2008年12月08日

本当にキケンな源氏物語

今年(2008年)は日本文学史上の最高峰、源氏物語が書かれて1000年になります。
源氏物語を書いた紫式部は、父の藤原為時が越前守に任官したのに伴い、少女時代の2年間を越前国で過ごしました。福井県の越前市武生公会堂記念館では、源氏物語千年紀にあわせた企画展が開催され、当時の越前国府の面影を感じることができました(国府の正確な位置は、まだ判っていません)。
紫式部の紫は物語に登場する「紫の上」に、式部は父・為時の官職「式部丞」に由来します。為時も文人として名高く、時の一条天皇に詩を奉じて越前守の地位を手に入れたエピソードは、あまりにも有名です。



知られざる王朝物語の発見 神野藤昭夫 著

『源氏物語』をはじめ、平安時代には『竹取物語』『伊勢物語』など数多くの王朝物語が生まれました。
これらの著名な作品以外にも、散逸して現代に伝わらなかった「知られざる物語」群があったと考えられます。多くの作品が失われた理由には、時間の経過や作品の価値などが考えられますが、京の都を火の海にした応仁の乱の影響が最も大きいようです。

鎌倉時代初期に書かれた王朝文学論である『無名草子』は、紫式部は『源氏物語』を作った、清少納言は『枕草子』を書いたと表記しています。フィクションとノンフィクションを明確に区別しているのです。
ちなみに紫式部には、作り話を書いて世を惑わせたため、地獄に堕ちたとの言い伝えがあります。さらには地獄の貴公子・小野篁が、閻魔大王にとりなして地獄送りを免れたとの伝説も…

『源氏物語』の主人公・光源氏は、天皇の皇子として生まれましたが、光が皇位を継げば国が乱れるとの予言から、源の姓を賜り臣籍降下しました。
光源氏と天皇の后(藤壺)との密通によって生まれた子は、のちに天皇(冷泉帝)として即位します。そして光源氏自身は、准太上天皇の地位に登りつめました。
王権簒奪という大胆な発想を、紫式部はどこから得たのか。「日本紀の御局」と呼ばれた紫式部は、ダイナミックな王朝交替を描く支那の歴史書にも通じていたのではないかと、神野藤昭夫氏は考えます。
作中(第二十五帖「蛍」)で、紫式部は光源氏にこう言わせています。
「日本紀などはかたそばぞかし」(日本書紀なんて歴史の一面でしかない)

王朝文学の素養がない私に、本書の内容を上手く伝えることはできませんが、平安朝の人々の豊潤な想像力の一端に触れることができた気がします。

(12月7日読了)

関連サイト:源氏物語千年紀委員会


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 01:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 文学・小説交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
fujunさん、こんばんは。
紫式部は歴史学の貴重な証言者でもありますね。日本紀を端っこの書だと言い切った裏には、越前居住体験が関わっているのでは?。ここは異色の天皇「継体」を輩出した古代から独立性の強い地。今私のブログではこの辺を突っ込んで探っています。
Posted by ペンタクロス at 2008年12月13日 23:28
藤原為時は当代一の文人であり、紫式部も漢籍の手ほどきを受けていたでしょう。
平安朝の越前国には渤海使を接待する松原客館があり、異国との交流が深い地でした。為時の漢才が生かされたことと思われます。
そういえば源氏物語で、親王家の令嬢・末摘花が身に着けていたクロテンの毛皮は、渤海からの舶来品ですね。
紫式部は越前の地で、何を感じ取ったのでしょうか。
Posted by 管理人 at 2008年12月14日 22:16
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