2008年09月15日

隠された「ニッポン」

私たちのすむこの国は、日本と書いてニッポン(またはニホン)と読みます。
古代支那の歴史書は、日本を倭国と呼んでいました。日本の国号が使われるようになったのは、7世紀だと考えられています。
日本にはヒノモトという読み方もあります。日本の二文字に隠された、日本国成立の歴史とは…今回は民俗学・地名学の大家、谷川健一氏の一冊です。



隠された物部王国「日本」 谷川健一 著

大和朝廷のはじまりを告げる、神武東征神話。イワレヒコ(神武天皇)が大和に入った時、そこは既に同じ天孫族であるニギハヤヒが支配していました。
ニギハヤヒは物部氏の祖神。つまり記紀は、神武天皇以前は物部氏が大和の支配者だったことを認めているのです。

谷川氏は、日本列島の統一に中国・朝鮮半島の動乱が影響していると指摘します。
2世紀の朝鮮半島の動乱が九州に「倭国大乱」をもたらし、百余国あったクニが三十余りの邪馬台国連合を形成し、女王・卑弥呼を共立しました。この時、九州を出て大和に進出した集団が物部氏だというのです。
そして高句麗・新羅・百済の三国が鼎立した4世紀初頭、これに呼応した邪馬台国連合の再編が神武東征神話に反映されていると谷川氏は考えます。

谷川氏は物部氏の勢力が四国にあったことに触れていますが、九州から大和へ入る過程でどのような土地と部族を併合していったのかは、具体的に書かれていません。神武東征についてもそうです(物部氏も神武天皇も、最初から船で一直線に大和を目指したのでしょうか?)。
もっとも、これは多くの日本史の本について言えることですが。

本書には白鳥伝説、大嘗祭の秘密、南島の信仰など、谷川民俗学のエッセンスが散りばめられています。
九州から東遷した物部氏と天皇家、そして大和の先住民たる蝦夷。日本の重層的な成り立ちを感じる一冊です。

(9月15日読了)


本書には哲学者・和辻哲郎の、以下の指摘が紹介されています。
「弥生時代の北九州の墓からは、銅剣・鏡・勾玉などがたくさん出る。初期大和政権の古墳からも出る。これに対し、弥生時代の近畿地方の墓からは出ない。つまり弥生時代の近畿地方と古墳時代の近畿地方は断絶しており、弥生時代の北九州と古墳時代の近畿地方が連続している」


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 20:10| Comment(41) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ここでは神武=倭武。饒速日=倭得玉。

倭旨(扶余依羅)の子は得玉。得玉の子は王治弟彦。王治弟彦の子は金。金の子は坂合。坂合の子は草香。

九州王朝の第二代倭興王君は、息子明の提案で百済より入り婿する計画を受け了承。明は船を建造して川上明国彦等が百済王子の二人を奉じて九州に上陸し興王君から祝福され一路大倭に向かい邇波荒田別が王に相応しいか対面して、舞や歌を見たり聞いたりし了承を得た。

留守を預かる草香も認め姉の子で興王君の姉妹広媛を与える。

邇波荒田別の父御諸別は内心認めず草香に暗殺計画を持ち出し広媛に
暗殺させようとするが、失敗。武大王に打ち明け武大王は怒り明に武器庫の剣一千の貸し出しを求めるが拒否され小数の騎馬隊で、邇波御諸別邸宅包囲し、広媛・草香・御諸別焼き討ち。妊娠し出産した武の子幼武だけは武に渡す。

小治王朝の小治宣坂は水軍を率いて来るが焼き討ち後と知り引き上げる。(珍彦)

邇波氏族川上明国彦(長脛彦)は、御諸別の焼き討ちに激怒して倭武大王軍を散々に打ち破る為死を覚悟。この時、草香の兄弟目が、策略を巡らして明国彦を暗殺。又、父坂合の編成した「スキタイの矢」の精鋭弓矢隊で壊滅させ敗走させる。こうして倭武大王は、草香の直系に神祇を剥奪し目に与え物氏(物部)を名乗らせる。草香直系に水軍を与え尾治姓を与える。目は明の反逆性を指摘するが許される。
小治宣坂は九州宇佐方面に配置転換され秦氏を朝鮮半島から三川に搬送し農業技術や治水工事を行わせる。
Posted by 邇波言壱(完全使用禁止・口外無用) at 2008年09月16日 10:18
通りすがりです。

口外無用という意味は、口から発してはいけないという意味かな?
ネットで公開はOKなんですね。
よくわかんないですけど。
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年09月16日 11:30
追記

