2008年05月26日

鏡よ鏡…

21世紀の現在になっても決着がつかない、何百年も続いている論争があります。
その論争とは、邪馬台国はどこにあったのか?

邪馬台国の候補地は日本全国(日本国外にも!)ありますが、学界を二分しているのは畿内説と九州説です。
私は今のところ、魏志倭人伝に描かれた邪馬台国の風物が南方系であること、卑弥呼の鏡と呼ばれる三角縁神獣鏡が中国からの出土例がないこと、そして卑弥呼の死の前後に皆既日食が発生していることから九州説を支持しています。
そこで邪馬台国畿内説批判の急先鋒、安本美典氏の最新作を手に取りました。
内容に偏向があることはご了承ください。



「邪馬台国畿内説」徹底批判 安本美典 著

魏志倭人伝に記された邪馬台国への行程は「南へ水行十日陸行一月」。
南へ陸行一月だと、邪馬台国は九州を飛び出して海の彼方…そこで「南」とは実は「東」なのだと方角を読み替えるのが畿内説、方向は正しいが距離を誤りだとするのが九州説です。
安本氏は、陸行一月とは直線距離で一ヶ月という意味ではないとします。
魏の使者は邪馬台国の王都に着くまでに、各地を視察したり接待を受けたりしていたのかもしれません。聖徳太子の時代、隋の使者・裴世清は、難波の港から飛鳥に入るまでに一ヶ月かかっています。また、大和へ向かう場合、陸路ではなく船で瀬戸内海を行くのが常識であると安本氏はいいます。

邪馬台国論争は、考古学的には畿内説が有利とされてきましたが、九州説に有利な物証もあります。
魏志倭人伝によれば、邪馬台国の人は鉄の鏃を使っていました。弥生時代の鉄の鏃(やじり)は九州からは大量に出土していますが、畿内からはごくわずかです。
倭人は養蚕を行い、魏への献上物にも布がありましたが、弥生時代の遺跡から発掘された絹はすべて九州のもので、畿内で絹が見つかるのは古墳時代以降です。
邪馬台国とは魏志倭人伝に記された国であり、魏志倭人伝に基かない邪馬台国論はありえません。

畿内説支持者が、卑弥呼が魏から贈られた銅鏡だとする三角縁神獣鏡。
安本氏は神獣の文様は呉のもので、邪馬台国と交流のあった魏・晋の鏡ではないとします。また、鏡が出土するのは四世紀以降の古墳であり、卑弥呼の時代よりも後です。畿内説支持者のなかにも、三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡とすることに否定論があるようです。
最古級の前方後円墳である奈良県桜井市の箸墓古墳を、卑弥呼の墓だとする説があります。箸墓の築造年代を、卑弥呼の没年に近い三世紀後半にまで遡る説が出ていますが、安本氏は出土する布留式土器は四世紀のもので、卑弥呼の時代には届かないとします。
マスコミの報道が「はじめに畿内説ありき」であり、畿内から出土する遺物を意図的に邪馬台国に結び付けていると批判する安本氏。あの「旧石器時代捏造事件」と同じ過ちを繰り返しているといいますが、当然、畿内説支持者からは反論があることでしょう。

今秋、吉永小百合・竹中直人主演の映画『まぼろしの邪馬台国』が公開されます。
1967年、著書『まぼろしの邪馬台国』がベストセラーとなり、日本中に邪馬台国ブームを巻き起こした宮崎康平・和子夫妻の物語です。
映画をきっかけに、再び論争が燃え上がるのでしょうか?
鏡よ鏡、邪馬台国はどこにある…

(5月19日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
邪馬台国は、ここにある。



posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 00:36| Comment(42) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんばんは、おおくぼです。

私は九州説を応援したいです。
不思議だと思っているのは大和朝廷の場所です。
どうして海から遠い場所に作ったのか?です。

あと謎なのは、ヒミコは支那の歴史書に出てくるのに、推古天皇は出て来ません。不思議です。
隋の使者・裴世清は会わなかったのでしょうか?
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年05月26日 22:10
おおくぼ様

私は今のところ九州説を支持しますが、当時の大和にも巨大勢力はあったと思います。

大和が王都に選ばれたのは、天然の要害の地だからでしょうか。
交易を重視するなら、海に面した難波が有利ですね。
どちらをとるかは、その王権の性格によると思います。
最大級の古墳である、伝応神陵や伝仁徳陵は大阪にあります。背後の憂いがないほど強大な王権だったのでしょう。

隋書倭国伝に登場するタラシヒコさんは、日本側の記録の誰に相当するのか…大きな謎ですね。
Posted by 管理人 at 2008年05月28日 00:30
聖徳太子の実在を疑う本はあるのですが、推古天皇の実在を疑う本を知りません。

何故でしょう?

