2009年06月14日

巨大古墳の主は誰?

世界最大級の墓である、大仙古墳(大阪府堺市)と誉田山古墳(大阪府羽曳野市)。前者は第16代仁徳天皇、後者は第15代応神天皇の御陵であるとされています。
宮内庁は天皇陵の学術調査を制限しているため、正確な被葬者は判りません。



応神=ヤマトタケルは朝鮮人だった
林順治 著

う〜ん、いかにもトンデモ度の高そうなタイトル!
しかし版元は、偽史本や陰謀本の得意な徳間書店ではなく、人文系書籍の名門・河出書房新社。勇気を出して読んでみましょう(笑)
林順治氏は出版社役員を務めた著述家で、本書の論旨は古代史研究家・石渡信一郎氏の説に依拠しています。

支那の歴史書に登場する倭の五王(賛・珍・済・興・武)は、記紀のどの天皇に相当するのか、いくつかの説があります。本書は石上神宮七支刀、隅田八幡宮人物画像鏡、稲荷山古墳鉄剣などの金石文を解読し、名前を刻まれた人物の正体を推理します。
その答えは…
・応神天皇=百済王子・昆支、倭王武、ヤマトタケル
・継体天皇=百済王子・昆支の弟、余紀

応神天皇とその五世孫とされる継体天皇は、ともに百済の王子であり、実は兄弟だったというのです。そして誉田山古墳はそのまま応神天皇陵ですが、伝・仁徳天皇陵とされる大仙古墳は継体天皇陵だとします。
そうなると、真の継体天皇陵説が有力な今城塚古墳の主は誰なのでしょうか。その疑問には答えていません。
さらに石渡氏は、次のような説も唱えています。
・欽明天皇=蘇我稲目、ワカタケル
・用命天皇=蘇我馬子

蘇我蝦夷・入鹿親子も天皇であり、聖徳太子や推古天皇は、蘇我氏の業績をカモフラージュするための架空の存在だといいます。
欽明天皇がワカタケルなら、通説がワカタケルとする雄略天皇も架空の人物です。また卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳は、崇神天皇陵だと主張しています。

日本と百済は友好関係にあり、大和朝廷は百済を軍事的に支援していました。
本書は、応神天皇と継体天皇が百済王家から人質として来日し、ヤマト王朝に婿入りしたのだといいます。朝鮮半島から襲来した騎馬民族が、武力で日本列島を征服したという話ではありませんので、愛国者の方も安心してお読みください(笑)

それにしてもこの本、架空の人物(天皇)が多過ぎでは…

(5月20日読了)


ラベル:古墳
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 23:58| Comment(6) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
朝鮮語と日本語は、文法は似ているし、単語の発音も似ています。
日本列島の統一は遅いですから・・・・。

でも、古代にどんな繋がりがあったか謎ですね。
広開土王の碑とか、興味はあるんですけど・・・。
Posted by おおくぼ at 2009年06月19日 22:20
日本オリジナルとされる前方後円墳は、朝鮮半島にもあります。
ただし、伽耶に渡った倭人官僚の墓のようです。
古代日本のルーツを、なんでもかんでも朝鮮半島に求めるべきではないでしょう。
すべての人類のルーツはアフリカ東部ですけどね(笑)
Posted by 管理人 at 2009年06月20日 00:20
誉田山古墳は仕事場のすぐ近くにありますよ。
周辺は古墳が多いです。
ちなみに在日系の人も多いですが、まさかそれを証拠とするようなトンデモ論は展開してないでしょうね。
言い出しそうな人たちですからw
Posted by ギレン閣下 at 2009年07月05日 01:06
この本、やはりタイトルがトンデモ度を増幅していますね。
「朝鮮=狂った独裁者の国」が、世間一般のイメージですから。
「応神天皇は百済王子だった」にしておけば良かったのに。

百済は、隣接する高句麗と緊張関係にあり、大和朝廷の軍事的支援を仰いでいました。百済の王子が人質として、日本に来ていたのは確かです。
韓国には、そんな百済がアジアを支配していたとする、「大百済帝国」なるトンデモ説があるそうです(笑)
http://blogs.dion.ne.jp/fujun/archives/5475873.html
Posted by 管理人 at 2009年07月05日 11:11
『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 @実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 A貴重な金石文を正確に読みましょう。
 B地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記@ABを 徹底的に、探究しました。 
@古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
A七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
B地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年〜340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
@草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
A発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
B稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
C少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳−−−−−−年代−−−−被葬者
@箸墓−−−−−385年頃−倭王旨(七支刀)   
A渋谷向山古墳−410年頃
B行燈山古墳−−430年頃−倭王讃(宋書)
C五社神古墳−−440年頃−倭国王珍(宋書)
D中ツ山古墳−−450年頃−倭国王済(宋書)
E石津山古墳−−475年頃−倭国王興(宋書)
F誉田山古墳−−510年頃−倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
G大仙古墳−−−520年頃−男弟王(隅田鏡)
H見瀬丸山古墳−570年頃−獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
I太子西山古墳−585年頃
J石舞台古墳−−620年頃−阿毎多利思比孤(隋書)
K天武陵(旧)−645年頃−ワカミタフリ(隋書)
L持統陵(旧)−645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳−−−被葬年−本名−書紀の中の名前【家系図】
@箸墓−−−393−旨−ミマキイリヒコ【初代】
A渋谷向山−409−?−イクメイリヒコ【@の子】
B行燈山−−438−讃−イニシキイリイコ【Aの子】
C五社神−−442−珍−ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【Bの弟】
D中ツ山−−462−済−ホムタノマワカ&尾張連草香【Bの孫】
E石津山−−477−興−カワマタナカツヒコ&凡連【Dの子】
F誉田山−−507−武・日十・余昆−昆支&ホムタワケ【Dの子の婿】
G大仙−−−531−男弟−ヲホト&オホサザキ【Dの子の婿。Fの弟】
H見瀬丸山−571−ワカタケル−アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【Fの子】
I太子西山−585−?−ヌナクラノフトタマシキ【Hの子】
J石舞台−−622−アメノタリシホコ−タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【Hの子】
K旧天武陵−645−ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【Jの子】
L旧持統陵−645−?−蘇我入鹿【Kの子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書記です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書記の編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』

とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。
Posted by むらかみからむ at 2012年04月08日 16:27
むらかみからむ様、いらっしゃいませ。

神武天皇の即位が紀元前660年であるために、古代の天皇は100歳を軽く超える長寿の方が続出しています。数代の天皇に仕えた武内宿禰に至っては、300歳を超えてしまっています。
古代の天皇の多くが架空の人物ならば、数百年の歳月を埋め合わせるために、もっと多くの架空の天皇をでっち上げてもいいでしょう。そうなると記紀に記された天皇(に相当する人物)は、みな実在したと考えることもできます。
崇神天皇にも応神天皇にも、先祖はいます。ただ、太古の日本列島に生きていた彼らが、みな天皇と呼べるほどの権力者だったとは限りません。神武天皇は実在しなくとも、カムヤマトイワレヒコに相当する数世代前の先祖は、実在したはずです。

本文にも書きましたが、大仙古墳を継体陵とするならば、今城塚古墳の被葬者は誰なのか、答えて欲しかった…

ネット検索よりも早いのは、コメントにご自身のサイトのURLを入れることです(笑)
Posted by 管理人 at 2012年04月09日 22:23
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