だから、このブログのコメント欄だけで読める貴重な資料なのでしょう。
Posted by トンデモ歴史探偵 at 2008年09月16日 11:37
邇波言壱様は残念ながら、ご自身のホームページ・ブログ等をお持ちではないようです。
記述から、東海地方にお住まいか縁のある方と思われます。
コメントは門外不出の家伝に基づいているそうですが、マイナーなブログや掲示板で小出しにする程度には問題ないのでしょう。
疑問・ツッコミには答えてくれます。
Posted by 管理人 at 2008年09月17日 21:26
fujunさん、こんにちは。
谷川健一さんにしては慎重さに欠ける歴史俯瞰ですね。
氏族名は職名や地名などから起こっているようで、「物部」氏は「企救物部」「二田物部」という表現からも解るように職名氏族でしょう。弥生後期に西から東への侵攻が見られ、元々はこの時の「職業軍人」を指す用語だと考えられます(「モノノフ」とも読める。「弓削」という職種もついてくる:例「物部・弓削連・守屋」。「モノ」とは武器のことか)。
問題はニギハヤヒで、物部氏が天皇祭祀を取り仕切るということは、彼が「原天皇」だということになりますね。おもしろい。
Posted by ペンタクロス at 2008年09月20日 11:09
モノとは人物の物であり浦嶋の事だ。竜宮伝承と直結する。(使用厳禁・口外無用)
Posted by 邇波言壱 at 2008年09月20日 14:59
物部氏は軍事とともに祭祀を司る氏族でもありました。
物部のモノは「物の怪」「憑き物」のモノ、霊や魂も意味していると私は考えます。

ジンブツという日本語は、当時まだ無かったと思いますが…
人を意味する「者」が転じて「物」となったと言うならば理解できますが。
Posted by 管理人 at 2008年09月21日 18:01
否定しません。流布されてる総合的理解ではそうなりましょう。

おっしゃる通りです。

浦嶋の立場を川上眞稚が、倭得玉とその直系に与える。

三宝は鈴、硯、(所謂酒船・亀・小判形)水晶玉である。

竜王から奪い、竜王の娘との間に出来た息子を通して海も

支配する伝承である。(完全使用禁止)
Posted by 邇波言壱 at 2008年09月22日 00:02
川上眞稚とは、国宝・海部氏系図に出てくる人名でしょうか。
Posted by 管理人 at 2008年09月24日 00:23
その通りである。

トヨクムヌ命である。

邇波氏族川上氏である。
Posted by 邇波言壱 at 2008年09月24日 15:09
同じ人物なのに名前が多くて、難しいですね。

Posted by 管理人 at 2008年09月25日 23:32
fujunさん、こんばんは。
何か入りにくいですね(笑)。
海部氏も「○部」、海を生業とする職名からですか。
「物+部」もセットで判断して「物を生業とする部族」、本来は「何かの道具」づくりに携わった部族でしょう。「弓削」という職種名から武器づくり、それが軍族へとつながるかと思います。
ご参考に。http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/archives/5248903.html
Posted by ペンタクロス at 2008年09月27日 23:47
弓削といえば、奈良時代の僧・道鏡を思い出します。彼は物部氏の末裔ですね。

小さい頃にNHKで、弓はマユミの木から作られており、当時プロ野球選手だった真弓明信氏の祖先に関わっている…という内容のTV番組を見た記憶があります。
Posted by 管理人 at 2008年09月28日 00:21
川上眞稚-矢田彦-倉岐-明国彦(長脛彦)-海阿知-刀-稚子-三千-忍立(籠神社)-田継-田雄-----

海氏は備中国窪屋郡の海の側に居住した。出雲王朝最後の王・・邇波荒田別と倭武大王の統一王朝の下で仕事をした。中国に朝遣している。当時の渡来系では無い

(使用厳禁)
Posted by 邇波言壱 at 2008年10月01日 00:15
「中国に朝遣している」とは…

・57年の奴国王
・107年の倭国王帥升
・239年の卑弥呼
・266年の台与
・倭の五王の時代
・600年の遣隋使

このうち、どの時代の朝貢について指しているのでしょうか?
(それとも上記いずれとも関係無い?)
Posted by 管理人 at 2008年10月01日 00:47
5世紀です。大倭5王時代にかかります。

倭武王君から統一王朝の大王で国内国名「東加羅」変更後。

国土移動と、百済大規模支援計画(大国主族には内緒)の為に九州遷都を実施。

農業技術を百済系渡来人より導入して「南加羅」より変更。

倭興王君の崩御に伴い百済大規模支援計画御破算。(内緒口外禁止・完全使用厳禁)





前にも述べましたが・・僕は知られている事実からゆっくり理解を広げて戴きます。ですから初めから言ってる事に緩やかな変化を加えて、事実を持ち込みます。
Posted by 邇波言壱 at 2008年10月01日 11:40
扶余依羅(倭旨)と大倭の王は、加羅諸国、扶余国(依羅の子玄とその子蔚=五瀬。)に高麗を叩かせる為尽力し、倭仁王君は扶余国を守る為朝鮮半島に出兵し惨敗。百済国の窮状に多大な情けを掛け最後は百済王系に日本を乗っ取られる。

