2008年09月24日

人間と動物の境界

人間とチンパンジーの遺伝子は、98%が共通だと言われています。
人間と類人猿が遺伝子的に近いばかりか、言語を解するボノボ、道具を使って餌を採るチンパンジー、イモを洗うニホンザルなどが報告されています。知性や文化の存在が、人間と他の動物を区別する明確な基準とは言い難くなってきました。

科学技術は、あらかじめ優秀な遺伝子を持ったデザイナー・ベビーや、クローン人間の誕生を可能にしようとしています。
あるいはコンピュータやロボットの進歩は、人間のような感情を持った機械を生み出すかもしれません。果たして「彼ら」を人間と呼ぶべきなのでしょうか。
もっと身近な例を挙げれば、中絶された胎児は人間なのかという問題もあります。

人間とそうでない者との境界は、どこにあるのでしょうか。



人間の境界はどこにあるのだろう? フェリペ・フェルナンデス=アルメスト 著

ふと目に入ったタイトルが気になった一冊。

人間(=主として西欧人)が、類人猿や異民族をどのように捉え、人間の境界をどう考えてきたのか、その歴史が綴られています。
本書の読みどころは、西欧人の「未開人」に対する認識でしょう。そこには差別的なものばかりではなく、文明に侵されていない純粋な存在としての憧れもあったようです。しかし西欧人中心の好奇な視線は否定できず、おぞましく残酷な事例は少なくありません。人種差別という世界史の暗黒面を、克明に描いています。

最終章では遺伝子工学とロボティクスによる人間の未来像について語られますが、著者独自の意見らしきものはなく、期待はずれでした。
結局、人間の境界を定義することは難しいというのが結論のようです。

訳者は、動物行動学の著訳書を数多く出している長谷川眞理子氏。
あとがきで長谷川氏は、著者の視点は人間と動物を論理で分けようとする西欧的なもので、日本人のような生き物への共感がないと指摘しています。
それはもっともなのですが、水子供養を日本人の生命観の表れとして挙げるのはどうかなと。水子供養の歴史って、結構浅いと思うのですが。

(9月23日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
赤ちゃん売ります
ヒトがモノになる…


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 00:03| Comment(10) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
人間自体は生物学的に何の特別な存在でもない。
人間が人間という物をこういう物だと認識してるからこそ、
人間と他の物の区別が生まれるわけで、その観点から言えば
昔の西洋人の人間の認識から離れていたのが未開人だった訳で、
非人間的な差別的行為が、たいした罪悪感も無く行われていたのかも
しれません。
でも今ではアフリカのコイサンマンだって人間だと認識している。
何をもって人間か人間でない物かという認識は「変わるもの」だと
思います。
人間から生まれず、人口頭脳を持ち、経験から感情を獲得するような
人型の(もしくはそうでない)物を、
生物学的には人間とはほど遠いので、人間とは呼ばないが、
自然に人間と対等な存在と認識する時代がやってくると思います。
西洋的な宗教観も社会の変化とともに変わるものと思われます。
あるいは、
遺伝子が限りなく近くても、言葉を知らず容姿も全然違うチンパンジーと違い、
人間に限りなく近い容姿と機能を持てば、人間と呼ばれるかもしれません。
それでも、
人間の子孫を残す事という生物学的な相違点こそが、最終的にそれを
人間と認識出来ない理由になってくるのかもしれません。
結論として、人間は人間以外を完全に人間と認識する事は出来ないのかも
しれません。
人間の境界は結局人間としての生殖能力なのかもしれませんよ。
まあそんなもんじゃないかな(笑
これを逆に言うと、人間から採取された一細胞から生まれたクローンは
人間として認識されるのだとおもいます。
とりとめの無い長文、失礼しました。
Posted by 幸玉 at 2008年09月26日 19:45
日本でも対立する部族や異民族を、鬼だとか天狗だとか土蜘蛛などと呼んで、恐れたりあるいは蔑んだりしました。
文明の発達によって人間の活動範囲が広がり、他の集団と接触することによって戦争や差別も生まれましたが、それによって他の集団も同じ人間であることを理解し「人間」の範疇が広がっていったのでしょう。

私はクローン人間なんて「自分と同じ姿をした他人に過ぎない」と考えて、容認する立場です。
自分の細胞からクローン人間が生まれたとしても、いきなり自分と同じ年齢になるわけではありませんし、食生活や健康状態が異なれば体型だって変わってきます。当然ながら、生育環境が異なれば性格や知能は異なります。

クローン人間というと、なぜかヒトラーがいっぱい生まれてくるヴィジュアル・イメージで語られることが多いですね。あれって一体、誰が最初にやり始めたんでしょう(笑)
Posted by 管理人 at 2008年09月27日 22:04
誰が最初か知りませんが、『ブラジルから来た少年』という作品が1970年代にあります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F%E5%B0%91%E5%B9%B4

