が肉体から自由になって思念のみで生きる生物に進化したときに」

石原莞爾を連想しますけど。


Posted by おおくぼ at 2008年02月09日 00:46
>「サイバースペース内にアクセスするには一定の経済力が必要です(パソコンや通信インフラや電話料金)。」

年々、コストは安くなっています。また貧しい国でも、急速に普及しています。サイバースペースは、道路のような公共施設になるかもしれません。


>「サイバースペースは物理的に無限大ではなく、サーバ容量という限界があります。」

量子コンピュータの開発が進むと、変わるかもしれません。
Posted by おおくぼ at 2008年02月09日 00:54
おおくぼ様

私の言うところの「奇想」は、島田荘司氏の『本格ミステリ宣言』に由来します。
「奇想」とは非凡な発想であり、本格ミステリである以上、論理の美しさがなくてはなりません。非論理的・非科学的な発想を、私は「奇想」ではなく「妄想」と呼びます。

「肉体を持たない生命体への進化」のネタ元は、栗本慎一郎氏です。
思念のみの存在ならば、自由な市場での競争に敗れても、食うに困る心配はありません。
でも、たとえ物質的制約から完全に解放されたとしても、発言が気に入らないとか名誉を傷つけられたとか、騒ぐのが人間なんですけどね(笑)
Posted by 管理人 at 2008年02月10日 17:36
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