2010年09月19日

織田信長ゆかりの劔神社へ

戦国大名・織田氏発祥の地である、福井県丹生郡越前町(旧織田町)の劔神社へ行って参りました。
越前国二ノ宮である劔神社は、織田信長が氏神として崇敬したことで知られています。国宝の梵鐘には「劔御子寺鐘 神護景雲四年(770年)九月十一日」の銘があり、奈良時代には既に神宮寺が存在したことになります。
記録に残る最初の神宮寺は霊亀元年(715年)、藤原武智麻呂の夢告により、越前国一ノ宮の氣比神宮に建立されました。劔御子寺も、氣比神宮寺に遜色ない歴史をもっているようです。

tsurugi2.JPG
劔神社

越前町織田文化歴史館では「神仏習合の源流をさぐる‐氣比神宮と劔神社‐」と題した特別展示を開催中(平成22年9月4日〜10月11日)。9月19日には「劔御子寺は日本最古の神宮寺か」と題して、青木豊昭氏(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館元館長)による記念講演会がありました。
織田は越前国敦賀郡伊部郷に属し、地名の由来は織り物の盛んなところ(田は水田ではなく、処の意)だそうです。この地の豪族である伊部氏の祖は、百済からの渡来人・乃理使主(『新撰姓氏録』)で、秦氏の一族だといいます。また、越前国には牛を殺して漢神(韓神)を祭ることを禁止する命令が出されており、奇しくも前回の交遊(『渡来の原郷』)にまつわる話が聴けました。
劔神社の祭神は氣比神宮と共通項が多く、氣比神宮が大中臣氏を神官にすると、対する劔神社は忌部氏を招き、両社は競うように社格を上げていきました。

青木さんのお話で、大変印象深かったことをひとつ。
各地の寺社の御本尊や御神体は、人目に触れることを嫌い、手付かずのまま放って置かれていることが多いそうです。そのため、落ち葉やネズミの糞に埋もれているのだとか。これでは宝物が盗難に遭っても分かりませんし、運良く盗品が見つかっても写真すら撮られたことがないのでは鑑定のしようがありません。
昔からの禁忌を守ることが、かえって文化財の危機を招いているのです。

【関連サイト】
越前二の宮 劔神社


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 22:01| Comment(8) | TrackBack(0) | 書を捨てて街へ出る会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
織田信長は無神論者のように思われがちですが、神社を大事にしています。
有名な桶狭間の戦いでも、まず戦勝祈願をしてから、戦っています。
Posted by おおくぼ at 2010年09月20日 10:16
織田信長は、氏神である剣神社を篤く敬い、所領を安堵しました。
信長が否定したのは神仏ではなく、宗教的な既得権益集団と考えるべきですね。
「神をも恐れぬ破壊者」という信長のイメージは、フィクションによって誇張されたものでしょう。
Posted by 管理人 at 2010年09月21日 00:05
否定するというより、「歯向かうなら殺すぞ」ということですね。
一向宗とは和解してますけど。
武装した宗教集団は恐いです。
江戸時代でも、島原の乱が徹底して弾圧されたのも同じ理由ですね。

信長=神を信じないというフィクションは、イエズス会の人が作ったと思うのです。
ただ信長は人間を神と崇めることはなくて、天皇崇拝は無かったですね。
足利義満と似ている気がします。

イエズス会と言えば、信長は安土城を屏風に描かせて、バチカンに贈ったそうですが、行方不明です。
残念。
Posted by おおくぼ at 2010年09月21日 01:06
ドイツ人のカールさんがおっしゃるように、いつの時代も宗教は人々を熱狂させる麻薬です。
古代の日本では漢神の祭りの他にも、虫を祭る常世神の信仰が禁止されました。

バチカンに渡ったとされる安土城屏風の行方は、私も気になります。
信長の人物像についてはルイス・フロイスの記述に依るのに、明智光秀についてもそうしないのはおかしいと、藤本正行・鈴木真哉両氏が批判していますね。
フロイスの描く光秀は、裏切りや密会を好む武断派の戦略家であって、怨恨で謀反を起こす軟弱な文化人ではありません。
Posted by 管理人 at 2010年09月22日 23:24
明智光秀は面白いと思うのです。
江戸時代の朱子学的な視点で歪められてしまったと思うのですが、織田信長を語る上でも正しい光秀像が求められると思います。

信長は古くからの家臣よりも、光秀や秀吉を重宝しました。
ここが家康と違うところです。
特に秀吉よりも光秀の方が、信長からの評価が高かったということはもっと知られていいと思うのです。
秀吉伝説は嘘が多いのですが、それは本人がホラ吹きだったので仕方ないと思うのですが、信長や光秀は丁寧に調べると、正しい像がわかると思うのです。
Posted by おおくぼ at 2010年09月23日 00:59
同感です。
正しい明智光秀像を明らかにすることで、正しい織田信長像を知ることができると思います。
戦国時代は下克上が当たり前であり、光秀以上の悪人はいくらでもいるでしょう。松永久秀とか。
Posted by 管理人 at 2010年09月23日 17:41
さいごの御神体の話で思ったことを…

劔神社が織田家の氏神。
東大阪の石切剣箭神社はニギハヤヒが祖神の物部氏ゆかり。
「ツルギ」つながり。
なぜ石切剣箭神社が出てきたかと言うと、
ニギハヤヒが授かったという「十種の神宝」
もともと奈良の石上神社に十種の神宝は祀られて
いましたが、
織田信長の焼き打ちで行方不明になりました。
大阪平野に盾原神社という小さな神社があります、
「盾タテ」
ここの社伝によると、後に秀吉によって見出された
十種の神宝は、大阪の生魂の杜に祀られていたが、
幕末の騒乱で再び行方不明になり、近代になって
大阪の古道具屋で発見された十種の神宝が祀られて
いるそうです。
石上神社と返還を巡って係争中だとかなんとか…

もののふ(武者)=物部氏ゆかりの十種の神宝
武力による天下布武をうたった織田信長
「劔」と「盾」
ほぼこじつけですが、面白い関連性だなと。
Posted by 幸玉 at 2010年10月02日 01:39
面白いお話をありがとうございます。
石上神宮といえば国宝の七支刀が有名ですが、十種の神宝も実在しているかもしれないのですね。古道具屋から再発見されたとは何やら怪しげな話ですが、果たして本物なのでしょうか。
石上神宮には御神体として布都御魂の剣もあるそうで、歴史の深遠さに畏敬の念を覚えます。
Posted by 管理人 at 2010年10月03日 23:18
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