しかし近年、この肖像画のモデルは別人であるとの説が出されています。

伝源頼朝像、伝平重盛像、伝藤原光能像は神護寺三像と呼ばれ、いずれも国宝に指定された肖像画の名品です。作者は鎌倉時代初期の貴族・藤原隆信とされています。
しかし新説は、画風や画材から神護寺三像を南北朝時代の作であるとし、頼朝像は足利直義、重盛象は足利尊氏、光能像は足利義詮を描いたものであるとします。
ちなみに足利尊氏像として知られた一束切り(髻をひと握り切った髪)の騎馬武者像は、近年では尊氏の執事・高師直だとする説が有力です。
神護寺の頼朝像が足利直義であるとの新説を唱えたのは、米倉迪夫です。
米倉説を支持する黒田日出男は、山梨県甲府市の甲斐善光寺に伝わる彫像こそが、真の源頼朝像であるとします。胎内銘から、頼朝の没後まもなく造られた彫像であり、生前の面影を最も強く残した作品だといいます。
かなり以前ですが、この説を紹介したテレビ番組(NHKの日曜美術館だったかな?)を見ました。神護寺の肖像画と甲斐善光寺の彫像は印象が大きく異なりますが、私は面長で鼻筋の通った顔立ちが共通していると思いました。
黒田日出男著『源頼朝の真像』は、肝心の神護寺肖像画を頼朝ではないとする根拠が、完全にスルーされています。米倉迪夫の著書を読めばいいだけの話ですが、そこを端折ってしまうのは如何なものでしょうか。源頼朝・北条政子夫妻の善光寺に対する信仰の篤さについては、非常に興味深く読みました。
次作では、神護寺三像が足利氏であることを論証するそうです。
(6月12日読了)★★★
【不純文学交遊録・過去記事】
貴族将軍の苦悩
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興味あるのは頼朝よりも北条政子なんですが・・・。
北条時政・政子親子は興味あります。
頼朝の死因は本当に落馬が原因だったのか?気になります。
頼朝の家系は暗殺で死ぬ人が多いですが、北条家は意外に少なかったりします。
私は北条時政・政子父子よりは、北条政子・義時姉弟という組み合わせの方が気になります。
義時は滋味な感じがします。
承久の乱でも積極的な役割を果たしていません。
頼朝の政策が全て彼自身のアイデアならば、大天才だと思います。しかし彼が神輿に過ぎなかったとしたら、頼朝ファンとしては非常に残念です。
夫、父、息子達、弟、孫を影で操っていたと仮定すればいいわけです。
弟の義時と父の時政以外はみんな死にます。
頼朝が暗殺で死んだとすれば、非業の死ばかりです。
時政は政子と敵対して破れて幽閉されます。
頼朝は天才というよりは幸運児だったんだと思います。
義時は北条家の嫡男ではなく、分家して江間四郎と呼ばれていたようです。
北条義時は姉・政子の背後で暗躍する陰謀家だったのか。
おおくぼ様が評するように「なにも専務(笑)」みたいな役回りの人だったのか。
北条義時も、時流に乗った幸運児だったのかもしれません。
平清盛は、武士のリーダーとして、日本を最初に支配した人だと思うのです。
征夷大将軍でもないし、幕府もひらいていません。
でも織田信長が目指してたのは、平清盛のような武士のリーダーだった気がします。
私が清盛を評価するようになったのは、学研まんが人物日本史の『平清盛』(監修:樋口清之/まんが:田中正雄)を読んでからです。主人公なので贔屓目に描かれていると思いますが、この本でも清盛を武家政治の先覚者としていました。貿易振興も清盛の功績でしょう。
日本には織田信長や坂本龍馬が好きな人が多いですが、彼らがやったことは楽市・楽座や自由な貿易です。信長ファン・龍馬ファンは、断固TPPに賛成すべきだと思います(笑)
でも源頼朝は偉大な政治家だったと思うのです。
彼には「カリスマ性 勇気 幸運」の三つがあったからです。
足利尊氏もそうですが。
ただ足利尊氏は躁鬱が激しかったみたいですね。
TPPに関しては、既得権にしがみつく人達のデマを破壊すべきでしょう。
まず食料自給率の神話を破壊しなければいけません。
歴史を見れば、食料自給率100%の江戸時代は食料危機が多かったわけです。
日本は規制を撤廃すれば観光立国として、ギリシャよりも栄えるかもしれません。
日本には失われた「支那の文化」がたくさん残っています。
日本が「支那の文化」を独自に発展させたことを支那人が気づけば驚くはずです。
尊氏は、弟の直義と仲違いしたり、そのために宿敵・南朝と和睦したりと、情緒不安定な感じがします。実際の尊氏は、とてもいい人だったそうですが。
私もTPPネタの記事を書きました。