2008年06月22日

ふたつの法隆寺

現存する世界最古の木造建築物、法隆寺。1993年、日本で最初の世界遺産に登録されました(姫路城・屋久島・白神山地と同時)。

法隆寺は聖徳太子によって607年に創建されましたが、670年に焼失したと伝えられています。再建・非再建をめぐって長く論争が繰り広げられましたが、創建当時の遺構とみられる若草伽藍の発掘、木材の伐採年代測定から、現存する法隆寺は再建されたとするのが定説です。



法隆寺の謎を解く 武澤秀一著

法隆寺の謎を探ることは、聖徳太子の人物像にも迫ることとなります。
哲学者・梅原猛氏は、法隆寺は非業の死を遂げた聖徳太子の怨霊を封じ込めた場所であると唱え、一大論争を巻き起こしました。法隆寺の中門には中央に柱が立っていますが、これは法隆寺だけの特徴であり、怨霊が出てくるのを防ぐ意図があると梅原氏は考えたのです。
梅原氏の『隠された十字架』に対し、柱の存在には別の意味がある、怨霊信仰が成立したのは後の時代である、などと反論が出されました。しかし、法隆寺だけに柱が存在する理由は全く説明できていません。

建築家の武澤秀一氏は、中門の柱が存在する理由を美的観点から説明しています。
初期の寺院は、同じく聖徳太子の創建になる四天王寺のように、門・塔・金堂・講堂がタテ一直線上に並ぶ左右対称の伽藍配置を採っていました。旧法隆寺である若草伽藍も、四天王寺と同じレイアウトになっています。
再建された法隆寺は五重塔と本堂が左右に並ぶ、非対称の伽藍配置です。大きさ・形が全く異なる建物を並べて視覚的バランスを取るのは困難を極めます。そこで視線の焦点となって構図を引き締めるのが、中門中央の柱なのです。
武澤氏はヨコ並び伽藍配置のルーツを、天皇家による最初の寺院・百済大寺(吉備池廃寺)に求めています。

柱が怨霊封じであることを否定した武澤氏ですが、法隆寺再建に隠された政治的な意図まで否定したわけではありません。
旧法隆寺である若草伽藍は、聖徳太子の邸宅・斑鳩宮と並行して建てられました。ともに真北から20°西へ向いています。ところが再建された法隆寺は向きを変え、起伏のある地形を整地してまで敷地を移動しています。そのうえ伽藍配置まで変わっているのです。
創建時からの本尊とされる釈迦三尊像に火災の跡が全く見られないことから、現在の法隆寺は若草伽藍が存在した頃から建造が始まっていたとも考えられます。

法隆寺の「再建」が始まったのは、天智天皇の時代です。
天智天皇の父は舒明天皇、母は皇極天皇。いずれも聖徳太子の子・山背大兄王を退けて皇位に就いています。天智天皇による第二の法隆寺の創建は、いまだ民衆の思慕の厚い上宮王家の痕跡を消し去り、自らの王統の正統性を示すためのデモンストレーションだったのでしょうか。
そして必要のなくなった隣の若草伽藍は、故意に破壊された…?

わが子・大友皇子が皇位を嗣ぐことを願った天智天皇ですが、それは叶わず、壬申の乱によって弟の天武天皇が即位しました。
天武天皇の時代になって建てられた薬師寺は、中央に金堂があって左右に二つの塔を配する、新羅式のシンメトリーレイアウトです。天武天皇は法隆寺に認められた権益を廃止しており、五重塔の再建工事に長期の中断があったのは、そのせいかもしれません。ここに明らかな王権の政策転換が見て取れます。天武天皇の曾孫・聖武天皇が建てた東大寺もまた、薬師寺と同じく左右対称となっています。

