2009年12月28日

日本史を創った男

かつてはお札の代名詞であり、日本の歴史上最も知名度の高い人物の一人である、聖徳太子。大国・隋と対等の外交関係を結んだ遣隋使、十七条憲法と冠位十二階の制定、法隆寺の建立など、その業績は枚挙に暇ありません。
しかし、聖徳太子は架空の人物だったとする説があります。「聖徳太子不在説」の代表的論者である大山誠一氏の新著が出たので、交遊しました。



天孫降臨の夢
大山誠一 著

大山氏は、聖徳太子と同時代のものとされる史料には8世紀以降の語が用いられており、すべて後世の創作であると断定しています。
それでは随書倭国伝に登場する倭王アメタリシヒコ(姓は阿毎、字は多利思比孤)とは、一体誰なのでしょうか。
推古天皇は女帝であり、聖徳太子はいなかったとなると…大山氏の答えは、蘇我馬子です。
随書の成立は、隋の滅亡からわずか18年後。当事者は存命しており、直接取材することも可能です。後継王朝の唐による脚色や曲解はあるにせよ、日本書紀よりは信憑性が高いといえます。
なお大山氏は、アメタリシヒコとは大王の美称「天足りしヒコ」であると解釈しています。

本当は蘇我馬子が大王であり、馬子を消して代わりに充てられたのが、用明・崇峻・推古の実際には即位していない三代の天皇だったとするのが、大山氏の説です。
聖徳太子とされた厩戸皇子、太子の父である用明天皇、そして推古天皇の陵墓は、飛鳥から遠く離れた河内にあります。河内は蘇我氏の旧勢力地であり、マイナーな蘇我系皇族は河内に葬られました。
一方、欽明天皇、蘇我稲目・馬子といった蘇我大王家の有力者は、飛鳥の巨大古墳に葬られています(本書は、見瀬丸山古墳を蘇我稲目の墓だとしています)。

乙巳の変(大化の改新)で蘇我大王家を滅ぼした天智・天武皇統と藤原氏にとって、蘇我氏の事績を消し去ることは至上命題でした。そうして生まれたのが日本書紀であり、聖徳太子であると。
蘇我馬子が成した数々の事績は、聖徳太子こと厩戸皇子のものとなりました。さらに女帝の推古天皇を「即位」させることで、[推古天皇−聖徳太子]の治世を顕彰し、[持統天皇−草壁皇子]母子の皇統を強固にすることができます。
自らの直系に皇位を継承させたい持統天皇と、天皇の外祖父として権力を確立したい藤原不比等。両者の思惑が一致したところに、万世一系の皇統を物語る、日本書紀の天孫降臨神話が編まれたのでしょう。

本書を読んでスッキリするどころか、ますます古代史の真相が分からなくなりました…

(12月27日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
アマテラスとタカミムスヒ
女帝の密かな陰謀


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2009年12月23日

聖域か?文化財か?

本日は、天長節(天皇誕生日)でございます。
天皇陛下は12月15日、中華人民共和国の習近平副主席と会見されました。
「30日ルール」を破った会見に、天皇の政治利用ではないかとの声が上がり、天皇と憲法をめぐる小沢一郎民主党幹事長の発言も物議を醸しました。

宮台真司先生によれば、天皇の国事行為とは「天皇がしなければならない公務」ではなく「内閣が天皇にお願いしてもよい公務」です(『天皇と日本のナショナリズム』)。
そもそも外国の首脳との会見は、国事行為ではありません(憲法に国事行為として明記されているのは、外国の大使及び公使を接受すること)。小沢幹事長は日本国憲法を理解しているのでしょうか?



天皇陵論
外池昇 著

今回の会見に限らず、皇室をめぐる議論はデリケートです。
例えば、天皇陵の問題。
実は、天皇陵は古代のままの姿ではありません。江戸時代末期になされた文久の修陵によって、それまで荒れ放題だった歴代天皇の古墳の形が整えられ、拝所が設けられました。いわば天皇陵は、このとき「作られた」のです。
天皇陵とは考古学の問題ではなく、近世・近代史の問題である…こう主張するのが外池昇氏です。

