2010年06月17日

サンチンセイコウブ

邪馬台国の女王・卑弥呼と台与が活躍したのは、3世紀。その後、日本列島の出来事は支那の歴史書に記されず、空白の4世紀と呼ばれています。
邪馬台国はその後どうなったのか、大和朝廷はどのようにして生まれたのか、いまだ謎に包まれています。

ふたたび日本が支那の歴史書に姿を現すのが、5世紀(南北朝時代)の「倭の五王」です。倭の五王とは、南朝の宋へ使者を派遣した讃・珍・済・興・武の5代の王を指します。



倭の五王の時代は、応神天皇から雄略天皇の治世に相当すると考えられていますが、日本の歴代天皇の誰にあたるのか、結論はまだ出ていません。
讃と珍は兄弟、済の子が興で、興の弟が武であることはわかっています。しかし讃・珍と済の関係がはっきりしないのです。
また、第15代応神天皇と第16代仁徳天皇の事績には類似したエピソードが多く、一人の天皇の業績を二代に分けたとする説もあります。世界最大の墓の主は、一体誰なのでしょうか。

ただし最後の武は、ワカタケルこと第21代雄略天皇であることが有力視されています。ワカタケルの名は稲荷山古墳(埼玉県)、江田船山古墳(熊本県)から出土した鉄剣に刻まれており、大和朝廷の覇権が関東から九州にまで及んでいたことをうかがわせます。
(ワカタケルを第29代欽明天皇だとする説もあります)

本書は『日本史リブレット人』の一冊。倭と宋の外交にとどまらず、当時の朝鮮半島諸国との関係、大和朝廷の支配体制など、日本の国家成立のプロセスをコンパクトにまとめています。
特に雄略天皇の治世は、大和朝廷の体制が確立したエポックメイキングな時代として詳細に論じられています。1500年以上前の人物の事績が、歴史学からも考古学からも明らかになるとは、感慨深いものがありますね。

(6月7日読了)★★★★

【不純文學交遊録・過去記事】
邪馬台国はどこへ行った?
卑弥呼は箸墓に眠るのか?


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2010年06月14日

OINKな歴史

日本は古くから朝鮮半島との交流があり、稲作や仏教などの先進的な文物は朝鮮半島から取り入れたと、私たちはなんとなく信じています。
また、日本の皇室のルーツは朝鮮半島であるとか、朝鮮半島から侵入した騎馬民族が日本列島を統一したと述べる論者もいます。



しかしながら、現存する朝鮮半島最古の歴史書であり、高麗王朝の正史である『三国史記』には、新羅の礎は倭人が築いたと記されているのです(新羅の第4代王・脱解は、倭人だったといいます)。
『三国史記』の三国とは、新羅・高句麗・百済のことであり、高麗は新羅の正統な継承国であるとの立場から書かれています。
逆に皇室のルーツが朝鮮半島ならば、倭国は韓人が建国したと誇らしげに書いてあっても良さそうなものです。

また『隋書』によれば、倭国は産物が豊かで、新羅も百済も文化大国として倭国に敬意を表していたといいます。
よく考えてみれば、イネは南方系の植物ですから、緯度の高い朝鮮半島から入って来るのは不自然ですね。「日本のルーツは、なんでもかんでも朝鮮半島経由」という固定観念は捨てましょう。

著者・室谷克実は、時事通信社でソウル特派員、宮崎・宇都宮各支局長等を歴任しました。
大韓民国でしか起こりえないことをOINK(Only in Korea)と呼ぶそうですが、著者はOINKな歴史観の数々を鋭く指摘しています。
ただ、倭国とは大和朝廷ではなく九州王朝のことであるとする古田武彦の説に依拠する本書も、特定の立場に偏向していると言えなくはありませんが…

(5月31日読了)★★★★

【不純文學交遊録・過去記事】
偽史倭人伝
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2010年05月05日

天皇の条件

ゴールデンウィークには昭和の日(4月29日)、憲法記念日(5月3日)と、天皇について考える機会となる日があります。
今上陛下は、宮中祭祀を大切になされています。宮中祭祀には、天皇が天皇であるためのエッセンスが秘められているはずです。