壮麗な寺院建築は、権力者のモニュメントでもあります。
伽藍配置の変遷と皇位継承との関連は、建築家ならではの慧眼です。

(6月22日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
・法隆寺の仏像について
秘仏封印
女帝・かぐや姫
・若草伽藍20°の傾きについて
日本のルーツを求めて


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 21:32| Comment(12) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
考古学者のみなさんは、想像力が逞しいと思います。
残されたモノから失われたモノを想像するのは困難です。

でも古墳のように残されているにも関わらず、調査できないのは残念です。

法隆寺は、太子の死後作られたのか、生前からあったのかが重要なポイントだと思います。

『日本書紀』出版・以前以後で国史は、真っ二つに割れるのでしょう。
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年06月27日 18:03
トンデモ歴史探偵様

方角と伽藍配置が全く異なる、新旧の法隆寺。
これは建てた人物(勢力)と建てられた意図が全く異なることを意味します。
私はそこが重要なポイントだと思います。
Posted by 管理人 at 2008年06月28日 23:14
わたしも興味津津のうちに武澤秀一『法隆寺の謎を解く』を読みました。うーむ…と、うなってしまう見事な推理でしたね。それから‘不純’さんによる論旨紹介も明快で見事と思いましたよ。

‘不純’さんもふれておられますように、伽藍配置というものは単なる建物の配置にとどまらず、当時にあっては家系・血脈と密接に絡んでいた、というのはまさに慧眼・炯眼、目からウロコでした。
スバラシイ!!!
このような視点は従来、まったく欠けていました。歴史の盲点が思わぬところから埋められましたね。

この武澤さん、権勢を誇る梅原氏に直言しているのはなかなかだと思っていましたが、講談社のポータルサイト 正言@アリエス で連載中の マンダラの謎を解く では、今度は真言宗を相手に堂々と論陣を張っています。マンダラは密教の独占物ではないと…。密教マンダラはマンダラの一部にすぎないと…。興味がおありでしたら覗いてみてはいかがでしょうか。
Posted by すがすがしい空間 at 2008年07月21日 09:20
すがすがしい空間様、いらっしゃいませ。

本書の論旨紹介は、ちょっと書き過ぎた(ネタバレ)かな?と反省しています(笑)

ご紹介のサイト、講談社「正言@アリエス」を読んでみました。
おなじ建造物でも「Architecture」と「Building」では意味が違うとの指摘は、建築家ならではですね。単なる実用的な建物であるBuildingに対し、Architectureには美的・思想的世界観が表現されていると。
同じくArchitectureである神社や古墳にも、何らかの意図が隠されているはずです。
城郭には両方の性格がありそうですね。
Posted by 管理人 at 2008年07月21日 20:47
さっそくに応答いただき有難うございます。

>単なる実用的な建物であるBuildingに対し、Architectureには美的・思想的世界観が表現されていると。

そうですね。話題の『法隆寺の謎を解く』で感心したというか、新たに認識させられたのは、建築Architectureとしての法隆寺がこれほどモノを語っているのか、ということでした。
当時の建築物は礎石としてしか出てこないなか(だから法隆寺は現存する世界最古の木造建築物であるわけですが)、なお地上に建っている存在はまさに貴重な歴史資料。もっともっとそこから多くを読み取る試みがあっていいのでしょう

『法隆寺の謎を解く』には、大陸伝来の伽藍にはじめて日本特有の美意識が現れたのが法隆寺だったという話が出てきますね。中心の不在、ヨコ並び を好む傾向などは‘不純’さんご指摘の神社にも共通すると思われ、面白いなぁと思います。
Posted by すがすがしい空間 at 2008年07月21日 22:45
すがすがしい空間様