陵墓参考地とは、誰が葬られているのか分からないが、天皇・皇族のものだと考えられる墓です。
実は、宮内庁書陵部には『陵墓参考地一覧』なる内部資料があり、そこにはなんと(誰だか分からないはずの)陵墓参考地の推定被葬者が記されています。
宮内庁が管理する天皇陵には、実際の被葬者は別人ではないかとの異論があるものが少なくありません。かつて宮内庁は、陵墓指定の変更を検討したようなのですが、実現には至らずにいます。

陵墓の場所がハッキリしないのは、なにも古代の天皇ばかりではありません。
南朝の天皇である第98代長慶天皇は、大正時代になるまで即位が確認されていませんでした。正式な天皇として認めた以上、陵墓が必要となります。しかし長慶天皇陵の伝承地は全国にいくつもあって、決定は難航したそうです。
本書には、天皇陵をめぐる知られざるエピソードが、豊富に収められています。ちょっとお堅い本ですが、興味をもった話題から読んでいけば楽しめるでしょう。

天皇陵は、聖域か文化財か…
世界で最も永く続く王室の歴史を物語る、天皇陵。しかし、古墳の発掘は必然的に破壊をともない、完全に元の姿に戻すことはできません。
発掘しなくても出来る調査はあります。私は「開かれた皇室」なんて求めませんが、宮内庁は天皇陵の被葬者を公開の場で再検討し、改めるべきは改めていただきたいと願います。
日本国民が、世界に誇れる皇室であり続けるために。

(12月17日読了)

【関連サイト】
天皇陵(宮内庁)
【不純文學交遊録・過去記事】
巨大古墳の主は誰?
天皇陵、発掘。
おやめになったらどうするの?
ラベル:古墳
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2009年11月29日

卑弥呼は箸墓に眠るのか?

邪馬台国の女王・卑弥呼の宮殿か?
11月10日、奈良県桜井市の纒向遺跡で3世紀前半の大型建物跡が発見されたと、同市教育委員会が発表しました。
4つの建物が東西方向に一列に並び、計画的に配置されていたことが伺えます。
纏向遺跡第166次調査現地説明会資料(PDF)
(桜井市立埋蔵文化財センター)

このたびの発見で、邪馬台国畿内説が俄然有利になったと報じられました。
一方で、巻向遺跡の年代が、意図的に古く見積もられているとの反論も出されています。



卑弥呼と台与
仁藤敦史 著

歴史のワンテーマをコンパクトにまとめた、山川出版社の日本史リブレット。
新たに、人物にスポットを当てた「日本史リブレット人」が創刊されました。
第一回配本(のうちの一冊)が、今回交遊した『卑弥呼と台与』です。

魏志倭人伝をストレートに読むと、邪馬台国は九州のはるか南方の海上になってしまいます。
一般に邪馬台国論争は、方位を重視すれば九州説、距離を重視すれば畿内説が有利だとされていました。
魏志倭人伝に記された邪馬台国の習俗は、南方的です。かつて中国の王朝は、日本列島が中国大陸の南東(台湾・沖縄あたり)に位置すると誤解していたようです。邪馬台国に対する魏の丁重な外交方針は、対立する呉の背後に倭国があるとの認識から生まれたのでしょう。

本書は邪馬台国の所在地論争には深入りしませんが、倭人伝の文献的解釈は方位・距離とも畿内と考えて矛盾はなく、現在は畿内説が優勢であるとの立場から書かれています。

卑弥呼の死後、男王が立てられましたが、倭国は大いに乱れ、卑弥呼の一族から台与が女王に擁立されて、再び安寧を取り戻しました。
つまり台与の時代になるまで、倭国には安定した王位継承システムが確立されていなかったことになります。
このことから仁藤敦史氏は、卑弥呼の時代には前方後円墳による祭祀形態は成立していなかったとします。断定的な書き方はしていませんが、仁藤氏は箸墓古墳を、卑弥呼ではなく台与の墓だと考えているようです。

(11月23日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
邪馬台国へ至る道
太陽の道
鏡よ鏡…
邪馬台国は、ここにある。
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2009年09月06日

歴史を動かした茶会

織田信長明智光秀の謀反に倒れた本能寺の変については、歴史学者から小説家に至るまで、さまざまな推理がなされてきました。
光秀の単独犯行説では、信長に対する私怨によるもの、あるいは天下獲りの野望があったとするもの。黒幕がいたとする説では、朝廷(正親町天皇あるいは近衛前久)、足利義昭豊臣秀吉徳川家康などの名が挙がっています。



