2009年09月06日

歴史を動かした茶会

織田信長明智光秀の謀反に倒れた本能寺の変については、歴史学者から小説家に至るまで、さまざまな推理がなされてきました。
光秀の単独犯行説では、信長に対する私怨によるもの、あるいは天下獲りの野望があったとするもの。黒幕がいたとする説では、朝廷(正親町天皇あるいは近衛前久)、足利義昭豊臣秀吉徳川家康などの名が挙がっています。



織田信長最後の茶会
小島毅 著

しかし、これまでの論者たちの視点は日本国内に留まっていると批判するのが、東洋思想が専門の小島毅氏です。
信長といえば南蛮趣味が強調されますが、実は渡来文化全般、とりわけ中華文化に関心が強く、南蛮文化も唐様(中華文化)の一種として取り入れたのだといいます。信長の旗印は永楽通宝であり、室町時代は勘合貿易をはじめとする東アジアの経済交流が盛んな時期でした。

私は本能寺の変の背景に、暦の問題があったと考えています。
当時、京都で朝廷が作成する暦と、東国で使われている暦は異なっていました。信長は朝廷に、暦を変えるよう圧力を掛けています。しかし、朝廷の年中行事を定める暦に干渉することは、天皇の大権を侵すことです。有職故実に通じた光秀が、信長の越権行為に対する義憤から暗殺を決行したのか、それとも朝廷側に黒幕がいたのかは判りませんが…
本書は、暦について詳細に論じています。つまり小島氏も背景に暦の問題があると考えているのですが、光秀の動機や共謀者の有無については答えていません。

変の前日、信長は本能寺で盛大な茶会を催しています。茶会には付喪茄子をはじめとする、信長自慢の茶器コレクションが、安土城から大量に運び込まれました。
名品とされる茶器の価値は、一国一城に値します。滝川一益は、信長から恩賞として上野国と信濃国の一部、さらには関東管領の職まで与えられましたが、希望していた茶器(珠光小茄子)ではなく、落胆したと伝えられています。
小島氏は、光秀が信長の首ではなく、茶器を狙って変を起こしたとする推理も披露しています。しかし信長は本能寺に火を放って自害し、茶器は灰燼に帰しました。光秀の天下があっけなく終わったのは、茶器の略奪という最大の目的を失くしたからとか?

…というわけで、本能寺の変の核心部分は曖昧なまま。
肩透かしを食らった結末でしたが、著者が得意とする東アジアの国際関係については、読み応えがありました。
小島氏は本書と同じ光文社新書から、信長と並んで国民的人気の高い、坂本龍馬の虚像を剥ぐ著作を準備しているようです。

(8月30日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
安土城の深い闇
陰陽師・明智光秀


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 21:23| Comment(21) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
本能寺の変ミステリーは人気が高いです。

津本陽:著『「本能寺の変」はなぜ起こったか―信長暗殺の真実』 (角川oneテーマ21新書)

『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』 (洋泉社新書y)

・・・・で、いろんな説が検証されていますね。

Posted by おおくぼ at 2009年09月19日 19:23
明智光秀の子孫を称する方も、著書を出しましたね。
明智憲三郎『本能寺の変 四二七年目の真実』プレジデント社
Posted by 管理人 at 2009年09月20日 21:02
専門家の本としては前のコメントで書いた・・・

鈴木眞哉&藤本正行の『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』(洋泉社新書)

と桐野作人の『だれが信長を殺したのか』 (PHP新書)が面白いですね。

ただ明智光秀が注目されるのは、信長暗殺に成功したからだと思います。
浅井長政は、あと一歩というところで失敗しました。
もし浅井長政が織田信長を殺すことができたら、歴史はどうなったのでしょう?