関係ないですけど、『邪馬台国はなかった』(朝日文庫)という本がありますね。
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年05月28日 20:43
>「当時の大和にも巨大勢力はあったと思います。」

詳しくは書かれていませんが、中国の歴史書には、日本にたくさんの王国があったことが書かれてますね。
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年05月28日 20:45
トンデモ歴史探偵の、おおくぼ様

魏志倭人伝は、邪馬台国の東に、海を越えてもまた倭人の国があると記しています。
ですから私は九州説を支持しても、同時代に大和に王権があったことも否定しないのです。
邪馬台国は当時最大の国ではなく、たまたま他国を出し抜いて魏と国交を結んだだけかもしれません。

明石散人氏は、魏志倭人伝の記す邪馬台国の位置が海の彼方なのは、ライバル呉の背後に、得体の知れない同盟国があると牽制しているのだと言います。
そうなると邪馬台国は架空の国でもO.K.?

推古天皇=架空説は、面白そうですね。
Posted by 管理人 at 2008年05月28日 22:11
私の仮説は、「隋の使者・裴世清が来る前に推古天皇は亡くなっていた」です。

聖徳太子が煬帝に手紙を出す時点で、推古天皇は亡くなっていて聖徳太子が天皇に即位していたのでは?と考えています。

誰か立証して欲しいのですが・・・。
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年05月30日 20:07
fujunさん、こんにちは。
『日本書紀』は「神功皇后紀」に、『魏志倭人伝』の卑弥呼と壱与の記事を同一人物仕立てでつっこんでトボケています。邪馬台国の記憶が大和にないことを「語るに落ち」ているわけですが、この「大和のおトボケ」が今も続いているんでしょうか。
安本説は優れものですが、安本さん自身は自己顕示欲が強くて、同じ九州説の古田武彦さん個人への攻撃から「古田説の優所」まで批判しており、感心できません。
史学界は大和・九州説で分かれているようですが、実際は唯我独尊状態です(情けない)。
宮崎康平さんは実際に行路を自らの足で踏査したスゴイ人ですが、最後に島原半島(地元)誘導意図が働いてしまったのは残念です。
邪馬台国問題は、日本人が歴史を科学として捉えられるかどうかの試金石ですね。
Posted by ペンタクロス at 2008年05月31日 15:06
おおくぼ様

推古天皇の生没年は、554〜628。当時としてはかなりの長寿です。
聖徳太子(622年没)と蘇我馬子(626年没)は、推古天皇よりも先に亡くなっています。

隋書に記された日本国王「アメタラシヒコ」は、男性名。
これは推古朝の摂政である、聖徳太子を指すというのが一般的な解釈でしょう。
一方、時の推古天皇は女帝なので、これは大和ではなく当時まだ並存していた九州王朝の王だという人もいます。

私があえてトンデモ説を提示するなら…「当時の天皇は蘇我馬子だった」です。
Posted by 管理人 at 2008年06月01日 23:22
私があえてトンデモ説を提示するなら…「当時の天皇は蘇我馬子だった」です。


『聖徳太子は蘇我入鹿である』 (ワニ文庫) 関 裕二
という本があります。

また小林恵子先生の『聖徳太子の正体』も、かなりトンデモ度が高いです。

上には上がいます(笑)。
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年06月01日 23:44
ペンタクロス様

安本美典氏は、古田武彦氏が偽書「東日流外三郡誌」を史実であると支持したことで、古田氏を徹底糾弾していますね。
本書でも安本氏は、優勢な畿内説を論破すべく、あえて過激な調子で論敵を難じています。
確かに安本氏の文章には、好戦的な印象を受けました。

歴史をめぐる論争には、論者の性格やら郷土への偏愛やらが、どうしても反映してしまうみたいですね。
Posted by 管理人 at 2008年06月01日 23:55
おおくぼ様

ご紹介の先生方のトンデモ(失礼!、独創的な)説は、もちろん存じています。

卑弥呼についても、天照大神説、神功皇后説、倭迹迹日百襲媛(箸墓古墳の被葬者と伝えられる)説などがありますね。
Posted by 管理人 at 2008年06月02日 00:30
蘇我馬子天皇説は、血統の問題をどう解決するのでしょうか?

