2009年11月29日

卑弥呼は箸墓に眠るのか?

邪馬台国の女王・卑弥呼の宮殿か?
11月10日、奈良県桜井市の纒向遺跡で3世紀前半の大型建物跡が発見されたと、同市教育委員会が発表しました。
4つの建物が東西方向に一列に並び、計画的に配置されていたことが伺えます。
纏向遺跡第166次調査現地説明会資料(PDF)
(桜井市立埋蔵文化財センター)

このたびの発見で、邪馬台国畿内説が俄然有利になったと報じられました。
一方で、巻向遺跡の年代が、意図的に古く見積もられているとの反論も出されています。



卑弥呼と台与
仁藤敦史 著

歴史のワンテーマをコンパクトにまとめた、山川出版社の日本史リブレット。
新たに、人物にスポットを当てた「日本史リブレット人」が創刊されました。
第一回配本(のうちの一冊)が、今回交遊した『卑弥呼と台与』です。

魏志倭人伝をストレートに読むと、邪馬台国は九州のはるか南方の海上になってしまいます。
一般に邪馬台国論争は、方位を重視すれば九州説、距離を重視すれば畿内説が有利だとされていました。
魏志倭人伝に記された邪馬台国の習俗は、南方的です。かつて中国の王朝は、日本列島が中国大陸の南東(台湾・沖縄あたり)に位置すると誤解していたようです。邪馬台国に対する魏の丁重な外交方針は、対立する呉の背後に倭国があるとの認識から生まれたのでしょう。

本書は邪馬台国の所在地論争には深入りしませんが、倭人伝の文献的解釈は方位・距離とも畿内と考えて矛盾はなく、現在は畿内説が優勢であるとの立場から書かれています。

卑弥呼の死後、男王が立てられましたが、倭国は大いに乱れ、卑弥呼の一族から台与が女王に擁立されて、再び安寧を取り戻しました。
つまり台与の時代になるまで、倭国には安定した王位継承システムが確立されていなかったことになります。
このことから仁藤敦史氏は、卑弥呼の時代には前方後円墳による祭祀形態は成立していなかったとします。断定的な書き方はしていませんが、仁藤氏は箸墓古墳を、卑弥呼ではなく台与の墓だと考えているようです。

(11月23日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
邪馬台国へ至る道
太陽の道
鏡よ鏡…
邪馬台国は、ここにある。


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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