私には、法隆寺は「再建」ではなく「再創建」である(当時、若草伽藍はまだ存在していた)との指摘が、最も衝撃的でした。

法隆寺が「再創建」された政治的背景の解釈は、聖徳太子とは誰なのか、天智天皇と天武天皇の関係は良好だったのかによって、大きく変わってきます。

神社の鳥居は何に由来しているのか、これも大きな謎ですね。
Posted by 管理人 at 2008年07月22日 23:17
fujunさま

>私には、法隆寺は「再建」ではなく「再創建」である(当時、若草伽藍はまだ存在していた)との指摘が、最も衝撃的でした。

著者のことばでは「新創建」だったかと思いますが、「再創建」のほうがいいかもしれませんね。
敷地、角度、配置と何から何まで違うのですから、確かに単なる「再建」ではないですよね。それに日本書記の記述をちゃんと読めば、不審火というのも十分うなずける…

>天智天皇と天武天皇の関係は良好だったのか。

ある時点まで良好でしたが、皇位継承をめぐる両者の思惑の違いがわかってきてからは骨肉相食む関係に陥ったということでしょうか。当時はまだ皇位継承のルールが定まっていませんでしたから、親子で継承か(大友皇子)、兄弟で継承か(大海人皇子/天武)、不安定だったのではないでしょうか。

>法隆寺が「再創建」された政治的背景の解釈は、聖徳太子とは誰なのかによって、大きく変わってきます。

すみません、もうすこし説明していただけますか?

Posted by すがすがしい空間 at 2008年07月23日 09:13
すがすがしい空間様

聖徳太子とは誰なのか?以下のような可能性が考えられます。
・聖徳太子は推古天皇の摂政、厩戸皇子である(従来からの通説)
・聖徳太子は厩戸皇子であるが、非業の死を遂げた
・聖徳太子は即位しており、実は天皇だった
・聖徳太子は厩戸皇子であるが、その業績は蘇我馬子のもの
・聖徳太子は実在したが、厩戸皇子とは別人
・聖徳太子も厩戸皇子も、全くの架空の人物

従来どおりの聖徳太子像であれば、法隆寺は聖徳太子が仏教興隆のために建てた国家的寺院であり、焼失すれば再建するのは当然。伽藍配置が違うのは、単にその当時の最新モードに合わせたからだとなるでしょう。
聖徳太子が非業の死を遂げた人物であったり、実は即位したのに歴代天皇に列せられていないとなると、法隆寺は聖徳太子鎮魂の寺であるとの解釈が生まれます。現存する法隆寺の位置が若草伽藍と異なるのは、やはり上宮王家の痕跡を消したかったからでしょう。

飛鳥時代、天皇家をも凌ぐ権力を持ち政治を私物化したとされる蘇我氏ですが、近年では律令国家の建設を目指した改革者だったとの評価があります。蘇我氏を倒した天智天皇と中臣鎌足は、実は改革を潰した抵抗勢力であったと。
つまり聖徳太子の偉業の数々は実は蘇我氏のものであり、蘇我氏の業績を貶めるために無名の皇族・厩戸は、聖徳太子として過大に顕彰されたとの説です。あるいは、聖徳太子は全くの創作であると。
聖徳太子は蘇我入鹿である、聖徳太子は西突厥の王子であるとの説を唱える人もいます。

日本書紀は、蘇我入鹿の暗殺を「韓人が鞍作臣(入鹿)を殺した」と記しています。当時の朝廷には、朝鮮半島をめぐる外交路線の対立があったようです。
滅亡した百済を救うために白村江の戦いに参戦した天智天皇は、極端な親百済政権でした。日本に亡命していた百済王子・豊璋は、中臣鎌足と同一人物であるとの説もあります。
天武天皇時代に建てられた寺院が、百済の敵国・新羅式の伽藍配置であるのは、天智朝と天武朝の政策が大きく違っていたことの証でしょう。
天智天皇と天武天皇が実の兄弟ではないとか、弟であるはずの天武天皇が年長だったとかの説があるのは、ご存知のことと思います。