天皇家は、天照大神の子孫なのですが、蘇我馬子は違います。
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年06月02日 20:36
fujunさん、こんばんは。
(こういうことはあまり書きたくないのですが)安本氏と古田氏の確執は偽書事件以前からあって、古田氏は「安本氏となら語り合える」とまで言っていたのに、突然安本氏の古田攻撃が始まりました。双方とも文献&考古総合での同じ九州説だったからでしょうか。それが偽書事件で「喧嘩」的に安本氏が一気に優位に立ち、古田氏の初期の貴重な知見までつぶしにかかった次第です(みっともない)。私は当初お二人が協力すれば(両説とも一長一短あり)、歴史科学として邪馬台国問題を解明できるのでは、と期待していたのですが、とても残念です。彼らはせっかくの科学的知見を社会化できていません。歴史の科学化を遅らせた双方の責任は重大です。(笑っているのは、従来の官製歴史にあぐらをかいている御用学者だけ)。
日本は早く「自らの真の歴姿」を見出さないと、またアホな道程を繰り返すことになるでしょう。
Posted by ペンタクロス at 2008年06月04日 01:16
おおくぼ様

蘇我氏の祖先は、第8代孝元天皇だとされています。
蘇我氏を渡来系だとする説もあります。
いずれにしろ、その出自は定かではありません。
天照大神が皇祖神としての地位を確立したのは、持統天皇の時代だと考えられます。

蘇我氏は、のちの藤原氏のように天皇の外戚として勢力を振るいました。
推古天皇も聖徳太子も、蘇我一族ということができます。
蘇我氏の邸宅は宮門(みかど)、すなわち皇居と呼ばれていました。
蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳の石室は、日本最大級です。
その権力は天皇をも凌ぐものでした。
いや、蘇我馬子こそが天皇だったのか…?

聖徳太子と蘇我馬子によって編纂された歴史書『天皇記』および『国記』は、乙巳の変(大化の改新)で焼失しました。
天智天皇と中臣鎌足によって、歴史は書き換えられてしまったのか…?
『天皇記』と『国記』には何が書かれていたのか、今となっては知る由もありません。

以上、状況証拠ばかりの妄想です(笑)
Posted by 管理人 at 2008年06月04日 22:49
>「私があえてトンデモ説を提示するなら…「当時の天皇は蘇我馬子だった」です。」

>「その権力は天皇をも凌ぐものでした。
いや、蘇我馬子こそが天皇だったのか…?」

足利尊氏が、後醍醐天皇に対抗するためには別の天皇が必要でした。

蘇我馬子には必要なかったのでしょうか?
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年06月04日 23:50
ペンタクロス様

なるほど…学者さんの世界は難しいですね。
私は素人ですから、いろんな人のいろんな説をいいとこどりして楽しんでいます。

古田武彦氏にとって偽書事件は、大きなダメージですね。
『東日流外三郡誌』を「発見」した和田某氏は、完全に世を欺いていたわけですから。
かくいう私も、いわゆる「正史」に飽き足らず、中学生のころ古史古伝にハマりました(笑)
いまでは反省して、超古代文明やらオカルトの類には安易に近寄らなくなりました。

私が邪馬台国論争に足を踏み入れたのは、小学校4年生の時です。
当時は「陸行一月」の記述と、東方の海を琵琶湖と解釈して、畿内説を支持しました。

畿内説のなかには、3世紀の大和(邪馬台国)が既に九州を統一しており、魏志倭人伝が邪馬台国の一部である九州のことを書いたのだとする立場があるようです。
(疑問;九州が邪馬台国の一地方に過ぎないのならば、なぜ王宮があるのでしょうか?)
当時の日本の最大勢力が畿内であろうが九州であろうが、魏志倭人伝が邪馬台国として描いた場所は九州であるというのが私の立場です。
Posted by 管理人 at 2008年06月04日 23:59
おおくぼ様

>足利尊氏が、後醍醐天皇に対抗するためには別の天皇が必要でした。
>蘇我馬子には必要なかったのでしょうか?