織田信長最後の茶会
小島毅 著

しかし、これまでの論者たちの視点は日本国内に留まっていると批判するのが、東洋思想が専門の小島毅氏です。
信長といえば南蛮趣味が強調されますが、実は渡来文化全般、とりわけ中華文化に関心が強く、南蛮文化も唐様(中華文化)の一種として取り入れたのだといいます。信長の旗印は永楽通宝であり、室町時代は勘合貿易をはじめとする東アジアの経済交流が盛んな時期でした。

私は本能寺の変の背景に、暦の問題があったと考えています。
当時、京都で朝廷が作成する暦と、東国で使われている暦は異なっていました。信長は朝廷に、暦を変えるよう圧力を掛けています。しかし、朝廷の年中行事を定める暦に干渉することは、天皇の大権を侵すことです。有職故実に通じた光秀が、信長の越権行為に対する義憤から暗殺を決行したのか、それとも朝廷側に黒幕がいたのかは判りませんが…
本書は、暦について詳細に論じています。つまり小島氏も背景に暦の問題があると考えているのですが、光秀の動機や共謀者の有無については答えていません。

変の前日、信長は本能寺で盛大な茶会を催しています。茶会には付喪茄子をはじめとする、信長自慢の茶器コレクションが、安土城から大量に運び込まれました。
名品とされる茶器の価値は、一国一城に値します。滝川一益は、信長から恩賞として上野国と信濃国の一部、さらには関東管領の職まで与えられましたが、希望していた茶器(珠光小茄子)ではなく、落胆したと伝えられています。
小島氏は、光秀が信長の首ではなく、茶器を狙って変を起こしたとする推理も披露しています。しかし信長は本能寺に火を放って自害し、茶器は灰燼に帰しました。光秀の天下があっけなく終わったのは、茶器の略奪という最大の目的を失くしたからとか?

…というわけで、本能寺の変の核心部分は曖昧なまま。
肩透かしを食らった結末でしたが、著者が得意とする東アジアの国際関係については、読み応えがありました。
小島氏は本書と同じ光文社新書から、信長と並んで国民的人気の高い、坂本龍馬の虚像を剥ぐ著作を準備しているようです。

(8月30日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
安土城の深い闇
陰陽師・明智光秀
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2009年07月26日

安土城の深い闇

戦国武将は、小説やドラマの題材として根強い人気があります。最近では、歴史好きが集まる戦国バーや、武将に萌える戦国ギャルも話題です。
戦国武将のなかでも、とりわけ人気の高いのが、織田信長
天下統一を目前にして、本能寺の炎と消えた劇的な人生。それに加えて、大量の鉄砲で戦国最強の武田軍を破った長篠の戦、楽市楽座による商業振興策など、先見性の高さが人気の理由でしょう(長篠の戦での有名な「三段撃ち」は、史実ではないとの説が有力)。一方で、比叡山の焼き討ちや一向一揆への弾圧から、気性が激しく冷酷な人物との評もあります。



バロックの王織田信長

渡辺豊和 著

信長の過激なまでの合理性は、どこから生まれたのか。建築家・渡辺豊和氏による信長論です。
渡辺氏は、縄文時代にインスピレーションを得た建築作品で知られ、巨石構築物を研究するイワクラ(磐座)学会の会長でもあります。歴史に関する著作は多く、そのトンデモ…失礼、シャーマンぶりを遺憾なく発揮しています。

南蛮文化に強い関心を抱いた信長は、イエズス会の宣教師と交流し、キリスト教の布教を許可しています。
キリスト教は、フランシスコ・ザビエルによって日本に伝来しました。しかし、それ以前に日本にもたらされていた可能性があります。厩の前で誕生したという聖徳太子の伝説は、キリストの降誕そっくりです。唐代の中国では、ネストリウス派が景教の名で広まっており、日本に伝わっていたとしても不思議ではありません。
渡辺氏は、大和朝廷の中枢を担った蘇我氏が、秦氏らと共に北方シルクロードを通って東北地方に渡来したとの説を唱えています。秦氏はゾロアスター教を奉じており、後にネストリウス派に改宗したと主張します。渡辺氏は、織田氏のルーツを秦氏に求め、信長の革新性や残虐性がユーラシアの騎馬民族に由来すると考えているのです。