天皇の宮中祭祀と日本人

皇位継承をめぐって、女性天皇を認めるべきか、さらには女系天皇をも認めるべきかとの議論があります。
山折哲雄は、象徴天皇制を支えているのは「血縁原理」と「カリスマ原理」であるとします。この二大原理が守られているならば、天皇は女性でも女系でも構わないというのが彼の意見です。

天皇の血の濃度は代を重ねるごとに薄まっていきますが、天皇霊の強度は減ずることがありません。
皇位継承において最も重要なのは天皇霊の継承であり、天皇霊を継承するための最高の秘儀が大嘗祭なのです。
旧皇室典範には、皇位継承の際は即位の礼と大嘗祭を行うことが明記されていました。ところが戦後に改められた典範からは、大嘗祭の記述が削除されています。このことを山折は非常に問題視しています。

先代の霊の継承を重視する王権として、本書は日本の皇室とチベットのダライ・ラマの類似性を指摘しています。
ただし大きな違いもあって、日本では遺体をケガレたものとして王城の外に葬るのに対し、チベットでは代々の法王の遺体はポタラ宮殿に祀られています。

天皇や神道という言葉に、戦前の国家神道を連想して拒絶反応を示す方もいらっしゃるかもしれません。しかし軍国主義と結びついた国家神道は、いわば神道の一神教化であり、多神教である本来の神道とは相容れないものでした。
巻末で「縄文以来の鎮守の森が、嘆いている」と書いていますが、21世紀の天皇と神道の在り方について、もう少し突っ込んだ提言があると面白かったのですが…

(5月4日読了)★★★★

【不純文學交遊録・過去記事】
平安朝をプロデュース
おやめになったらどうするの?
ノブレス・オブリージュ
知られざる法典
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2010年04月18日

邪馬台国はどこへ行った?

邪馬台国はどこにあったのか、未だ論争は尽きませんが、邪馬台国がその後どうなったのかも気になります。
邪馬台国が発展して、そのまま大和朝廷となったのか?
それとも邪馬台国は、大和朝廷に併合されたのか?



邪馬台国の滅亡

邪馬台国の「その後」をテーマに掲げる一冊。
それは大和朝廷の成立過程を探ることでもあります。

まず邪馬台国とは、三世紀前半に魏王朝と交渉のあった国です。邪馬台国の位置は、当時の日本列島でどこが先進地域だったかとは直接関係がありません。
倭人伝には、帯方郡から邪馬台国までの距離と、所要日数が記されています。「水行十日・陸行一月」という日程は別として、里数から畿内には到底及ばず、方角・地理からも邪馬台国は九州北部にあったとするのが本書の見解です。

邪馬台国を解き明かす手掛かりとして、本書が重視するのは『古事記』と『日本書紀』です。
もちろん、記紀の記述が全て真実だとはいえませんが、なんらかの史実の反映であると考えられます。崇神天皇による四道将軍の派遣は、一地域王権に過ぎなかった大和朝廷が勢力を拡張するプロセスです。
記紀によれば、景行天皇と仲哀天皇の時代に九州へ遠征しています。本書は、これを大和朝廷による邪馬台国征服戦争だとするのです。

著者の若井敏明は、奈良県生まれ。邪馬台国論争にありがちな地元贔屓が全くないのは好感がもてます。
記紀重視とはいっても皇国史観に陥ることなく、アメノヒボコ伝承を踏まえて、渡来人が日本列島に地域王権を樹立していたことにも言及しています。ただ、大和朝廷が「全国を統一した」という表現には同意できません。
私は「三世紀の最も大きな遺跡が邪馬台国だとは限らない」と考えているので、本書のような九州説の反撃に注目しています。

(4月13日読了)★★★★★

【不純文學交遊録・過去記事】
描かれた邪馬台国
卑弥呼は箸墓に眠るのか?
邪馬台国へ至る道
太陽の道
鏡よ鏡…
邪馬台国は、ここにある。
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2010年04月04日

海を渡る天皇

2月18日、京都府向日市の長岡京跡で、桓武天皇が所有していたとみられる鎧の部品(小札)が発掘されました。
桓武天皇は、784年に平城京から長岡京へ遷都、さらに794年には平安京へ遷都しています。