必要ありません。
蘇我馬子=天皇説は、蘇我氏が本当は天皇であって、天智天皇と中臣鎌足によって皇位を簒奪され、「馬子」だの「蝦夷」だの「入鹿」だの蔑称を与えられて歴史から消されたという解釈です。
ウケ狙いで思いついたトンデモ説ですけど(笑)

滅ぼされた蘇我氏の怨霊を鎮めるために、聖人・聖徳太子として祀ったとなると、関裕二氏の説になりますね。

Posted by 管理人 at 2008年06月05日 00:18
蘇我馬子=天皇説だとすると、推古天皇はどうなるのでしょうか?実は天皇ではなかった?

隋の煬帝に手紙を出したのは誰?

隋の使者・裴世清が出会った日本の王様は誰?

蘇我氏と物部氏の戦いの理由は?

<<今、歴史は書きかえられる!!!>>
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年06月06日 22:09
おおくぼ様

推古天皇=架空説には、わざわざ架空の女帝を創作するだろうかという疑問はあります。
ただ、卑弥呼・台与・神功皇后など、日本古代史には女性の権力者が多く登場しますね。
また、5世紀に摂政となった飯豊皇女こそ、日本史上初の女性天皇だとする説もあります。

蘇我氏の業績を歴史から抹消するため、蘇我系の有力皇族であった炊屋姫と厩戸皇子に、推古天皇・聖徳太子の称号を贈って事績を顕彰したのでしょうか?
卑弥呼と彼女を補佐した弟の故事に倣って…(まさしく推古?)

歴史上唯一、暗殺されたと正史に記されている天皇、崇峻天皇。
しかし、崇峻天皇暗殺を指示した蘇我馬子は、全くのお咎めなし。
しかも崇峻天皇は、亡くなったその日のうちに埋葬されています。
普通、天皇は殯(もがり)にされるはず。
これも蘇我馬子が天皇ならばスッキリします。

当blogと相互リンクしている『今日は何の日?徒然日記』のindoor-mama様は、蘇我氏=天皇説をたびたび検証しています。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/
(時代別カテゴリー飛鳥時代を参照)
Posted by 管理人 at 2008年06月07日 00:00
私の説は、前のコメントでもわかるように、「実は、推古天皇の在位期間は短かい!」です。

「本当は、そんなに長生きしていない」です。そして、「聖徳太子が推古天皇の後の天皇になった」説です。

だから推古天皇は実在したけど、推古天皇に関する歴史的な記述は嘘が書かれているという立場です。
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年06月07日 02:34
>「推古天皇の生没年は、554〜628。当時としてはかなりの長寿です。
聖徳太子(622年没)と蘇我馬子(626年没)は、推古天皇よりも先に亡くなっています。」

>「隋書に記された日本国王「アメタラシヒコ」は、男性名。
これは推古朝の摂政である、聖徳太子を指すというのが一般的な解釈でしょう。」

>「一方、時の推古天皇は女帝なので、これは大和ではなく当時まだ並存していた九州王朝の王だという人もいます。」

>「私があえてトンデモ説を提示するなら…「当時の天皇は蘇我馬子だった」です。」


推古天皇が大和朝廷の女王で無く、別の王朝の女王なら理解可能です。
日出ずる処の天子は、蘇我馬子と考えればいいんですね。

けれど、日本国王「アメタラシヒコ」を摂政と勘違いしたのでしょうか?
やはり、これも蘇我馬子でしょう。

隠されていた真実の歴史が暴かれた!(笑)。

そうすると、物部氏はどんな集団だったのでしょう?天皇家に逆らう民族?
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年06月07日 06:44
おおくぼ様

>「聖徳太子が推古天皇の後の天皇になった」

近頃は「聖徳太子=架空」説が流行り(?)のようですが、おおくぼ様は聖徳太子も推古天皇も実在したとのお立場ですね。
私は今のところ「聖徳太子のモデルとなった厩戸皇子は実在したが、聖徳太子の業績は蘇我馬子のものだった」説にしておきます。

