2009年03月20日

女帝の密かな陰謀

古代史最大の争乱、壬申の乱。その発端には有名なエピソードがあります。
天智天皇は晩年、弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を呼んで後事を託そうとしましたが、大海人皇子はこれを固辞して吉野に隠遁しました。
実は、わが子・大友皇子(のちの弘文天皇、ただし即位には異議もあり)に皇位を譲ろうと考えていた天智天皇が、弟が皇位に野心を示したら暗殺しようと仕組んだ「陰謀」であった…



持統女帝と皇位継承

しかし本書の著者・倉本一宏氏は、天智天皇の陰謀を明確に否定します。大友皇子は生母の身分が低く、もとから皇位継承の候補者ではなかったとのこと。
倉本氏は、天智天皇にとって弟であり娘婿でもある大海人皇子が、皇位を嗣ぐことに何の不都合もなく、むしろ大本命だったと考えています。天武天皇の皇后は、天智天皇の娘・鵜野讚良皇女(のちの持統天皇)です。

では、壬申の乱の目的は一体なんだったのでしょうか?
倉本氏は、愛息・草壁皇子の皇位継承を確実にするための、鵜野讚良皇女による「陰謀」なのだといいます。戦乱によって大友皇子の一族と、草壁皇子の異母弟である大津皇子を、一緒に葬り去ろうとしたというのです。
壬申の乱で大津皇子は無事でしたが、天武天皇の崩御後、謀反のかどで処刑されます。なお大津皇子の母は、鵜野讚良皇女の姉・大田皇女。姉が早世したことで、鵜野讚良皇女は天武天皇の皇后となりました。

当時の皇位継承は、おおむね30歳以上の皇族の同世代内で行われ、同世代内に候補者がいなくなってから、若い世代へと下りていったようです。最初から親から子へと、垂直に受け継がれた訳ではありません。
激しい権力闘争を目の当たりにして育った、持統天皇。そこから彼女の冷徹な政治哲学が生まれたのでしょう。

本書は持統天皇を中心に、継体天皇の時代から乙巳の変(大化の改新)を経て奈良時代へと至る、皇位継承のメカニズムを分析しています。
「国母」として権勢を振るい、皇統を確立した女帝・持統天皇。やはり皇祖神・天照大神のモデルなのでしょうか?




たいへん興味深い指摘の多い一冊でしたが…
天智天皇がすぐに即位せずに斉明天皇が重祚したのは、皇太子というフリーな立場から国際情勢に対処したかったとする従来からの解釈で、納得できませんでした。

(3月16日読了)

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posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 19:44| Comment(12) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
どうもトンデモ歴史愛好家のおおくぼです。
私は神功皇后=天照大神=卑弥呼だと思っています。
神功皇后と卑弥呼は天皇ではありません。
だから天照大神も天皇ではありませんという三段論法でいきたいと思ってます(笑)。


大化の改新は面白く、井沢元彦の推理が好きです。
女性の天皇は、歴史的に皇位継承と関係が深いです。
自分の息子や好きな人を天皇にするために、まず自分が天皇になるのが手っ取り早いのです。
最初の女性の天皇である推古天皇は、自分の息子を天皇にしようとしましたが、推古天皇の一人息子は戦争で死んでしまいました。
だから『日本書記』は嘘で、実際は聖徳太子に天皇の位を譲ったと推測しています。
女性の天皇は、男性の天皇のつなぎ役なので・・・。
フェミニストに怒られるなあ〜。
だから推古天皇の天皇在位期間は、実際はかなり短いと思っています。
Posted by アマチュア歴史愛好家 at 2009年03月22日 10:38
推古天皇が即位したころ、聖徳太子は二十歳前後。
まだ若いですが、未成年ではありません。

大和朝廷は有力豪族の連合政権で、天皇(大王)の権力は、まだ絶対的ではなかったでしょう。連合政権のまとめ役である天皇には、能力ではなく、年齢的に大王家の族長的な立場の人から選ばれたのかもしれません。
当時の大王一族本家では推古天皇が最年長者で、女性ではあるが発言力が一番強かった。また、族長であるから大王の地位は終身制で、生前譲位という考え方はなかった。それらが聖徳太子が天皇になれなかった理由ではないか…と、とりあえず考えておきます。