人間とそうでないものを完全に区別するのは、無理だと思います。

「魂の入ってない仏像」を軽蔑するのは、逆説として、魂が入っていれば生命体であるという意味です。
人形なんかでも、見つめられると怖いと思うのが普通です。
アニミズムですね。

チューリングも、人間とそうでない区別を考えていました。
チャットで相手が機械でも、人間と勘違いする場合があります。
ネット・チェスやネット将棋なら、相手が機械か人間かの区別は困難です。
Posted by おおくぼ at 2008年09月29日 01:41
ヒトラーにクローン人間という発想があったとは思えませんが、民族の遺伝的優劣を主張した人物ですから、遺伝子工学の恐怖を煽る際にネタにされるのでしょう。

人語を解し感情表現をする機械が実現したら、やはりそこに「人間」を感じます。
フィリップ.K.ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』にも、人間とアンドロイドを判別するテストの話が出てきました。
人間の脳は「二つの丸」を見ると、それを顔と認識するようにプログラムされているそうです。人形に生命を感じるのは、そのせいかもしれません。
また、ペットロス症候群なんて言葉があるように、動物に人間以上の愛情を注ぐ人もいます。

そうなると人間とそうでないモノとの境界は、幸玉様がおっしゃるように生殖可能かどうかになってしまうのでしょうか?
Posted by 管理人 at 2008年09月29日 13:49
>「そうなると人間とそうでないモノとの境界は、幸玉様がおっしゃるように生殖可能かどうかになってしまうのでしょうか?」

認識論と存在論は分けて考えるのが、現代思想の定番です。岸田秀のように唯幻論では、瞑想して妄想をコントロールすればOKという話になってしまいます。
『チベットのモーツファルト』かな?

遺伝子では猿と人間は近いですが、やはり違います。ネアンデルタールとクロマニオンも違います。
遺伝子での区別は、存在論的な区別です。




機械は生殖で増えないから、生殖で区別するというのは、どうなんでしょうか?
某元大臣が「産む機械」という問題発言をしてましたけど。
逆に産めない女性は、古来石女といって差別されて来ました。




最近は、機械と人間の融合も進んでいると思います。
義手や人工心臓だけでなく、脳の方も融合が進むと、半人半機械のようになり、区別が困難になるでしょう。



『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』は映画『ブレードランナー』の原作でもあります。
Posted by おおくぼ at 2008年09月29日 14:12
機械に「魂」が芽生えるというテーマは
古いアメリカ映画で悪霊がとりついて人を襲う殺人カーものや怪談噺
昔からたくさんの作品で取り上げられていますね〜
映画では「ショートサーキット」や「A.I」、
漫画では「鉄腕アトム」や「GHOST IN THE SHELL」「イノセント」など。
手塚治虫原作の鉄腕アトムは人間になりたいと願いましたが、
はたして彼の自己犠牲で人間として認識されたのでしょうか?
今、浦澤直樹の漫画PLUTOを2巻まで読んでいます。
鉄腕アトムのエピソードのリメイク作品ですが、主人公やアトムなど
原作と違い人間と変わらぬ容姿をもって登場しています、
2巻の時点では彼らは自身も己を人間の模倣者と認識し、
人間にも、愛されてはいるが、人間とは認識されていないようです。
スピルバーグの映画「A.I」では、人間そっくりの少年のロボットが、
自分を人間と認識して愛してくれない人間たちに翻弄され、その
人類が滅びてしまったはるか未来まで母親を求め存在し続けます。
映画ブレードランナーでは最終的に人間社会から逃避しますね。

「魂」の存在が不確定なかぎり、極限まで人間そっくりな容姿と思考
を得たロボットが生まれても、姿形や生物学的な能力などにおいて
人間の範疇を逸脱したり、逆に足りないものを、人間は人間と認識
することは無いと思います。
もし、魂がテディーベアにのりうつって能弁に喋りだしたとして、
そのクマのぬいぐるみを人間と認識することができるだろうか?
前例がないので何とも言えませんが。
ネットゲームの相手、人形、アンドロイドを人間と認識するというのは
「人間っぽさ」を人間と認識する「錯覚」の話じゃないかと思います。
山中に捨ててある「ある人形」を、警察が「人間」と認識し、
死体遺棄事件と大騒ぎになり、男性が警察に出頭したという事件が
ありましたが、その男性は人間と認識して使用していたのですが、
手持ち無沙汰になったら山中にポイっと捨てる程度のものでした。