桓武天皇の謎

桓武天皇を「海を渡る国際人」として描く、小林惠子。聖徳太子は突厥の達頭可汗(タルドゥ)であると主張する論者であります。
小林説によると、なんと聖徳太子は日本人でなかったのです。隋に敗れて日本へ渡った達頭は「日出ずる処の天子」となって、ふたたび隋に対抗したのだと。
では、桓武天皇は一体何人なのか…

奈良時代は天武天皇の子孫が皇位に就きましたが、桓武天皇の父である光仁天皇は、天智天皇の孫でした。ところが小林説では、光仁・桓武父子も天武系だというのです。
さらに、天武天皇は高句麗の淵蓋蘇文であるとか、聖武天皇は二人いたとか、超異説のオンパレード。小林惠子を知らない人が本書を読んだら、全くついていけないでしょう。
日本の歴史が東アジア情勢に多大な影響を受けていたことは事実でしょうが、本書の見解に対して以下のような疑問(ツッコミどころ)があります。

・隋に敗れて日本に亡命してきた突厥の達頭可汗を、なぜ大和朝廷は王に頂いたのでしょうか。達頭を捕らえて隋に差し出した方が、外交カードとして有効だと思います。大和朝廷は、よほど人材不足だったのでしょうか。

・天武系の人物が日本の天皇になることを承認しなかった唐王朝が、なぜ同じ人物が新羅王になることは黙認したのでしょうか。唐と地続きの新羅で反唐派の人物が王になる方が、日本の天皇になるよりも都合が悪いのでは。

・そもそも同じ人物が海を越えて、日本の天皇になったり新羅の王になったりすることが、簡単にできたのでしょうか。当然、抵抗勢力がいるはずですが。

(3月26日読了)★★★★

【不純文學交遊録・過去記事】
消えた(消された?)神様
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2010年03月21日

独裁者の本棚

読書は、人生に少なからぬ影響を与えます。
ドイツ第三帝国を率い、悪名高きホロコーストを引き起こしたアドルフ・ヒトラー。彼がどんな本を読んで、その思想を形成したのか。大いに興味が湧くところです。



ヒトラーの秘密図書館

ヒトラーは、学歴の低さに劣等感を抱いていました。政治家として恥ずかしくない知識を身に付けるべく、毎晩読書に励んでいたそうです。ヒトラーはまた、並外れた記憶力の持ち主だったと言います。
アメリカ議会図書館をはじめ、世界各地に眠るヒトラーの蔵書およそ1300冊。政治思想・反ユダヤ主義・軍事関連・オカルト科学など、彼の読書傾向は多岐に渡ります。そのなかには自動車王ヘンリー・フォードが書いた反ユダヤ主義本や、シルクロード探検家のスヴェン・ヘディンによるドイツ擁護論も含まれています。

ヒトラーを政治の世界へ導いたのは、国家社会主義運動の指導者で脚本家のディートリヒ・エッカートでした。ヒトラーに、反ユダヤ思想を刷り込んだ人物です。
エッカートは、ヒトラーの神秘性を高めるために写真撮影を禁止しました。また、政治家が女性の人気を得るには、独身でなければらないと考えていました。ヒトラーは生涯独身を貫き、エバ・ブラウンと正式に結婚したのは、二人が自殺する前日でした。

本書は単にヒトラーの蔵書を紹介するだけでなく、青年期から死に至るまでの、彼にまつわるエピソードを掘り下げています。
独裁者ヒトラーの素顔と、彼を生んだ当時の時代背景を読み解く一冊です。

(3月9日読了)★★★★★

【不純文學交遊録・過去記事】
アーリア人って、誰のこと?


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2010年02月22日

聖徳太子は怨霊か

聖徳太子は怨霊となり、法隆寺に封じ込められた…哲学者・梅原猛の『隠された十字架』は一大センセーションを巻き起こしました。
遣隋使、冠位十二階、十七条憲法、法隆寺の建立など数々の偉業を成した聖徳太子。にもかかわらず、彼は無念の死を遂げたのでしょうか。

聖徳太子怨霊説に対し、御霊信仰が成立したのは平安時代以降であるとの批判があります。
朝廷が国家政策として怨霊の鎮魂を行った記録は、平安初期の御霊会が最初だとされます。日本三大怨霊と呼ばれる菅原道真・平将門・崇徳天皇は、いずれも平安時代の人物です。
はたして怨霊は、いつ生まれたのでしょうか。



