2008年03月02日

日続き知らす可き王無し

万世一系とされる天皇家。しかし日本の歴史には皇位継承の危機が幾度もありました。第25代武烈天皇なきあとを『古事記』はこう記します。
「日続き知らす可き王無し(ひつぎしらすべきみこなし)」
皇位継承者がいなくなってしまったのです。そこで近江に生まれ越前で育った応神天皇五世の孫・男大迹王が継体天皇として擁立されます。507年のことです。

昨年(2007年)は第26代継体天皇の即位から1500年、ゆかりの地である福井・滋賀両県では数々の催しが行われました。滋賀県立安土考古博物館の大橋信弥氏も、一連の催しに招かれた一人です。
私はいくつかの講演・シンポジウムに出向きましたが、残念ながら大橋氏の意見をうかがう機会には恵まれず、このたび著書を手にとってみました。



継体天皇と即位の謎

『古事記』には応神天皇五世の孫と記すのみ、『日本書紀』も父母の名を記すだけで、その出自が明らかではない継体天皇。
ただ、後世の『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』が引用する『上宮記』には、空白となっている応神から継体までの系譜が記されています。『上宮記』には記紀成立以前の用字法が見られる(後世の作為性が低い)そうです。
とはいえ記紀の記述が全て史実だとは言えないと、大橋氏の態度は慎重です。

継体天皇に限らず、この時代は皇位継承が不安定でした。第21代雄略天皇はライバルとなる皇子を次々と粛清したために、有力な皇位継承者が絶えてしまったのです。
雄略天皇の子である清寧天皇には後嗣がなく、雄略天皇の粛清を逃れて播磨国に身を隠していた弘計王・億計王の兄弟が発見され、それぞれ顕宗天皇仁顕天皇として即位します。
また、清寧天皇崩御後の空位期間は飯豊皇女が執政し、飯豊皇女を事実上の日本最初の女帝だとする説もあります。

継体天皇を地方豪族だとする説のなかでは、出自を近江の息長氏に求める説が有力です。
オキナガと言えば、息長帯比売命こと神功皇后を思い出します。神功皇后は、継体天皇の祖先である応神天皇の生母。魅力的な説に思えますが、大橋氏は継体天皇=息長氏説を真っ向否定。息長氏が中央政界で力を持つようになったのは、もっと後の時代だとします。
また、継体天皇出生地の近江国高島は父・彦主人王の「別業」であって、彦主人王は畿内近郊に本拠地を持っており、継体天皇はいきなり中央政界に現れたわけではないといいます。そして宮内庁指定の継体陵である大田茶臼山古墳を、大橋氏は彦主人王の陵墓だと考えているようです。

ここ10年ほどの間に発表された文章をまとめた為に、各章に重複した記述が多く見られますが、繰り返しのおかげで大橋氏の主張が明確になっています。

(2月25日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
ピンク石の秘密
天皇陵、発掘。
【不純文學交遊界】
古代史の謎・継体天皇


継体天皇と武烈天皇は10親等離れています。
10親等離れていても皇族には違いないといえますし、10親等も離れていれば赤の他人だということもできます。
後世にも、血縁の遠い傍系皇族が皇位を継承した例はあります(第102代後花園天皇と第119代光格天皇)。
また、いったん臣籍降下(源氏を名乗る)したのち再び皇族に復帰して皇位を継承した宇多天皇の例もあります。

男大迹王が皇族であっても地方豪族の一人としか見られなかった可能性はありますが、父祖が中央政界に関与していたなら、皇親としてすんなり認知された可能性もあります。

継体天皇擁立に先立ってヤマトの豪族たちが擁立しようとしたのが、仲哀天皇五世の孫を称する倭彦王です。
仲哀天皇は応神天皇の先代にあたります。仲哀天皇五世の孫と応神天皇五世の孫が、相次いで皇位継承候補に名前が挙がったのが面白いですね。
仲哀天皇と応神天皇の間にも、皇統の断絶を示唆するようなエピソードがあります。仲哀天皇が急死すると、神功皇后は身ごもっていた皇子の出産を遅らせました。この皇子がのちの応神天皇です。

ヤマト朝廷の基盤が固まった継体天皇の時代。
武烈天皇の時代には平群氏が没落、継体天皇を擁立した大伴氏は欽明天皇時代に失脚、その後は蘇我氏が勢力を伸ばします。
考古学的には、真の継体陵とされる今城塚古墳をはじめ、この時代の古墳の石室に阿蘇凝灰岩(通称ピンク石)が用いられているのが注目されます。

大橋信弥氏は、継体天皇が応神天皇五世の孫であるかどうかはわからないが、五世紀の大王家につながる傍系王族で、武力で皇位を簒奪した地方豪族ではないとの見解です。ただ、実質的に新しい王統を開いて飛鳥時代の幕を開いた天皇であるとしています。


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 19:43| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
fujunさん、こんばんは。
記紀は8世紀に創られた「天皇家物語」なので、ハマッテしまうと底無し沼です(虚実混交)。昔も今も官僚の仕事には要注意ですね(笑)。諏訪のタケミナカタにも天皇家の伝承とは違った面が多々あり、現在ブログで掲載中ですので、ぜひご覧ください。
Posted by ペンタクロス at 2008年03月04日 03:23
ペンタクロス様

正史であれ稗史であれ、歴史書は編纂者の都合の悪いことは語りませんね。
『上宮記』の記述に後世の作為がなくとも、聖徳太子の伝記が上宮家の始祖(聖徳太子の曽祖父)である継体天皇の出自を悪く書くはずはないでしょう。
(私に『上宮記』の真偽を判定する資格はありません。そういう推理が可能という意味です)

内陸に位置する諏訪に、海人族の足跡があるのは面白いですね。
浦島太郎伝説の地・寝覚ノ床は、海の民との交流があった証でしょう。
Posted by 管理人 at 2008年03月04日 22:31
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