天智天皇と天武天皇の母・斉明天皇が崩御された際、笠を被った怪人(鬼)が現れ、それは蘇我入鹿の怨霊であるとされました。
天智天皇は斉明天皇が崩御した後も何年も即位できず、称制天皇のままでした。天智天皇が都を近江に遷したのは、白村江での敗戦による防衛上の理由とされますが、それは不自然です。反対勢力の抵抗にあって、大和に入れなかったのではないでしょうか。

つまり天智天皇が恐れる法隆寺に封じられた怨霊の正体とは、実は蘇我氏だったのではないかとの推理です(聖徳太子も蘇我系皇族です)。
Posted by 管理人 at 2008年07月23日 20:27
fujunさま

懇切にご説明を頂き有難うございます。わたしのアタマではこなし切れませんので、ひとつづつお付き合いのほど、お願いします。誤解もあろうかと思いますが、よろしく。

>従来どおりの聖徳太子像であれば、法隆寺は聖徳太子が仏教興隆のために建てた国家的寺院であり、焼失すれば再建するのは当然。

焼失時には確か、太子はもちろん息子の山背大兄皇子をはじめ一族郎党も亡くなっていますよね。法隆寺は私寺でしたから、そうすると再建の主体はだれになるのか。この辺を考えると、再建は当然とはいえないのではないでしょうか?

>聖徳太子が非業の死を遂げた人物であったり、実は即位したのに歴代天皇に列せられていないとなると、法隆寺は聖徳太子鎮魂の寺であるとの解釈が生まれます。

この場合、再建の主体はだれになりますか?

>現存する法隆寺の位置が若草伽藍と異なるのは、やはり上宮王家の痕跡を消したかったからでしょう。
 
上宮王家の痕跡を消しては、太子鎮魂にならないのでは? むしろ、怨霊封じということでしょうか? 当時、霊魂の認識は勿論ありましたが、個人の霊が特定の個人にとりつく憑く怨霊の観念はは奈良時代も後期になって以降であり、時代的に無理があります。

>つまり聖徳太子の偉業の数々は実は蘇我氏のものであり、蘇我氏の業績を貶めるために無名の皇族・厩戸は、聖徳太子として過大に顕彰されたとの説です。あるいは、聖徳太子は全くの創作であると。

その件と法隆寺再建の問題と、どういう関係になるのでしょうか?

>天武天皇時代に建てられた寺院が、百済の敵国・新羅式の伽藍配置であるのは、天智朝と天武朝の政策が大きく違っていたことの証でしょう。

納得です。武澤秀一『法隆寺の謎を解く』にもありましたが、天武の代では法隆寺再建に冷淡でしたが、持統の代では積極的になったようですね。

>天智天皇は斉明天皇が崩御した後も何年も即位できず、称制天皇のままでした。天智天皇が都を近江に遷したのは、白村江での敗戦による防衛上の理由とされますが、それは不自然です。反対勢力の抵抗にあって、大和に入れなかったのではないでしょうか。

天智による近江遷都を防衛上の理由と見るのは納得できる説と思います。なぜなら各地に土木工事までして防衛線を築いているからです。大宰府に行った時、わたしは実際に見てきました。
遷都前は天智は確か飛鳥にいたわけですから、大和に入れなかったというのは、腑に落ちませんが…

>天智天皇が恐れる法隆寺に封じられた怨霊の正体とは、実は蘇我氏だったのではないかとの推理です(聖徳太子も蘇我系皇族です)。

法隆寺に祀られているのは蘇我入鹿であったと? それは怨霊封じ込めを前提にした議論ですね?
法隆寺中門の真ん中に立つ柱への疑問から怨霊封じ込め説がはじまりましたが、その説は武澤さんの『法隆寺の謎を解く』によって誤認であることが具体的に明らかにされたのではないでしょうか? その柱のもつ礼拝上の意味、空間構成上の意味が具体的に解き明かされたと思います。この点で、蒙を啓く画期的な説なのではないでしょうか。
蘇我氏が祀られていたとした場合、お説では法隆寺は蘇我氏の怨霊を封じ込める場であったということでしょうから、怨霊封じ込め説が成り立たないことを考えれば、それは無理なのではないでしょうか?
回廊に囲まれた法隆寺の聖域は怨霊とは無縁の、じつに「すがすがしい空間」と感じませんか? これは怨霊が鎮められた結果なのでしょうか…