なお九州王朝説を唱える人は、推古天皇が大和朝廷の天皇で、遣隋使を送った「アメタラシヒコ」は九州王朝の王だと考えているようです。

物部氏の祖先・ニギハヤヒノミコトは、神武天皇よりも先に大和を支配していました。もしかして物部氏は、大和の正当な支配者?
蘇我氏も物部氏も、のちに台頭してくる藤原氏によって、その真の姿を歴史書から消されてしまったのかもしれません。
藤原氏の祖・中臣鎌足=百済王子・豊璋とするトンデモ説もご用意いたしております。


Posted by 管理人 at 2008年06月09日 01:32
>「藤原氏の祖・中臣鎌足=百済王子・豊璋とするトンデモ説もご用意いたしております」

小林恵子大先生の説に近いですね。



>「近頃は「聖徳太子=架空」説が流行り(?)のようですが、おおくぼ様は聖徳太子も推古天皇も実在したとのお立場ですね。

はい、そうです。
ただ、かなり前にタモリのTVを見ていたら、「聖徳太子」という名前は死後に付けられたから、聖徳太子=架空という説を放送してました。そうすると、全ての天皇は架空になってしまう!



>「歴史上唯一、暗殺されたと正史に記されている天皇、崇峻天皇。
しかし、崇峻天皇暗殺を指示した蘇我馬子は、全くのお咎めなし。
しかも崇峻天皇は、亡くなったその日のうちに埋葬されています。
普通、天皇は殯(もがり)にされるはず。
これも蘇我馬子が天皇ならばスッキリします。」

このことを専門家は、どう解釈しているのでしょうか?

あと推古天皇を別の王朝の王様と考えたなら、『日本書記』は複数の王朝の歴史を一つの王朝に纏めた書ということになります。



>「物部氏の祖先・ニギハヤヒノミコトは、神武天皇よりも先に大和を支配していました。もしかして物部氏は、大和の正統な支配者?」

もしかすると、大和朝廷の統一は常識よりも遅いのかもしれません。天武天皇が最初の天皇の可能性も???

Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年06月09日 01:55
fujunさん、こんばんは。
「多利思北孤=馬子」説ですが、天皇(大王)を女子から男子に置き換えただけでは「隋書」と「書紀」における他の部分でのくい違いは解決されませんよ。
これもひとつの仮説なので、また丹念な検証が求められます。
偽書事件ではミソをつけた古田さんですが、彼の「タリシホコ=九州の王者」説まで黙殺する訳にはいかないでしょう(修正は必要ですが)。
Posted by ペンタクロス at 2008年06月09日 02:48
おおくぼ様

>このことを専門家は、どう解釈しているのでしょうか?

崇峻天皇を暗殺したのに蘇我馬子がお咎めなしだったのは、実は推古天皇が暗殺を了承していたからだ…と解釈すると思います。
だとしても、全くお咎めなしは不自然ですね。

『日本書紀』には、他にも不審な記述があります。
乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺された時、蘇我系皇族の古人大兄皇子は「韓人が入鹿を殺した」と述べました。素直に読めば「韓人=朝鮮半島出身の人物」ですが、通説は「朝鮮半島の外交政策をめぐる対立で入鹿は暗殺された」と解釈しています。なんだか無理が…
「韓人=豊璋=中臣鎌足」と考えたくなります。


ペンタクロス様

裴世清は難波津に上陸していますから、私は九州王朝説には懐疑的です。
邪馬台国と違って、裴世清は日本側の記録にも隋側の記録にも登場します。
ただ、日本の都の位置について『隋書』は曖昧ですが。
『隋書』が描く倭国に九州を思わせるもの(阿蘇山)がありますが、そこが都であるとは書いてないように思います。

当時の天皇はやはり推古天皇だったが、日本の国王が女帝では鬼道でモノゴトを決める野蛮な国だと誤解されることを恐れ、男性皇族を摂政に仕立てて日本国王だと偽った…との可能性も私は否定しません。
Posted by 管理人 at 2008年06月09日 21:19
fujunさん、こんにちは。
「裴世清が九州にも関西にも立ち寄った」としたらどうなりますか?
妹子の筑紫到着は4月で難波津到着は6月15日です。
古田説の欠点は「関西にはいっていない」というところです。
九州・関西の2ケ国訪問でも、正史は訪問目的国を中心に書くことでしょう。(もうひとつ謎の秦王国が登場します)
こうすれば「書紀にはない600年訪隋」や「派遣人数の相違」も説明がつきます。
公的には新説なのでちょっと面食らうでしょうが、冷静に考えると色々な謎が解けてきますよ。



