2008年09月08日

太陽の道

古代の遺跡や聖地とされる場所は、ある一定の法則に従って配置されていると言われます。ヤマトの古墳や神社はほぼ一直線上に並んでおり、その線を延長すると、東は伊勢の斎宮から西は淡路島の伊勢までを結ぶ北緯34度32分のラインが浮かび上がるという…これを太陽の道と名付けたのが、古美術写真家の小川光三氏です。
小川氏の説を基にした番組は、1980年にNHK特集で放映されました。本書は30年に及ぶ氏の研究をまとめたものです。



ヤマト古代祭祀の謎 小川光三 著

日本の太陽信仰の成立には、稲作があるといいます。
稲は本来、日本には自生していない亜熱帯の植物です。稲を北限で栽培する日本では、稲作は春から秋の間の一定の期間内に行われなければなりません。
春分になると田起こしを始め、秋分になると収穫する。春分‐夏至‐秋分‐冬至という太陽の運行を知ることが、日本の太陽信仰のベースです。太陽の動きを読んで農業を指導する人を「日知り」と呼び、これが聖(ひじり)の語源です。

初期ヤマト王朝が生まれた三輪山。北麓には纏向(まきむく)遺跡と箸墓古墳があり、ここが邪馬台国だったとする説があります。
それに対し小川氏は、邪馬台国は二世紀から存在していたが、纏向が「ヤマト」と呼ばれるようになったのは三世紀後半であって、それまでこの地は「出雲」だったと言うのです。
大和盆地東部の都祁(つげ)には、大和地方で唯一「ヤマト」の地名を残す小山戸(おやまと)があり、小川氏はここが邪馬台国であったと考えています。弥生時代の大和盆地は底湿地で、多くの人が住めるようになったのは、古墳時代に入って灌漑農業が行われてからだそうです。それまでは都祁のような高原台地の方が、居住に適していました。
出雲神を祀る三輪山が本来の「出雲」であって、出雲大社のある「出雲国」は考古学的には後進地域であり、天孫族から三輪山麓を追われた出雲族が移り住んだ場所に過ぎない…邪馬台国も出雲国も実は大和盆地のなかの狭い地域にあったとなると、なんだかスケールの小さな話ですね。

前方後円墳は、古代支那の数学書『周髀算経』に基づいて設計されていると小川氏は言います。
古墳の周濠は灌漑用水に使われたとして、古墳が単なる権力者の墓ではなく、稲作とともに生まれた施設だとの指摘は興味深いものでした。

(9月7日読了)


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 19:24| Comment(8) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
太陽と日本文明の関係は、ボクのところでチョロッと記事にました。
仁徳天皇陵が西の果て、日出づる東に天照大神を祀る伊勢神宮
これを結ぶと太陽の夏至と冬至の太陽の運行ラインと重なる。
(リンク先)
まあ、こんな事はとうの昔から知られてるんでしょうけど。
淡路島にも伊勢という地名があると言うのは初めて知りました。
また、古事記や日本書紀の、リアリティーに欠けるとされる
仁徳天皇以前のエピソードも実は、
西:難波 〜 大和葛城山 〜 東:三輪山
このあたりの狭い範囲の有力氏族の伝承ではないか?というのも、
実際、葛城山の高原大地である高天原や、麓にある高鴨神社を訪ね、
地元びいきも多分に含ませて、ボクがブログでぶち上げたトンデモ論(爆!
ですが。似た説があるんですねえ。

大和朝廷以前に「都祁国」があったという、大和盆地東部の都祁は
奇しくも大和と難波を結ぶ大和川の源流がある地なんですね。
調べてみると、この辺りには國津神社が多く、出雲の大国主と重なる
点が多々あるようですね。
また、都祁にある柏峰には磐座(いわくら) があり、奈良県史には、
柏峰は、天の磐船で畿内に降臨したニギハヤヒの臣下で、神武に手向かった
「ナガスネヒコの墓」があるとする伝承があるそうです。
大昔の権力闘争に敗れた側の痕跡が多いということでしょうか。
おもしろい一致ですね。
Posted by 幸玉 at 2008年09月09日 01:31
幸玉様

地元の方による解説は、さすがに分かりやすいです。
ありがとうございます。

この本で小川氏は神武東征神話についても、神武天皇(のモデルとなった人物)が支配したのは大和盆地中南部の狭い地域に過ぎなかったと述べています。

本書が考察している「太陽の道」以外にも、大和三山は二等辺三角形を描くとか、日本各地の神社の位置にも法則性があるとか、新旧法隆寺の方角が違うのは意図的だとか、さまざまな説が唱えられています。
誰かに上手く整理した本を書いてもらいたいものです…