(口外禁止・完全使用禁止)
Posted by 邇波言壱 at 2008年10月01日 11:56
物多治見(守屋)将軍戦死後、倭聖大王(聖徳)が舒(舒明)に毒殺され長男片野田は、美作国久米郡弓削郷に代々居住する。

桃太郎の王邇波=オニワ退治の原型に成る。(使用禁止)
Posted by 邇波言壱 at 2008年10月01日 23:01
邇波言壱様がいつの時代のことを書いているのか、少しわかりました。

当blogの別の記事にコメントされた「曲学の徒」様は、海部氏系図(勘注系図)の宇那比姫(日女命)は卑弥呼、大倭姫(天豊姫)は台与だと考えているようです。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/(掲示板もあり)
Posted by 管理人 at 2008年10月02日 21:43
まあ無理もなかろう・・・想像出来る様な(悪く言えば誤解して欲しい)記載方法だから・・
関係有りません。

弥生人との接続は、卑弥呼と殉死した遺骸を崇拝しただけの形式上のものである。宇佐神宮の女神は卑弥呼である。

日本人に弥生人系が多いのは底辺だからである。食物連鎖と同じ様に考えれば良かろう。(喩えが悪くて済みません)
Posted by 邇波言壱 at 2008年10月03日 16:44
宇佐神宮の比売大神=卑弥呼 
井沢元彦氏、戸矢学氏がこの説を唱えています。
Posted by 管理人 at 2008年10月04日 20:53
正しい。亀山は、卑弥呼等を橋(箸)墓より遺骸と殉死者を移転させた墳墓であり墳墓を崇拝するスキタイ系の風習だからだ。
倭隋が、九州王朝(甘木・朝倉地方)建国の為尽力し隋の子済王君遷都した。
Posted by 邇波言壱 at 2008年10月04日 21:14
宇佐神宮のある小椋山(亀山)には、過去の修復の際に石棺が目撃されているといいます。
http://www.geocities.jp/nipponpopon/usa-tv.JPG
小椋山にあるのは前方後円墳だそうですが、魏志倭人伝の「径百余歩」が必ずしも円墳を指すとは限らないでしょう。
卑弥呼の陵墓が埋葬当初は円墳であったとしても、後に祭祀場としての前方部を付け足して前方後円墳になったとする解釈も可能でしょう。
いずれにしろ、小椋山が古墳なのかどうか検証が待たれます。
Posted by 管理人 at 2008年10月05日 13:38
おっしゃるとおり橋(箸)墓は接続されたものです。
Posted by 邇波言壱 at 2008年10月05日 18:00
卑弥呼は箸墓から宇佐へ改葬された…
邇波言壱様は、邪馬台国「西遷」説でしょうか?
Posted by 管理人 at 2008年10月06日 23:46
倭(弥生系)は、九州北部を君子国を目指し本土へ遷都。
ヤムトェ国(邪馬台国)を近畿地方に建国。
武蔵野の毛人と戦争し魏による調停で停戦。
三王朝成立。武蔵野より遷都し邇波国(丹波王国)。
扶余族誘致し三王朝のヤムトェ国を征伐。
新三王朝成立。出雲王朝、小治王朝、大倭王朝。

百済国大規模救援策と国土北上に伴う隼人領土侵攻作戦で、九州遷都。対騎馬民族中国王朝の為、卑弥呼後裔自称による
崇拝の為に卑弥呼遺骸や墳墓を移転。

隼人の土地は、7世紀後半迄大和朝廷の掌握を受けず。桓武天皇以降天皇族の発生の地として整備される。中央でも記紀の記述に沿う墳墓設定が、行われる。

(使用禁止)
Posted by 邇波言壱 at 2008年10月07日 15:47
難解な文章なので、解るところだけ…

>武蔵野の毛人と戦争し魏による調停で停戦

↑これは邪馬台国と狗奴国の戦争のことを指していますか?
Posted by 管理人 at 2008年10月09日 22:19
そうです。

九州北部から入国した弥生人達は、徐福の君子国が、参州三川(三河)にあり其処をめざして都を移動させたのです。ヤムトェ国成立後東海地方の弥生人は、君子国からの農業技術を取り入れ豊かになる訳です。銅鐸も君子国のクヨウを発展させたもの。鬼道も然りです。毛人も丹の精製技術を学びます。

Posted by 邇波言壱 at 2008年10月10日 12:26
秦の方士・徐福が日本にやって来たかどうかはわかりませんが、江蘇省で徐福村が発見されたことから、実在した人物であったようです。