信長の築いた安土城は、史上初めて天守(天主)を持ち、各層が色分けされた、極めて斬新な建築でした。天主内部には、吹き抜けがあったと考えられています。
吹き抜けというと明るい空間を思い浮かべますが、安土城の吹き抜けは四方を部屋で囲まれており、外光の差し込まない暗黒の空間だったと思われます。こういう点に着目するのは、さすが建築家です。
安土城天主の闇に、信長の闇の部分を見るという渡辺氏。彼は本能寺の変の真相に迫っているのでしょうか…

(7月20日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
はるかなる飛鳥
ニッポンのルーツを求めて
陰陽師・明智光秀
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2009年07月12日

アーリア人って、誰のこと?

ナチス・ドイツを率いたアドルフ・ヒトラーは、金髪・碧眼の優秀なるアーリア人による世界支配を掲げ、ホロコーストを引き起こしました。
ナチス・ドイツが民族的アイデンティティを求めたアーリア人とは、実際はどのような人たちだったのでしょうか?



アーリア人

青木健 著

インド・ヨーロッパ語族は、インド・イラン系とヨーロッパ系に分けられます。
このうちインド・イラン系の人々をアーリア人と呼び、実のところヨーロッパ系白人はアーリア人ではないのです。
中国の歴代王朝やギリシア・ローマ文明はよく知られていますが、地理的にそれらの中間の位置にある中央アジアについては、ほとんど知らないのが日本人の平均的な歴史認識ではないでしょうか。

中央アジアのイラン高原に現れたアーリア人は、史上初の騎馬民族でした。
最初の騎馬民族・キンメリア人は半ば神話的な存在で、続いて登場するのが黄金の美術品で名高いスキタイ人です。定住しない騎馬民族は、文字による記録を残さなかったので、彼らの栄枯盛衰の歴史をたどるのは、なかなか困難です。
定住したアーリア人による国家は、ペルシア帝国が有名です。

現在のイランは、大統領選挙の結果をめぐって混乱が続いています。実はイランとは「アーリア人の国」の意味なのです。
ペルシア帝国の復興を掲げたパフラヴィー王朝が、1935年に正式な国号としたのですが、1979年のイスラーム革命で王朝は倒れました。

著者・青木健氏は、ゾロアスター教の研究者です。
異国的な響きに惹かれて、彼の前著『ゾロアスター教』を読んでみようと思ったのですが、より普遍性の高そうなタイトルの本書が出たので、こちらを手に取ったわけです。
しかし、本書の主題である騎馬民族の興亡を把握するのは難しく、私の理解が及ぶのはペルシア帝国程度です。
素人には敷居が高過ぎる内容でした(笑)

(7月5日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
草原の覇者
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2009年06月14日

巨大古墳の主は誰?

世界最大級の墓である、大仙古墳(大阪府堺市)と誉田山古墳(大阪府羽曳野市)。前者は第16代仁徳天皇、後者は第15代応神天皇の御陵であるとされています。
宮内庁は天皇陵の学術調査を制限しているため、正確な被葬者は判りません。



応神=ヤマトタケルは朝鮮人だった
林順治 著

う〜ん、いかにもトンデモ度の高そうなタイトル!
しかし版元は、偽史本や陰謀本の得意な徳間書店ではなく、人文系書籍の名門・河出書房新社。勇気を出して読んでみましょう(笑)
林順治氏は出版社役員を務めた著述家で、本書の論旨は古代史研究家・石渡信一郎氏の説に依拠しています。

支那の歴史書に登場する倭の五王(賛・珍・済・興・武)は、記紀のどの天皇に相当するのか、いくつかの説があります。本書は石上神宮七支刀、隅田八幡宮人物画像鏡、稲荷山古墳鉄剣などの金石文を解読し、名前を刻まれた人物の正体を推理します。
その答えは…
・応神天皇=百済王子・昆支、倭王武、ヤマトタケル
・継体天皇=百済王子・昆支の弟、余紀

