2009年10月15日

ちはやふる…

お正月のかるたでおなじみ、藤原定家が選んだ小倉百人一首。
競技かるたを描いた『ちはやふる』が、第2回マンガ大賞に選ばれことで、興味をもった方もいらっしゃるでしょう。
私の小学校時代には毎年かるた大会があって、意味のわからないまま百枚すべてを覚えました。菅家が菅原道真で、鎌倉右大臣が源実朝と、歌の作者と歴史との関わりを知ってから、百人一首の世界を面白く感じるようになりました。



百人一首の歴史学
関幸彦 著

小倉百人一首には、六歌仙・三十六歌仙と呼ばれる和歌の名人が、なぜか全員そろっていません。一方で猿丸太夫のように、実在の疑わしい歌人が含まれています。
また、歌人の代表作とは呼べない和歌(駄作?)も選ばれています。定家自身の歌にしても「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」よりは、三夕の歌のひとつである「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」こそが代表作でしょう。
そのため百人一首の成立過程や、歌の配列に謎を見出す人が少なくありません。

1.天智天皇、2.持統天皇…99.後鳥羽院、100.順徳院
百人一首の特徴は、天皇で始まり天皇で終わることだと、関幸彦氏は指摘します。
定家が生きたのは、源平の争乱から承久の乱に至る、貴族から武家へと政権が移った激動の時代でした。天智・持統父子は、平安京を築いた桓武天皇の皇統の始祖にあたります。そして後鳥羽・順徳父子は、承久の乱で鎌倉幕府に敗北しました。
百人一首は、定家が過ぎ去りし平安王朝へ捧げた、挽歌だったのかもしれません。

百人一首の歌人はほとんどが宮廷官人ですが、なかでも受領(国司)クラスの中下級貴族が多くを占めます。中下級貴族にとって、和歌や漢詩の教養は人生の浮沈を左右するものでした。
平安時代には紫式部清少納言和泉式部ら女流作家が活躍しました。彼女たちもまた受領クラスの出身です。紫式部の父である藤原為時が、漢詩の才能によって越前守の地位を手に入れたというエピソードは、よく知られています。

百首の歌には、百人の歌人の物語があります。
本書では紙幅の都合上、残念ながらすべて歌人の人生が語られているわけではありませんが、わずか三十一文字から当時の社会情勢が浮かび上がってきます。

(10月12日読了)


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 文学・小説交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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