GHOST IN THE SHELL・イノセント では、体のほとんどをサイボーグ化
した主人公が、はたして自分は「人間」なのかどうか、
わからなくなる。と言います。
自分はもともと機械で、誰かが植え付けた記憶をもとに、
自分を認識しているだけなのかもしれない、と。
人間の生体を失うと、人は自分が人間であるかの認識が希薄になる。
さもありなん。と思います。
逆に、ゴーストペインという、失ったはずの手足が痛むという現象は
ありもしない手足を「認識」し、痛みを感じるという「錯覚」です。
「認識」っちゅうのは観念めいたあいまいなものとボクは認識し、
結局、人間であるかないかを認識する境界線は、ホモサピエンスの
生態を有しているかそうでないかじゃないか。と思った次第です。
でも、上でも書きましたように、認識は「変わる」と思いますので、
これが器量の小さいボクの、もしくは時代の「認識」の限界なのかも
しれません。

遺伝子工学が発達するか、もしくはモラルハザードが起きて、
人間の遺伝子からデビルマンのような新人類が生まれたとしたら、
はたしてボクらは彼らを人間と認識できるか?
どんどん荒唐無稽になってきたのでこのへんでやめておきます(笑
もしこのコメントが不適切とみなされた場合は遠慮なく削除してください(謝
Posted by 幸玉 at 2008年09月30日 04:38
認識論としての推薦図書

『マンガは哲学する』 (講談社プラスアルファ文庫)
永井均 (著)

「この私」の認識の根拠を、哲学しています。
Posted by おおくぼ at 2008年09月30日 17:07
遺伝子工学で生まれた子は「人間」なのか?
人語を解し感情を表す機械は「人間」なのか?
機械の臓器を持つサイボーグは「人間」なのか?
ネアンデルタール人の生き残りは「人間」なのか?
宇宙船で地球に漂着した異星人は「人間」なのか?

「私(人間)が人間だと認識した者が人間だ」では、トートロジーになってしまいます。
科学も法律も宗教も、明確な回答を示してくれません。
だからこそ小説や映画やアニメなどのフィクションが、人間とは何者か、人間の境界はどこかを問い続けているのでしょう。
幸玉様、おおくぼ様、数多くの作品をご存知ですね。

地球の複雑な生態系システムを一個の生命体とみなす「ガイア仮説」に対し、地球は自己複製しないから生命とはいえないとの批判があります。
どんなに高度な知能と繊細な感情を持った機械でも、自己複製しないからには生命体とは呼べない、だから人間ではないと定義することは可能です。

昔読んだ本ですが、機械の生態系が文明を乗っ取る未来を予想したハンス・モラベックの『電脳生物たち』は刺激的でした。人間の脳のパターンを機械に転写することで、人間は永遠の存在になる…という内容だったような。これでも小説ではなく、科学書です。
Posted by 管理人 at 2008年09月30日 23:41
>「「私(人間)が人間だと認識した者が人間だ」では、トートロジーになってしまいます。」

トートロジーでいいと思います(笑)。
だから人によって、それぞれ違うのです。



ただ存在論的には人間とロボットは違います。
ロボットには遺伝子は無いし、肉体を作っている素材も違います。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』で不思議なのは、存在論的な区別をしないことです。
髪の毛でも調べれば、人間かロボットかの区別は簡単につきます。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の面白いところは、「人間らしさ」を問題にしたことです。
人によっては、赤の他人よりペットの犬や猫の方に、「人間らしさ」を感じるかもしれません。



フィリップ.K.ディックの『トータルリコール(模造記憶)』では、「この私」の根拠についても問題にしています。

認識論的には、確実だと思っているモノも確実ではありません。
栗本慎一嘯焉Aそんな議論を展開していた気がします。
Posted by おおくぼ at 2008年10月01日 07:14
ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』は1968年、ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を発表したのは1953年(ノーベル賞受賞は1962年)。
未来小説である『アンドロイド…』に、DNA鑑定という発想があってもおかしくはないですね。
人間とアンドロイドをDNAで単純明快に識別するのではなく、人間らしさとは何かを探求することに、文学作品としての価値があるのでしょう。
逆に、アンドロイドをDNA鑑定にかけて殺しまくる内容の小説であっても、人間並みの知能と感情をもつ機械を壊して良いものかとの問題提起はできるでしょう。

近代以前は、同じ生物種(ホモサピエンス)であっても未開人は人間扱いされませんでした。
近代に入ると、人権思想の発生もあってか、文化や肌の色が違ってもホモサピエンスはみな同じ人間になりました。
そして今日では、ロボットの生存権が問題にされたり、ペットに人間以上の愛情を注ぐ人がいたりします。
文明の進展とともに「人間の範疇」が拡張されてきています。

存在論的には人間ではないと判り切っているけれど、認識論的には人間のうちに含めたいモノが増えてきたということでしょうか。
Posted by 管理人 at 2008年10月02日 22:36
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