応神天皇とその五世孫とされる継体天皇は、ともに百済の王子であり、実は兄弟だったというのです。そして誉田山古墳はそのまま応神天皇陵ですが、伝・仁徳天皇陵とされる大仙古墳は継体天皇陵だとします。
そうなると、真の継体天皇陵説が有力な今城塚古墳の主は誰なのでしょうか。その疑問には答えていません。
さらに石渡氏は、次のような説も唱えています。
・欽明天皇=蘇我稲目、ワカタケル
・用命天皇=蘇我馬子

蘇我蝦夷・入鹿親子も天皇であり、聖徳太子や推古天皇は、蘇我氏の業績をカモフラージュするための架空の存在だといいます。
欽明天皇がワカタケルなら、通説がワカタケルとする雄略天皇も架空の人物です。また卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳は、崇神天皇陵だと主張しています。

日本と百済は友好関係にあり、大和朝廷は百済を軍事的に支援していました。
本書は、応神天皇と継体天皇が百済王家から人質として来日し、ヤマト王朝に婿入りしたのだといいます。朝鮮半島から襲来した騎馬民族が、武力で日本列島を征服したという話ではありませんので、愛国者の方も安心してお読みください(笑)

それにしてもこの本、架空の人物(天皇)が多過ぎでは…

(5月20日読了)
ラベル:古墳
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2009年05月06日

邪馬台国へ至る道

卑弥呼とは誰で、邪馬台国はどこにあったのか…論争は遥か昔から続いています。
日本書紀の記述(神功皇后)にはじまって、北畠親房新井白石本居宣長といった歴史上の知識人から、現代の歴史学者・考古学者・作家に至るまで、まさに百花繚乱の邪馬台国論争。このたびは交通史からのアプローチです。



邪馬台国魏使が歩いた道

丸山雍成 著

近世交通史の大家・丸山雍成氏は、魏使が倭を訪れたのは真夏であり、日昇の方向が春分・秋分よりも45度ずれているとします。したがって本書は、魏志倭人伝における東南は東、東は東北、南は東南として論旨を展開します。
丸山氏は日本の歴代政権が、外国使をストレートに国都へ招き入れることはしなかったと主張します。これが古代以来の日本の高等政策であり、ぺリーの軍艦が直接江戸湾に入ったことを契機に、江戸幕府は間もなく倒壊しました。
邪馬台国の場合も、魏使を直接陸路で国都へ向かわせずに、迂回させたと考えられます。その間に邪馬台国側の使者は、最短距離で魏使の来訪を卑弥呼に伝えることが出来ます。

伊都国を出た魏の使者が向かったとするのは、島原湾・有明海です。丸山氏は、これまで重視されなかった九州中央部にも、畿内や北九州に質・量ともに遜色のない弥生時代の遺跡があることを力説します。
これって、昨年映画化された宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』と同じでは…思いましたが、これで終わりではありません。ここから上陸して、邪馬台国の王都へと向かうのです。丸山氏が比定する邪馬台国の王都の位置については、実際に本書をお読みください。
本書は交通史学者の著作ですが、当時の航海技術や造船技術からの視点はありませんでした。邪馬台国論争の歴史を踏まえたうえで、考古学の発掘成果による考証を加えた、極めてオーソドックスな成り立ちの本です。

現在、邪馬台国畿内説が優勢に感じられるのは、畿内説には「卑弥呼の墓=箸墓」「王都=纒向遺跡」という、九州説にはない解り易くシンボリックな存在があるからではないでしょうか?
九州説の場合、吉野ヶ里遺跡はともかく、甘木・朝倉といってもピンと来る人はほとんどいないでしょうね(九州説にも「卑弥呼の墓=宇佐神宮」を掲げる論者がいます)。

(5月4日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
鏡よ鏡…
邪馬台国は、ここにある。
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2009年04月27日

日本史法廷、判決は…

まもなく裁判員制度が始まります。
4月21日、和歌山毒物カレー事件の最高裁判決(死刑)が下りました。数々の状況証拠が挙げられましたが、被告人の犯行動機は依然として不明のまま…裁判員が裁くには、非常に荷が重い事件です。
日本の歴史上にも、未だ謎に包まれた未解明事件があります。