怨霊の古代史

戸矢学による怨霊の定義は、明快です。
・大義にもとづく死は「英霊」となる
・冤罪による大義なき死は「怨霊」となる

神社や寺に祀られるのは、英霊か怨霊のどちらかです。
大多数の死は、英霊にも怨霊にもなりません。
また殺害者の側に大義がある場合、死者は単なる罪人であって、祀られることはありません。

本書は飛鳥時代にまで遡って、怨霊の起源を検証しています。
「日本人の心のふるさと」ともいえる飛鳥は、実は血塗られた都でした。
三輪君逆、穴穂部皇子、物部守屋、崇峻天皇…彼らは激しい権力闘争のなかで命を奪われた人たちです。
では、聖徳太子は怨霊なのか?法隆寺は一体誰を鎮魂しているのか?
その答えは、本書を手に取って確かめてください。

飛鳥時代、最も非業の死を遂げた人物といえば、乙巳の変で暗殺された蘇我入鹿です。
日本書紀は決してフィクションではありませんが、時の権力者・藤原不比等によって、政権に都合の悪い記述は削除されています。しかし、同時代の人々にとって周知だった事実までを消し去ることはできません。
蘇我入鹿は怨霊となったのでしょうか。彼の死の真相に迫ることで、隠されていた歴史が見えてきます。

そもそも怨霊神を祀ることが、神社信仰のはじまりだったのかもしれません。
最古の神社である出雲大社はオオクニヌシの鎮魂の社であり、大神神社に祀られるオオモノヌシもまた祟り神でした。
タイトルがありきたりで全く期待せずに読んだのですが、神職でもある著者らしく神社研究に基づいた論考で、古代史に新たな視点を与えてくれます。

(2月16日読了)★★★★

【不純文學交遊録・過去記事】
日本史を創った男
ふたつの法隆寺
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2010年02月15日

描かれた邪馬台国

なんと(710)大きな平城京…今年は平城京遷都1300年。
奈良に都があったのは短い期間ですが、数々の政変が繰り返され、行基や道鏡など異能の人物を輩出しました。
学者にして政治家の吉備真備も、その一人。遣唐使の留学生となり、帰朝後は遣唐副使、右大臣などの要職に就きました。



吉備大臣入唐絵巻

平安時代末期(後白河院政)に制作された『吉備大臣入唐絵巻』は、吉備真備をモデルとした説話を描いています。
唐に渡った吉備大臣は高楼に幽閉されますが、鬼になった阿倍仲麻呂に難を救われるというストーリーです。
ただし史実では、吉備真備の入唐時に阿倍仲麻呂は存命でした。
歴史上の人物は吉備真備、説話の登場人物は吉備大臣と表記します。


吉備大臣が幽閉された高楼は、弥生時代に造られた高床式の高層建築物であると、著者の倉西裕子は主張します。吉野ヶ里遺跡の高床式建物や、かつて高さが48メートルもあったとされる出雲大社の復元模型のイメージです。
そして弥生時代に高層神殿に住んでいた(幽閉されていた)とするのが、邪馬台国の女王・卑弥呼です。
吉備真備と卑弥呼。あまりにも飛躍しすぎではないかと思うのですが、本書は弥生時代と奈良時代の東アジア情勢が、極めて似通った状況にあったと論じます。

吉備真備が生きた時代、唐は玄宗の治世で最盛期を迎えていました。海を越えて、日本まで遠征してきそうな勢いです。
吉備大臣が唐の皇帝から受けた試練は、日本と唐の緊迫した外交関係を暗示しているかのようです。出国を禁じられていた鑑真を渡航させたことも、日唐関係を悪化させたことでしょう。
吉備大臣入唐絵巻には、邪馬台国時代にまで遡る、日本の外交史が隠されているのだと言います。

倉西裕子は、中華王朝の覇権主義に屈することなく日本の独立を護ってきた先人たちを、高く評価しています。
彼女の愛国の志には大いに共感しますが、平清盛の日宋貿易を全否定するのは鎖国主義ではないのか、白村江の敗戦で日本を亡国寸前に追い込んだ天智天皇を絶賛するのは如何なものか、疑問を抱いたことも付け加えておきます。

(2月13日読了)★★★★

【不純文學交遊録・過去記事】
日本史法廷、判決は…
秘仏封印
女帝・かぐや姫
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2010年01月31日