Posted by ペンタクロス at 2008年06月10日 19:47
ペンタクロス様

新説、拝読いたしました。
600年の遣隋使は『隋書』にはあるが『日本書紀』にはない
推古天皇は女帝なのに『隋書』の倭王は男性である
…などの矛盾点が、600年と607年とでは派遣した王が別だとする「九州王朝説」を生みます。

では、裴世清を伴って帰国の途についた小野妹子が、競合国の府である筑紫にわざわざ立ち寄るでしょうか?
600年には九州王朝がまだ存在していたが、607年には既に滅亡していたというのならわかります。
推古朝において新羅征討軍(将軍は聖徳太子の弟)が送られていますが、これが実は九州王朝征討軍だったというなら、非常に面白い説です。
Posted by 管理人 at 2008年06月11日 22:50
fujunさん、こんばんは。
「筑紫国より東はタイに附庸す」(隋書)■関西大和はタイ国の傘下にありました。小野妹子はタイ王派遣団の一員にすぎかったわけです。(何をして「競合国」としたのかがわかりません)
「兵有りといえども征戦なし」(隋書)■タイ王は国外には派兵しない主義でした。
隋書を丁寧に読んでゆくとおもしろいですよ。
Posted by ペンタクロス at 2008年06月12日 01:28
ペンタクロス様

タイ国…隋書倭国伝の「倭」は、実はタイ(倭に良く似たタイという漢字)と読むのですか?
卑弥呼の国はヤマタイ国か?ヤマイ国か?…みたいな話ですね。

竹斯国は、筑紫国で良さそうですね。
では、秦王国とは?
竹斯国と秦王国とは倭の一部?、それとも三つは別の国?

古代の日本には「扶桑国」とか「日高見国」とかいう呼称もあったりします。
果たしてこれらは、日本列島が統一されるまでに存在した各地域政権の名称の名残りなのでしょうか?
そもそも大和=ダイワと書いて、なぜヤマトと読むのでしょうか?

国名・地名をたどっていくだけで謎は尽きませんね。
Posted by 管理人 at 2008年06月13日 23:46
fujunさん、こんにちは。
「タイ」は隋書原文にある「ニンベンに妥」の読みです。※最新ブログにも書きましたが、隋が対等外交を主張する倭に腹を立てて改字したものと思われます(意味は「弱い」)。
竹斯国も秦王国も[大概念のタイ=倭国」に含まれています。
また「大和」の元は「大倭」で、それを無理矢理ヤマトと「読ませた」ものだと思います(「大倭といえばヤマトのこと」という記紀の政治的偽装でしょう)。
名称変化には「意図的な改名」が多くあります。今の平成大合併による市名変更も悩ましいですね。
Posted by ペンタクロス at 2008年06月14日 13:58
最近、井沢元彦先生の大ベストセラー『逆説の日本史』シリーズの1巻と巻を読み直しました。

読み直した感想は、怖い本だなあ〜と思いました。私は同じ事を思いついても、怖くて書けません(実際は思いつかないんですが(笑))。

ところで、前のコメントで書いた、推古天皇が『書記』の記述より早く崩御した可能性は、不敬に該当しますので訂正します。

聖徳太子に皇位を譲った説に変更します。
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年06月15日 16:32
>「明石散人氏は、魏志倭人伝の記す邪馬台国の位置が海の彼方なのは、ライバル呉の背後に、得体の知れない同盟国があると牽制しているのだと言います。
そうなると邪馬台国は架空の国でもO.K.?」

O.K.だと思います。
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年06月15日 22:46
ペンタクロス様

周辺国の国名や人名に卑字を当てる…まさに中華思想ですね。

歴史書に権力者による改竄は付きものでしょうし、遺跡は盗掘や災害・開発等による破壊を免れることはできません。
地名こそ、最も風化しない歴史の証人です。
市町村合併による地名消失には、私も大変危惧しております。

竹斯国も秦王国も倭国の一部ということは、ペンタクロス様は大和と九州の二朝並立を否定するお立場でしょうか?
Posted by 管理人 at 2008年06月16日 17:21
おおくぼ様

古代の怨霊を呼び覚ます、井沢元彦氏の説は恐ろしいですね。
徳のつく名を贈られた天皇は、みな非業の死を遂げられた天皇である。
そして聖徳太子こそ、日本史上最大の怨霊であると。
(では、第四代懿徳天皇は?)