古代史から解く伴大納言絵巻の謎
倉西裕子 著

貞観8年(866年)、平安京大内裏の応天門が炎上しました。
右大臣・藤原良相と大納言・伴善男は、左大臣・源信が放火したとして告発。信の邸宅を兵が包囲します。これを知った太政大臣・藤原良房は、時の清和天皇に奏上し、信は赦免されました。火災から半年後、今度は一転して伴善男が応天門放火犯として捕縛され、彼は流刑に処されます。いわゆる応天門の変です。
応天門の変を題材に、平安時代末期に描かれた伴大納言絵詞は、炎の表現や画面構成が見事で、国宝に指定されています。

応天門の名は、古代の有力豪族・大伴氏に由来するといいます。
大伴氏の祖は、天孫降臨に従った天忍日命(アメノオシヒノミコト)とされ、雄略天皇の時代に入部靱負(天皇の親衛隊)の任を賜り、朝廷の正門の開閉を担いました。以来、宮城の正門は大伴門⇒応天門と呼ばれます。
その後は、継体天皇を擁立した大伴金村、壬申の乱で武功のあった大伴吹負らを輩出しますが、奈良時代には数々の政変に連座して勢力が衰退しました。
平安時代に入ると、淳和天皇の諱(大伴親王)を避けて伴氏と改称しています。

父が配流の身だった伴善男の宮廷人生は、かなり低い地位からのスタートでした。しかし博覧強記で弁舌巧みな善男は次第に頭角を現し、ついには大納言にまで昇進します。大伴氏としては、久しぶりの高位復帰です。
伴善男は才能豊かだが、狡猾で風流さに欠ける人物と評され、得意の弁舌で同僚を失脚させたこともあります。不仲だった源信を放火犯に仕立て、陥れようとしたのでしょうか?
藤原氏もまた、皇親の源氏と朝廷の高位を争っており、さらに良房・良相の兄弟間でも権力を争っていました。応天門の変を処理した藤原良房は、伴氏および紀氏の勢力を朝廷から一掃し、臣下として初めて摂政の位に就きます。藤原氏摂関体制のスタートです。すると事件は、良房の仕組んだ陰謀だったのでしょうか?
日本史法廷の裁判員のみなさん、あなたの判定は…

倉西裕子氏は、大伴氏・源氏・藤原氏の出自に着目し、当時の外交問題まで絡めて、応天門の変に隠された真相を推理します。さらに伴大納言絵詞には、絵巻が描かれた平安時代末期の政局までが反映しているといいます。
本書の指摘には、正直「そこまで因果関係があるのか?」と思う点もありますが、現代の私たちが思いもよらないことでも、当時(平安時代)の人々にとっては共通認識だったのかもしれません。

(4月26日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
秘仏封印
女帝・かぐや姫
裁判員になりたいですか?
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2009年04月19日

草原の覇者

前回交遊した『アマテラスの誕生』に、騎馬遊牧民の話題が出ていたので、この本を。
気になったテーマを見つけたら気軽に手に取ることが出来る、山川出版社「世界史リブレット」からの一冊です(同社には「日本史リブレット」もございます)。



遊牧国家の誕生
林俊雄 著

騎馬遊牧民の一般的なイメージは、文明の破壊者、野蛮な殺戮者だったりします。
しかし彼らは合理的な社会制度を営み、ペルシアや秦・漢などの大帝国と互角に渡り合える強大な軍事力を備えていました。
本書はスキタイ匈奴を中心に、ユーラシア大陸の草原地帯を駆け抜けた、遊牧民国家の実態に迫ります。

文字の記録を残さなかった騎馬遊牧民の姿を、的確に今に伝えているのはヘロドトス司馬遷です。
ヘロドトスが『歴史』で描くスキタイと、司馬遷が『史記』で記した匈奴は、驚くほど良く似ています。ともに農耕を行わない生粋の遊牧民であり、家畜とともに移動し、戦況が不利になるとあっさり退却します。

騎馬遊牧民は、戦闘的なだけではありません。豊かな文化も今日に遺しました。
スキタイは大規模な古墳を築き、まばゆいばかりの黄金の装飾品が出土しています。ワシとライオンが合わさったグリフィンや、猛獣が草食動物を襲うシーンは、スキタイならではのモチーフです。

大陸を縦横無尽に駆け抜けた、遊牧国家から読み解く歴史に新鮮さを感じるのは、島国・日本に生まれ育ったからでしょうか。

(4月9日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
ニッポンのルーツを求めて
石塔は語る
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