邪馬台国の女王・卑弥呼や、推古天皇の百年ほど前に事実上の女帝だったとされる飯豊皇女など、古代の日本において女性の族長は、決して例外的な存在ではなかったのでしょう。
Posted by 管理人 at 2009年03月23日 21:53
古代史は資料が少なく、どの説が正しいか確定しがたいです。
ただ『隋書』「倭国伝」と『日本書記』には違いがあります。
隋の使者が見たのは、女性の王ではなく、男性の王です。



天智天皇と天武天皇は兄弟とされていますが、本当に兄弟だったかは怪しいと思います。
Posted by アマチュア歴史愛好家 at 2009年03月24日 09:04
先に述べた推古天皇の即位理由は、倉本一宏氏の説を私なりにまとめたものですが、それで納得したわけではありません。

推古天皇の政治力は、結構強かったと思います。崇峻天皇の暗殺を命じた蘇我馬子はお咎めなしでしたが、これは推古天皇が暗殺に同意していたからでは?
蘇我馬子には、天皇以上の力があったのかもしれませんが(実は天皇だった?)。
ちなみに崇峻天皇は、なぜか即日葬られています(実は天皇ではなかった?)。

隋の使者が面会したのは、女帝ではありません。
聖徳太子は摂政なので、推古天皇に代わって隋の使者に面会するのは当然だと考えることもできます。卑弥呼も人前には姿を現さず、弟が女王の言葉を伝えました。
なお、倭王「タリシホコ」を九州王朝の王だとする説もあります(隋の使者・裴世清は難波に上陸していますが)。

井沢元彦氏は「天智天皇と天武天皇は兄弟ではなかった」説ですね。
弟であるはずの天武天皇の方が、年上だったとの伝承もあるようです。
Posted by 管理人 at 2009年03月25日 22:46
>「卑弥呼も人前には姿を現さず、弟が女王の言葉を伝えました。」

どうして支那の人は面会もしてない卑弥呼を女王だとわかったのでしょう?
ヒミコ=ひ巫女という説もありますけど。

>「なお、倭王「タリシホコ」を九州王朝の王だとする説もあります(隋の使者・裴世清は難波に上陸していますが)。」

新羅との戦いでも、北九州が砦になっているので、大和朝廷と北九州の関係は深いのでしょう。



井沢氏の暗殺説は興味深いです。
天智と天武の関係は、百済と新羅の関係が尾を引いているというのも、いろいろ想像が膨らみます。
Posted by アマチュア歴史愛好家 at 2009年03月26日 09:15
天智・天武の関係と、百済・新羅の関係は、大いに興味が惹かれます。

天智天皇は、百済の復興を支援するために白村江で唐・新羅連合軍と戦い、百済王子・豊璋の亡命を受け入れています(豊璋=中臣鎌足とする説もあり)。
そこまでして天智天皇が、百済に肩入れする理由とは…?

一方、天武天皇の時代に建てられた薬師寺の伽藍配置は、金堂の左右に塔が立ち並ぶ新羅式のレイアウトです。天智天皇の時代とは、外交政策が大きく転換したことがうかがえます。

倉本一宏氏は、壬申の乱の動機のひとつとして、大友皇子(弘文天皇)の異常な外交政策を正すことがあったと書いています。
Posted by 管理人 at 2009年03月26日 22:28
天武天皇と天智天皇は血筋が違うという説があります。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/032.htm

リンク先には、心理学者の岸田秀の説は紹介してないのですが、岸田秀の歴史観は刺激です。

>「蘇我馬子には、天皇以上の力があったのかもしれませんが(実は天皇だった?)。
ちなみに崇峻天皇は、なぜか即日葬られています(実は天皇ではなかった?)。」

天皇は血統が大事なので、蘇我氏がどんなに権力が絶大でも、天皇になれないと思います。
足利尊氏が、北朝の天皇を立てる時は、血筋が問題になっています。
そういう意味では、承久の乱の北条政子は非日本人的で、謎の人物ですね。