井沢氏は、出雲大社と宇佐神宮が四拍手なのは「四=死」であり、怨霊を封じ込めた神社であるとも言っています。
これに対して戸矢学氏から、伊勢神宮が八拍手・出雲と宇佐が四拍手・その他の神社が二拍手なのは、単に神社の格式を表すとの反論が出ています。

ツッコミどころはありますが、私は井沢氏の怨霊史観に大いに共感しています。
Posted by 管理人 at 2008年06月16日 17:47
fujunさん、こんにちは。
古田武彦さんは「九州と大和は本家・分家の関係」としていますが、それで説明がつきます。
東の秦王国は「豊前」というのが定説化していますが、関西にも秦氏の勢力は大きく、タチバナトヨヒ(用明)―トヨミケカシキヤヒメ(推古)―トヨトミミ(厩戸)は「トヨ王権」。厩戸は秦氏を重用し新羅仏を信仰、推古の名は「豊・三毛・炊郷」の豊前地名そのものです。
「中国と全く同じ文化」を持つ「謎の秦王国」はおもしろいですよ。
Posted by ペンタクロス at 2008年06月18日 11:38
井沢氏の天智天皇暗殺説は、すごい発想ですね。

そして天智天皇と天武天皇の血縁関係の謎、天武天皇の出自の謎。

恐ろしい説です。名前には恐ろしい謎が隠されているんですね。

井沢氏のヒミコ=天照大[]が正しいとすると、天皇家はヒミコの子孫なのでしょうか?
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年06月18日 18:49
ペンタクロス様

「九州王朝説」とは、かつて大和と九州に別々の王権があり対立していたが、やがて大和に制圧され日本は統一された…のだと解釈していました。

私は邪馬台国=九州説を支持しますが、九州王朝説には否定的です。
世界最古の木造建築・法隆寺をはじめ、飛鳥の都、藤原京など、大和には6〜7世紀の王朝の遺跡が数多くあります。
同時代の九州に、大和に匹敵する都があったと証明できる考古学的成果があるでしょうか。

「トヨ王権」といえば、近年著作を連発している歴史作家の関裕二氏が、聖徳太子をはじめとする「豊」の名を持つ王統は、邪馬台国の女王・台与にルーツあると書いていた記憶があります。
Posted by 管理人 at 2008年06月19日 22:00
トンデモ歴史探偵様

天智天皇の「弟」である天武天皇が、天智天皇よりも年長であるとの説がありますね。
そこから二人は実の兄弟ではないとか、壬申の乱は王朝交代であるとかの推理が生まれてきます。

私の疑問は、兄・天智天皇が成し遂げた乙巳の変(大化の改新)に、なぜ弟・天武天皇が全く関与していないのか?
(単に、当時はまだ未成年だった?)

奈良時代は天武天皇の皇統が続きますが、平安時代は天智天皇の皇統に戻ります。
そして、天智天皇の忠臣だった中臣鎌足の子孫・藤原氏の天下となります。

卑弥呼=天照大神説は、卑弥呼の晩年に起こった皆既日食が、天岩戸神話のモチーフであるとします。
卑弥呼は三世紀(248年頃没)の人物ですが、神武天皇は紀元前七世紀(BC660年即位)。
時代が逆転していますが、古代の王の平均在位年数は10数年だったとすると、神武天皇が実在したと考えられる時代は卑弥呼の時代までに収まります。