越からの渡来人が日本に稲作を伝えたとの説があります。
呉越同舟の越ですね。政治的動乱や気候変動で、海を越えて日本列島へたどり着いた難民は多かったでしょう。
Posted by 管理人 at 2008年10月12日 21:28
東海三神山=蓬莱山(鳳来寺)、石巻山(天武天皇青年期居住し、天皇即位後遷都計画した。ニイキ=新城。)、本宮山(方丈)。不老長寿=薬草群生地・天然記念物指定。小治宣坂の水軍により搬送した新羅系渡来人上陸地。

豊国、穂国である。(使用厳重厳禁)
Posted by 邇波言壱 at 2008年10月14日 14:21
↓これについて書いているのでしょうか?
http://www.yui.or.jp/~tic/mikawa.html
愛知県東三河の三神山
Posted by 管理人 at 2008年10月14日 21:01
・・・ヤムトェ国が?西三川?面白い理論だ・・。
東海地方は、中国大陸に向いており三川地方は海岸線が、入り込み岡崎と安城の間に海が入り込んでいた。知立と大府の間も海が入り込んでいた。豊橋から新城まで海が入り込んでいた。名古屋の由来は長い島の連なる小治氏の支配する場所の頭文字ナオチである。

古イヒヤ湾(伊勢)は現豊田市の佐那伎山(猿投)迄入り込んでおり亀首より上陸した倭讃王君が進軍し陸路を進んだ。

君子国平定後三川で過ごすが、体の変調をきたし常世国から香具山を見て歌を詠み崩御。内津より葬送。

邇波川上(現在の名古屋市守山区東谷山)で、吉野を出た後に、船を使い倭建(後の所謂天武天皇)が、壬申の乱の前に津守氏族から酒を振舞われたり舞いを見て時を過ごした。

此の後佐那伎山手前の貝津から上陸し戦勝祈願を行う。

即位後邇波川上は、紀国の丹生川上に移動する。

・・其の本にも同様の事が書かれているのか?ならば使用厳禁は解除である。

其の本に書かれている点は使用厳重禁止を解除する。

それ以外は使用厳重禁止とする。



Posted by 邇波言壱 at 2008年10月14日 22:31
自分も読まなければ・・何処迄禁止か分からんなあ・・
未だ購入出来るのですか?これ以上は公表中止とする。今迄御世話に成りました。
Posted by 邇波言壱 at 2008年10月14日 22:43
完全最後・・(これは知られていないだろうから公表。厳重使用厳禁)

天武(倭建天皇)-文武(稚建天皇)-長屋王(長屋親王)

文武とは所謂高市皇子であり三輪山神話をギリシャ神話より採用し文学的才能を発揮した天皇であり香具山の名を大倭の天指山に移転したのである。

天武-(建韓王)-(韓王)-聖武--

韓王の諡号は父祖が天皇だと言っているのである。
Posted by 邇波言壱 at 2008年10月14日 23:02
先にリンクを張ったサイトは、東海三神山がどこにあるのか検索していて、たまたま発見したまで。
前田豊とかいう人の本の内容は知りませんが、現在も購入できるようです。
Posted by 管理人 at 2008年10月14日 23:08
恐れ入ります。東海三神山位置は正解です。購入してみます。
Posted by 邇波言壱 at 2008年10月15日 14:43
前田豊さんご自身のホームページがありましたので、ご紹介いたします。
http://homepage2.nifty.com/kodaishinto/
古代神都・東三河
Posted by 管理人 at 2008年10月15日 20:24
御礼・・・所謂秦河勝が、秦(波多)と呼ばれたのは、君子国平定後邇波氏が、
専売の養蚕の絹や銅の製造を継承し三河を治めたからであり渡来人では無い。

邇波塩古が、養蚕を所謂天香具山で行い国益に寄与した。(所謂太秦。本当の意味は違う)

紹介有難う。ではさらば。
Posted by 邇波言壱 at 2008年10月16日 17:56
お役に立ててなによりです。お元気で。
Posted by 管理人 at 2008年10月16日 20:51
緊急

ヤムトェ(邪馬台)国についてヒントを与えよう。
可笑しな情報蔓延しておりふざけている。みてはおれん。

「東西五ヶ月、南北三ヶ月」「東が高く西が低い」
本州である。

ヤムトェ国南方にコビト国(パラオ)あり更に南東に絶海の中央の島(オーストラリア)の上に裸国(ニューギニア)有り。

宇佐は九州王朝が、朝倉地方(大宰府)を都とした時卑弥呼遺物を移動させた。宇佐氏系統に辛嶋勝乙目をおいて邪馬台国の継承をしたに過ぎない
Posted by 邇波言壱 at 2008年10月31日 16:48
邪馬台国に関する可笑しな情報が蔓延していて憤りを感じるなら、邇波様ご自身がWebサイトを開設して自説を世に問いましょう。
Posted by 管理人 at 2008年11月01日 23:42
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