Posted by おおくぼ at 2009年09月22日 07:55
あと異説すぎて、専門家から無視されている明石散人の『二人の天魔王「信長」の真実』は素晴らしいと思います。
本能寺の変の解釈は賛成できかねますが、その他の部分は賛成したいです。
Posted by おおくぼ at 2009年09月22日 15:17
明智光秀が本能寺の変を起こさなくても、織田信長は誰かに倒されていたのかもしれませんね。

もしも浅井長政が信長を倒していたら…
当時は信長以外に、上洛して天下に号令するというヴィジョンを掲げた戦国大名はいなかったでしょうから、室町幕府がもう少し長く続いていたと思います。
多くの大名は、室町幕府の下で自分の領土が安泰なら、それで良かったのでは?
Posted by 管理人 at 2009年09月23日 17:21
秀吉と家康はどうでしょう?
Posted by おおくぼ at 2009年09月23日 22:02
秀吉と家康も、自分の勢力が強くなりすぎると、いつか信長の粛清に遭うと警戒していたかもしれません。
しかし柴田勝家のように、当初は弟・信行派だったものの、信長に帰順後は最後まで重用された家臣もいます。

こんな妄想はどうでしょう?
光秀・秀吉・家康の3人は、信長打倒でグルだったけれども、本能寺の変後に秀吉が裏切って、まず光秀を倒し、さらに家康と対立して小牧・長久手の戦いが起こった、というのは。

小島毅氏は、本能寺の変の黒幕候補を何名か挙げて検証していますが、足利義昭については問題外であるとして、取り合っていません。
Posted by 管理人 at 2009年09月23日 22:50
>「光秀・秀吉・家康の3人は、信長打倒でグルだったけれども、本能寺の変後に秀吉が裏切って、まず光秀を倒し、さらに家康と対立して小牧・長久手の戦いが起こった、というのは。」

そのネタは、今朝自分のブログに書いたばかりなんですけど・・・・。

ちなみに、その説は『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』 (洋泉社新書y)で否定されています。
Posted by おおくぼ at 2009年09月23日 23:10
3人がグルは、あくまでネタです。私も無いと思います。
秀吉はともかく、家康が事前に本能寺の変を知っていたら、危険な「神君伊賀越え」をするはずがありません。堺から船で出航すればいいだけです。

光秀=天海説は、根強い人気がありますね。

『信長は謀略で殺されたのか』で描かれた、軍略に優れた光秀像に私も共感します。線の細い光秀像は、敗者となったため後世に作られたイメージでしょう。

神道研究家・戸矢学氏の『天眼‐光秀風水綺譚』は、やはり軍略に優れた光秀を描いています。小説の体裁をとっているが、全て史実であると著者自身が語っています。
Posted by 管理人 at 2009年09月25日 22:40
江戸時代に作られた光秀像があって、主君を裏切るのは悪であるという風になるんですね。
信長の死後、秀吉は織田家や織田の家臣を倒すのですが、秀吉は江戸時代では人気者です。

本能寺の変の謀略説が流行るのは戦後です。

また信長人気も戦後です。
時代と共に、評価が変わるのは面白いです。

あと藤本正行さんの本を読むと、痛快な明石散人説が悉く否定されてしまうのが悲しいです。
Posted by おおくぼ at 2009年09月26日 02:13
小島毅氏は、織田信長とともに戦後になって人気が出た歴史上の人物として、坂本龍馬を挙げています。
歴史上の人物の人気ランキングで1、2位を争う二人ですが、ともに司馬遼太郎の小説の影響であると切り捨てています。

私は明智光秀、蘇我入鹿、田沼意次といった、世間一般での人気や教科書的な評価のあまり高くない人物に、好意的な関心を抱いています。
『信長は謀略で殺されたのか』には、素人が想像する楽しみを奪ってしまう寂しさがありますが、光秀怨恨説の完全否定は痛快です。
Posted by 管理人 at 2009年09月28日 00:30
経済学的には、田沼意次の方が松平忠信より優れていると思います。
実際に松平忠信の経済政策は失敗に終わりました。



光秀は優れた武将なので、計画が杜撰さが、計画をしてなかった証拠なのですね。
怨恨説は、光秀の心理を推理した江戸期の作り話ですね。
でも戦国時代では隙を作る方が悪いのです。
また信長は、実力主義で大抜擢はするけど、人の心理を読むのが下手だったと思います。
そこが家康との違いでしょう。



日本古代史は、謎でいっぱいです。

蘇我氏と物部氏の対立の理由とは?
大化の改新とは?
壬申の乱とか?
広開土王碑とは?
邪馬台国の場所が不明な理由は?
倭王の「姓は阿毎、字は多利思比孤」とは何者か?

『日本書記』は、どこまで事実なのか?
『古事記』で何を表現したのかったか?