では天皇家が卑弥呼の子孫かどうかですが、王朝の交代・断絶があったとしても、新王朝の始祖が前王朝の女性と婚姻することで、女系において万世一系を称することができます。
(例;王朝交代が疑われている継体天皇は、先代天皇の姉妹が皇后)
そうなると皇室の祖神を「女神」としたのは、極めて深謀遠慮であるといえるかもしれません。
Posted by 管理人 at 2008年06月19日 22:43
fujunさん、こんばんは。
「遠の朝廷」と呼ばれた大宰府は、藤原京規模の条坊都市でしたよ(しかも第一期は相当古い)。また政庁脇の観世音寺には日本最古の梵鐘があり、「法隆寺五重塔は観世音寺からの移築」との説もあります。
ところで7世紀、百済救援に赴いた斉明は、何故那ノ津からは奥まった筑前朝倉宮に入り、変死したのでしょうか。また小倉百人一首の筆頭・天智の歌は、何故筑前朝倉なのでしょうか。
またところで、明治の廃仏毀釈では名だたる大寺院が次々と消えました。凄まじいものです。法隆寺も危なかったようで、政府への御物寄贈により免れたそうです。
現存物だけで古時代文化性を判断するのは危険です。
Posted by ペンタクロス at 2008年06月21日 00:44
ペンタクロス様

白村江の戦いに敗れた天智(称制)天皇は、防衛上の理由で近江大津へ遷都しています。
私は小さい頃からこれに疑問を抱いておりました。
唐や新羅が攻めてきて戦場になるのは北九州であって、敵襲に備えて飛鳥から大津へ遷都する差し迫った必要性が感じられないからです。
当時の都が北九州ならば、確かに遷都は緊急を要します。
それでも疑問があります。
白村江に敗れて近江へ逃れてきた九州王朝を、畿内勢力が簡単に受け入れるでしょうか?
斉明天皇が九州の天皇だったのならば、斉明天皇による飛鳥の大土木事業「狂心の渠」は、一体誰のものなのか?

古田武彦氏と九州王朝説を批判する安本美典氏が、邪馬台国の比定地としているのも筑前朝倉ですね。これも何かの因縁でしょうか。
Posted by 管理人 at 2008年06月21日 23:34
fujunさん、こんばんは。
天智は、斉明が死ぬと豊璋を百済に送り出してさっさと大和に戻ってしまい、それから白村江の敗戦です。九州遠征は救援目的ではないなにかがあったのでしょう。
先に「九州と大和は本家と分家の関係」と書きましたが、斉明の筑前朝倉入りが「本家乗っ取り」だとしたらどうでしょうか。それが失敗に終わり早々に帰国。斉明葬儀の際「朝倉山上の鬼が見つめていた」そうです。
天智の近江遷都はその6年後で、大和は大いに荒れたようです。そしてやっと天皇に即位。
朝倉には朝闇寺という大きな寺院があったようですが、礎石も見当たらず「幻の寺」になっています。ところで朝倉の南には筑後川の河川関が古くから造られていたそうで、どうも朝闇寺の礎石が転用されたらしいのです。それから朝倉山中にはタリシホコ時代の火葬墓(大和より1世紀早い)が発見されています。
九州には遺跡が少ないのではなくて、注目しないだけです。
Posted by ペンタクロス at 2008年06月22日 01:20
ペンタクロス様

斉明天皇の葬儀に、笠を被った鬼が現れたという記録。
これは斉明天皇(当時は皇極天皇)の目の前で暗殺された、蘇我入鹿の怨霊だとも言われていますね。

友好国の百済を支援するためとはいえ、老齢の女帝が飛鳥の都から遠路はるばる筑紫まで出陣したのは、極めて異常事態だと思います。
今で言うと、アメリカ大統領が同盟国・日本の有事のために、敵弾が飛んでくるかもしれない前線基地のグアムへ視察に来るようなものです。
そこまでして百済に肩入れする理由でもあったのでしょうか。

大化の改新の功労者でありながら皇位に就けず、母・斉明天皇崩御の後も称制するしかなかった、天智天皇。
白村江への大遠征や、狂心の渠と呼ばれた大土木工事など、強引な政策の数々で人望を失ってしまったのでしょうか。
近江に「遷都」したのも、民心の離れた飛鳥には戻れなかったからかもしれません。

現存する遺跡・史料だけでは歴史を語れないのは、おっしゃるとおりです。
山陰地方にはめぼしい遺跡がなく、出雲神話は全くの創作だと言われてきました。
三本の丸太を束ねた出雲大社の巨大な柱や、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡が発見されたのは比較的近年のことです。
九州においても、今後の発見が待たれます。
Posted by 管理人 at 2008年06月22日 23:14
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