Posted by すがすがしい空間 at 2008年07月24日 06:00
すがすがしい空間様

聖徳太子とは誰なのか、法隆寺再建の政治的背景は何なのか…思いつくままに挙げてみました。うまく整理できてなくてすみません。

法隆寺にだけ門の中央に柱が立っている理由は、私も武澤氏の空間構成説が最も納得できます。武澤氏が指摘するように、門の中央に柱があったところで出入りに何ら支障はなく、怨霊封じには誠に心許ない柱です。
門の柱が怨霊封じではないことは明らかになりましたが、武澤氏は法隆寺の再建に政治的意図があることまでは否定していません。
しかし政治的意図=怨霊封じであるとは限りませんし、怨霊信仰の成立は奈良朝末であるとのご指摘も確かです。

上宮王家から皇位を奪ったことに対する負い目が、天智天皇に法隆寺を再建させたとの解釈にも、私は賛同します。
ただし天智天皇の政治的意図には、武澤氏が否定した上宮王家の鎮魂も含まれると私は思うのですが…
聖徳太子等身像とされる救世観音は、光背が頭に釘で打ち付けられています。これは聖徳太子の怨霊封じなのでしょうか?(単なる俗説?)
また法隆寺は、長屋王を鎮魂した寺でもあるとの説があります。長屋王もまた、蘇我氏と血縁の濃い皇族です。

聖徳太子の人物像をいろいろ挙げてみましたが、私は今のところ聖徳太子は実在した厩戸皇子であるが、その業績の多くは蘇我馬子のものだったと考えます。
聖徳太子=蘇我入鹿説では、生没年が合いません(馬子、蝦夷でもそうです)。厩戸皇子、蘇我馬子・蝦夷・入鹿(さらに長屋王を含む)蘇我系皇族を祀った寺が法隆寺である、これが私の解釈です。あくまで個人的妄想ですので、ご了承ください。

若草伽藍と斑鳩宮は真北から約20°西へ傾いていましたが、これにも深い意味がありそうです。再建された法隆寺は向きを変え、わざわざ整地してまで隣の敷地へ移っているわけですから。
天智王朝がそこまでして否定したかった「何か」とは…ぜひとも武澤氏に推理していただきたいものです。

天智天皇の近江遷都につきましては、防衛上の理由では納得が出来ません。瀬戸内海方面からの敵襲に備えるのならば、むしろ大和が有利ではないでしょうか。私は抵抗勢力を避けての遷都ではないかと考えます。
Posted by 管理人 at 2008年07月24日 23:17
fujunさま

丁寧に応答くださり有難うございます。こうしたやり取りの中でわたしのアタマのなかも大分整理がついてきたように思います。と同時に、疑問も広がります。もう少し、お付き合いいただけますか?

>門の柱が怨霊封じではないことは明らかになりましたが、武澤氏は法隆寺の再建に政治的意図があることまでは否定していません。

そうですね。その政治的意図とは、怨霊封じではなく、むしろ“ほめ殺し”だったと『法隆寺の謎を解く』ではいっていますね。

>ただし天智天皇の政治的意図には、武澤氏が否定した上宮王家の鎮魂も含まれると私は思うのですが…

天智の人間的度量にかかわる問題と思われますが、そうであったと思いたいところですね。fujunさんの人間性が滲み出る見解で、心洗われる思いがします。

>聖徳太子等身像とされる救世観音は、光背が頭に釘で打ち付けられています。これは聖徳太子の怨霊封じなのでしょうか?(単なる俗説?)