Posted by おおくぼ at 2009年09月28日 01:02
今風に言えば、経済成長戦略を掲げたのが田沼意次、緊縮財政でデフレスパイラルを起こしたのが松平定信ですね。寛政の改革は、改革どころか失政です。
松平定信を名君、田沼意次を悪人だと教える教科書で学んでいては、いつまでたっても日本人は資本主義を理解できないでしょう。

明智光秀と同じく、不当に低く評価されている戦国武将は、今川義元でしょう。
貴族趣味で、軍事を疎かにしたと思われていますが、実際は領国経営に腕を振るい、強力な軍団を組織した名将だったようです。桶狭間の敗戦だけで、文弱なイメージが流布してしまっています。
しかし、本能寺で討たれた織田信長を、暗愚だったと言わないのはなぜでしょう?

古代史は謎が多すぎて、ワカリマセン(苦笑)
Posted by 管理人 at 2009年09月29日 00:21
最近、冲方丁の『天地明察』の感想を自分をブログで連載しています。
渋川春海が主人公の小説ですが、もし織田信長が改暦をしていれば・・・。

Posted by おおくぼ at 2011年09月08日 13:31
信長の改暦には、日本国憲法を破棄して自主憲法を制定するほどのインパクトがあったでしょうね。
Posted by 管理人 at 2011年09月09日 21:16
織田信長とイエズス会の関係は、いろんな人が想像を逞しく推理していますが、江戸時代は鎖国にも関わらず、西洋文化がいろいろ入って来ているのが面白いです。
徳川家康も、西洋文化が好きだったらしいし。



>桶狭間の敗戦だけで、文弱なイメージが流布してしまっています。

桶狭間は、運が良かったと思うのです。
信長の直轄軍が強かったということもありますが、玉砕覚悟で突撃したら勝ってしまったわけですから。
明石散人さんは、信長よりも明智光秀を高く評価してましたね。
Posted by おおくぼ at 2011年09月11日 23:47
明石散人さんの戦国武将ランキングでは、徳川家康、豊臣秀吉に次ぐ第3位が明智光秀ですね。第4位・5位が武田信玄と上杉謙信、信長は第6位です。
もちろん「無類の上」は足利義教ですが。

個人戦だったら、室町幕府13代将軍・足利義輝が最強かもしれません。
Posted by 管理人 at 2011年09月12日 14:54
江戸時代は、織田信長の評価が低かったという話ですね。
明智光秀はもっと高くても良かったけど、江戸時代は幕府が朱子学を重んじて、主君を裏切る明智光秀を高く評価する訳にはいかなかったという事情ですね。

明石散人さんは、足利義輝と織田信長も比較していますね。
もし私が織田信長についての本を書くことがあるとすれば、足利義満と織田信長を比較したいです。
Posted by おおくぼ at 2011年09月12日 21:59
おおくぼ様は、足利義満と織田信長の共通点として、どちらも「唐物好き」であることを挙げていましたね。
また、二人が「天皇・朝廷」をどのように考えていたのかも、論点になりそうですね。
足利義満は、本当に天皇になろうとしたのか?
織田信長は、実は勤王家だったのではないか?

Posted by 管理人 at 2011年09月14日 20:59
小島毅さんは『足利義満 消された日本国王』(光文社新書)で、同じテーマを書いてますね。

織田信長も足利義満も、天皇の親戚になることで天皇を支配しようとしたのでしょう。
織田信長は神道派なので、勤王家であると思います。
でも人間を崇めるタイプではありません。
利用できるものは利用しようとしたんだと思います。

織田信長は、足利義満と足利義教を模範していたと思います。
徳川家康が源頼朝を模範にしていたと同じで、先達を評価していたと思うのです。
明石散人さんは、織田信長を田舎者扱いですが、実際はそんなことはなかったと思います。
Posted by おおくぼ at 2011年09月14日 23:43
織田信長は、自分が神に等しい絶対君主となり、天皇を廃止しようとしたのか?
しかし、あらゆる既成の秩序を破壊してしまっては、かえって世の中が混乱して、天下統一がスムースに出来なくなります。
信長は徹底した合理主義者であるからこそ、天皇という権威・朝廷というシステムを、上手く利用しようと考えたことでしょう。
織田信長は反天皇・反朝廷ではなく、むしろ勤王家であるといえる。しかし、おおくぼ様がおっしゃるように、天皇を崇めたり、既存の権威を畏怖したりはしなかったでしょうね。
Posted by 管理人 at 2011年09月17日 22:28
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