ヒトの心のモノがたり

ヒトはなぜ美を求め、戦争を起こし、巨大な古墳を築いたのか…
そんな魅惑的なテーマを掲げる一冊に出会いました。



進化考古学の大冒険

進化考古学とは聞き慣れない言葉ですが、石器・土器・建造物など、ヒトが作り出したモノ(人工物)の進化を通して、ヒトの心の歴史に迫る試みです。

ヒトには強力な牙や爪、速く走れる脚はありません。しかし大きな脳と、道具を作る器用な手、そして長距離を移動できる脚があります。本書は、ヒトの祖先は肉食獣が食べ残した動物の骨を主食にしていたとするボーン・ハンティング説をもとに、ヒトの身体の基本設計を解き明かしています。
石器や土器の使用、農耕の開始、民族と国家の起源など、モノの進化が語る人類の歴史を俯瞰しながら、それぞれの時代における日本列島での事例を紹介するのが、本書のスタイルです。

最も興味深かったのは、巨大古墳の衰退と文字社会の発展が、極めて密接にリンクしているとの指摘です。
民族のアイデンティティを記した歴史書が書かれ、仏教・キリスト教・イスラム教などの世界宗教が普及すると、社会や文化をまとめる仕組みが、イメージ表象から文字による命題表象系に依存するようになります。そうなるとピラミッドや前方後円墳のような、民族・地域色の濃い法外な規模のモニュメントは衰退します。

宇宙の起源、生命の進化、人間の本性といった大風呂敷なテーマが、私は大好きです。
本書の展開する説が、現在の歴史学や考古学で主流なのかどうかは分かりませんが(やたらと「史的唯物論」を繰り出すのも気になる…)、なるほどと思わせる指摘で溢れています。

(1月30日読了)★★★★★
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月04日

壬申の乱は謎だらけ

672年に起きた壬申の乱は、日本古代史最大の内乱です。
吉野に隠棲していた大海人皇子が、近江朝廷の大友皇子(明治3年に弘文天皇と諡号)を倒し、天武天皇として即位しました。大友皇子は、天武天皇の兄である天智天皇の子。叔父と甥で皇位を争ったわけです。
壬申の乱の背景をめぐっては、謎が多く残されています。



壬申の乱を読み解く

いきなり「本書は、正面切って壬申の乱の歴史的意義を論じようとするものではない」と書いてあって、拍子抜け…
壬申の乱を論じるための主要な素材である日本書紀の壬申紀(天武天皇紀上巻)を、いかに読むべきかが本書の主題です。朝廷の正史である日本書紀には、当然ながら作為があります。

壬申紀で中心的な活躍をするのは、大和方面の軍を率いた大伴吹負ですが、壬申の乱の功臣に彼の名はありません。
逆に、壬申紀には全く登場しないにも関わらず、功臣とされた人物もいます。
そして、兵力を集めるのに功のあった尾張国守の少子部連さひち(金+且/鉤)は、なぜか乱後に自殺しているのです。
一方、敗れた近江朝廷側では、自殺した大友皇子に最期まで付き従った物部連麻呂が、のち石上麻呂として左大臣にまで昇進しています。
壬申紀が書かれたのは乱の約半世紀後であり、日本書紀が成立した当時の政権内部の意向が、論功行賞の記述に影響しているようです。

大海人皇子が吉野を出立するまでには、迷いがあったようです。容易に兵は集まらず、三十数名で東国を目指しました。壬申の乱が計画的であったかどうかは、論争が尽きないようです。
私には、大海人皇子が個人的に蜂起したというよりも、近江朝廷の政策に不満を抱く東国の豪族たちが、大海人皇子を担ぎ上げたのではないかという印象があります。

本書は壬申の乱の真相を解き明かすものではありませんが、歴史好きが推理するための様々な手掛かりを与えてくれる一冊であると言えましょう。

(1月3日読了)★★★★

【不純文學交遊録・過去記事】
女帝の密かな陰謀 ※壬申の乱の首謀者は持統天皇(倉本一宏)
日本史を創った男 ※天武天皇は凡庸な政治家だった(大山誠一)
消えた(消された?)神様 ※天武天皇は偉大な帝王である(戸矢学)
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