Posted by 管理人 at 2008年09月09日 21:47
fujunさん、お久しぶりです。
この「太陽の道(レイライン)」は、1980年NHKディレクター水谷慶一さんが「知られざる古代」として出版もしたもので、パートナーが地元の写真家・小川さんでしたね。
今回の出版は、これに邪馬台国論をかぶせたものでしょうか。出雲を「後進国」にするなど、ちょっと乱暴ですね。結局古代を「大和」のフレームでしか覗いていないような気がします(読んでみないとわからないが)。
レイライン思考は、おそらく人類出現以来どこでも起こったものでしょう。太陽の出没があまり生活に影響しなくなった現代になって逆に新鮮味がでるなんて、おもしろいですね。
農耕弥生はヤマトから始まったものではありません。その点「大和の発展は箸墓灌漑施設から」には全く同意です。
ちなみに「箸墓は三輪山には向っていない」ことは注意。
小川さんは大和が大好きなんですね。
Posted by ペンタクロス at 2008年09月10日 11:15
ペンタクロス様

私も本書から、小川さんの地元・大和への愛を強く感じました。
小川さんは「邪馬台国論争などという面倒なことには関わりたくない」のだそうです。
でも、書いてある以上は採り上げます(笑)

箸墓の周濠といえば、日本最古の馬具が発掘されていますね。
日本列島に乗馬の風習が入ってきたのは、卑弥呼の時代よりもずっと後。
そして魏志倭人伝によると「邪馬台国には牛馬虎豹羊鵲なし」。
そうなると箸墓は、卑弥呼の陵墓ではなさそうです。
邪馬台国畿内派にしてみれば「周濠からの出土品は副葬品ではないので、後世の物が埋まっていてもおかしくない」との反論はありそうですが…
Posted by 管理人 at 2008年09月10日 21:48
fujunさん。こんにちは。
日本考古学の性格は一種宗教証明みたいな所があって、「ある結論」に至るまで可能性がある限りの解釈を考えるようです(邪馬台国大和説など)。
それはかまわないのですが、あるケースではその解釈を適用し同じようなケースでも結論がズレると別の解釈を適用、また雪野山古墳のように出土物を偽装したりする行為に及んではもうオシマイ。
で、特定された研究所が「ある結論」に固執する結果、「他の結論」研究を阻害してしまうという弊害がかなり出ています。※なんだか一連の冤罪臭プンプンの御殿場事件・仙台筋弛緩剤事件・高知スクールバス×白バイ事件(偽装までしたようです)の裁判とよく似ていますね。「始めに結論ありき」ですか。
確か10年前に周濠から3世紀後半の土器が発見された時は、「これこそ卑弥呼の墓の証拠」としていましたね。
Posted by ペンタクロス at 2008年09月12日 09:00
ペンタクロス様

私は、邪馬台国が畿内でも九州でも(それ以外の地でも、はたまた架空の国であっても)構いません。
「はじめに結論ありき」ではなく、いろいろな可能性を検証すべきです。

2〜3世紀の遺跡が発見されるとすぐに「ここが邪馬台国だ!」と騒いだり、三角縁神獣鏡をいつも「卑弥呼の鏡」と紹介したりする、マスコミの姿勢にも問題があります。

箸墓の築造年代が、徐々に古くなってきているのも気になります。
以前は3世紀末から4世紀初頭の古墳だとされてきたのが、今では3世紀後半。
少しずつ卑弥呼の時代に近づけているのでしょうか?
Posted by 管理人 at 2008年09月13日 22:34
こんにちは。

都祁村出身です。

邪馬台国の記載は魏志倭人伝だったと思いますが、
私的には、そもそもかなりいい加減な文献だと思っています。
素直に、大和朝廷のことを言ってるんだと思うわけです。

ちなみに小山戸には、山口神社というものがあり、
ちっさい神社ですが気持ちのいいところです。
Posted by きら at 2009年05月16日 03:12
きら様、いらっしゃいませ。

魏志倭人伝がいい加減かどうかはわかりませんが、九州北部の国々については詳細に書かれています。
すると邪馬台国も、やはり九州にあった?
あるいは「邪馬台国連合」に属する国々は九州から大和に至るまで分布していて、それらのうち卑弥呼の王宮は大和にあった?
防衛上の観点から、邪馬台国側の役人は王宮までの正確な行程を教えなかったのかもしれません。
いずれにしろ魏の使者は、邪馬台国の都まで行っていないと思います。
Posted by 管理人 at 2009年05月17日 22:58
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