崇峻天皇も「崇」という字が入っているので、やはり謎がありそうですね。

『日本書記』と『古事記』は、天皇家を巡る権力闘争の記録だと思うのですが、裏読みがいろいろできるから楽しいです。
『平家物語』もそうですが、現存する資料が多いと裏読みの可能性が減ります。
Posted by アマチュア歴史愛好家 at 2009年03月27日 16:14
fujunさん、おひさしぶりです。
@崇竣は、物部が担ぐ小姉君系の穴穂部兄※が殺害された後に王座についていますので、別の見方をすれば、蘇我馬子はその「簒奪王」を始末したことになります。
※穴穂部皇子には「天香子」という意味深な別名(他にはいない)があり、日本書紀には「自称後継」の振舞が記されています。
記紀に描かれる人物の「立ち位置」には、当世の「小沢おろし」の如く慎重に吟味する要があります。
注)@はアフターネーミング(後世呼称)の意味です。
Posted by ペンタクロス at 2009年03月28日 11:27
トンデモ歴史愛好家様に同感です。
歴史が古い時代ほど面白いのは、史料が少なくて素人の想像が入り込む余地が多く残されているからです。

確かに「崇」の字が入った天皇は、謎の方が多いですね。
実在が確かな最初の天皇と考えられている、崇神天皇。
在位中に暗殺されたと正史に唯一記録される、崇峻天皇。
そして日本史上最強の怨霊である、崇徳天皇。
そう言えば、桓武天皇に祟りをなした弟の早良親王は、崇道天皇の号を贈られています。「崇」と「祟」は、字面も似ていますね。
Posted by 管理人 at 2009年03月28日 23:41
ペンタクロス様、お久しぶりです。

穴穂部皇子には、皇位への執着が強かったとか、敏達天皇の喪に服する推古天皇を襲おうとしたとか、悪役イメージが強くあります。歴史は時の権力者に都合良く書かれますから、露骨に悪く書かれている人物には、何か裏があるのかもしれません。
崇峻天皇は、息子の蜂子皇子が修験道の開祖・能除太子になったとの伝承でも、興味深い方です。

現代は、マスコミに描かれる人物の「立ち位置」が重要ですね。
小沢一郎氏は普段、ダーティな剛腕政治家として叩かれながら、政権交代の可能性が現実味を帯びてくると、一転して救国の士のように描かれます。細川政権誕生の時もそうでした。
私は西松建設の献金よりも、政党助成金で購入した不動産の方がはるかに大問題だと思います。政党助成金は公金(私たちの納めた税金)ですから。
Posted by 管理人 at 2009年03月29日 00:06
古代日本史は文字資料不足ですが、その時代の支那や朝鮮にはあります。
有名な「広開土王碑」に出てくる「倭」という文字や、『三国志』の倭に関する記述などです。
日本を初統一したのは豊臣秀吉ですので、壬申の乱の頃の日本は、まだ統一されておらず、多くの国があったと推測されます。
朝鮮半島と日本列島の関係も、現在と違っていたと思います。
朝鮮語や日本語も共通語ではないので、当時の人達は、どんな言葉でコミュニケーションしていたか、謎です。
また天智天皇と天武天皇と持統天皇の血縁関係が気になります。
横溝正史の推理小説みたいですが・・・。
Posted by アマチュア歴史愛好家 at 2009年03月29日 23:18
「本能寺の変」「応天門の変」などの「変」は、政変・クーデター。
「壬申の乱」「応仁の乱」などの「乱」は、内乱・内戦。
「文永の役(元寇)」「文禄の役(朝鮮出兵)」などの「役」は、対外戦争。
平安時代に東北地方で起きた「前九年の役」「後三年の役」は、都の貴族にしてみれば蛮族との対外戦争として認識されていたのでしょうね。

Posted by 管理人 at 2009年04月01日 18:49
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