仏像制作の現場はわれわれが想像するよりかなりダイナミックなもののようです。塑像の場合なんかですと、骨組の制作は即物的としかいいようがありません(いうまでもないことかもしれませんが)。光背の固定にあたり、安定させるのに最も有利なポイントを選択したに過ぎないのではないでしょうか。この点は見てみないと何ともいえませんが、梅原氏の『隠された十字架 法隆寺論』には重要な点で誤認が多いようです。先の中門の柱もそうですし、また救世観音の後ろ側が空洞だとして怨霊説を強化したつもりになっていますが、この点も美術史の専門家から厳しく糾されています。モノを見ずして、思い込みでモノをいっていると。

>また法隆寺は、長屋王を鎮魂した寺でもあるとの説があります。

法隆寺の再建は、『法隆寺の謎を解く』にもありましたように、金堂に使用された木材の伐採年から、670年の火災前の時点で構想されていた可能性が高い。長屋王についてはよく知りませんが、少なくとも時代が合わないのではないでしょうか? もっとも再建された法隆寺に、あとから祀られる可能性はありますが…。

>若草伽藍と斑鳩宮は真北から約20°西へ傾いていましたが、これにも深い意味がありそうです。再建された法隆寺は向きを変え、わざわざ整地してまで隣の敷地へ移っているわけですから。
天智王朝がそこまでして否定したかった「何か」とは…

次のように解釈します…
太子一族が集団自殺をした事件は世を震撼させ、また大いに同情をよぶものだった。集団自殺の現場となった太子創建の創建法隆寺はいよいよ太子信仰のメッカの色を強めてきた。忌まわしい死の現場は同時に、犠牲的精神の発露の場となった。それが太子の崇高な精神を浮かび上がらせる…。
天皇一族にとって創建法隆寺は厄介な存在になってきた。太子信仰は自分たちの権威を危うくする。それだけではない。まかり間違って、天皇一族に対する批判となり、矛先が自分たちに向かう恐れがある。なぜなら天皇家は太子一族を排除して皇位継承をしてきたからだ。それで太子ゆかりの法隆寺を跡形なく全く別の形に造り替え、血統色を抜き去り、普遍信仰の場とした。とにかく、血統色の濃い太子創建の法隆寺を地上から消したかった。それは自分たちの揺るぎなき体制保持のためだった。
『法隆寺の謎を解く』を以上のようにわたしは受け止めました。
「何か」として十分とはいえないでしょうか? 甘いとすれば、どのあたりでしょうか??
Posted by すがすがしい空間 at 2008年07月25日 02:05
すがすがしい空間様

天智王朝が否定したかった「何か」のことですが…
伽藍配置が王権のシンボルであるように、真北から西へ20°傾いた空間構成が、もしかすると前王朝を象徴する「アーキテクチャー」だったのではないでしょうか?
それで若草伽藍・斑鳩宮の空間構成についても、武澤氏に推理していただけたら面白いのではないかと思った次第です。

法隆寺が再建されたのは、670年頃。しかし「聖徳太子」の呼称が生まれたのは、厩戸皇子の死後100年ほど経った天平時代です。
法隆寺東院伽藍の夢殿が建てられたのも、天平時代。すると法隆寺は長屋王の鎮魂も担っているとの説も、気になってきます。

天智天皇の重臣・中臣鎌足は、藤原氏の祖。天智王朝の政策には、当然ながら藤原氏の知恵が入っていることでしょう。
上宮=蘇我王朝を排除して皇位を獲得した、天智=藤原王朝。
奈良時代には長屋王(蘇我氏の血を引いている)を倒して、藤原氏の天下が確立します。
法隆寺は、藤原王朝にとって都合の悪いものを封じ込めたうえで、普遍信仰の場として「善なる藤原氏」を天下に知らしめようとした体制保持装置だった…と想像します。
Posted by 管理人 at 2008年07月27日 00:18
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