2009年04月12日

アマテラスとタカミムスヒ

4月10日、天皇皇后両陛下はご成婚50年を迎えられました。
両陛下の弥栄なることを祈念いたします。
さて、天皇陛下は天照大神(以下、アマテラス)のご子孫でいらっしゃいますが、アマテラスはもともと皇祖神ではなかったとするのが、こちらの本でございます。



アマテラスの誕生
溝口睦子 著

初期ヤマト王権が皇祖神として掲げたのは、高皇産霊(タカミムスヒ)でした。
日本書紀において、皇孫ニニギノミコトに天孫降臨を命じたのは、アマテラスではなくタカミムスヒです。古事記もまた、皇祖神としてアマテラスとタカミムスヒの名を併記しています。

王が天の神の子孫と称する天孫降臨神話のルーツは、北方ユーラシアの遊牧騎馬民族にあるとされます。
ヤマト王権が成立した4〜5世紀の東アジアは、遊牧民族が大量移動した激動の時代でした。フン族の侵入に端を発したヨーロッパの民族大移動とリンクしているとの説もあります。大陸の動乱は日本列島に波及し、ヤマト王権の成立にも影響があったと考えられます。本書では特に、高句麗との軍事的対立を挙げています。
天孫降臨神話の輸入は、多神教的な豪族連合社会だった日本列島を統一するための、強力なイデオロギーとなったことでしょう。

北方騎馬民族色の濃いタカミムスヒに対して、アマテラスは南方的・土着的な神様です。天岩戸などの神話に描かれたアマテラスは、絶対的な権力をもった至高神ではありません。
アマテラスが皇祖神となるのは、天武天皇の時代以降です。天武天皇はなぜ、タカミムスヒではなくアマテラスを選んだのか。本書ではさまざまな推理がなされます。

古代の豪族には、蘇我氏に代表される「臣」と呼ばれるグループと、物部氏に代表される「連」と呼ばれるグループがあります。
「臣・君・国造」の豪族の名は地名に由来し、「連・伴造」は朝廷に仕える職能集団です。前者は土着的な神を祀り、後者は北方的な外来神(ムスヒの神)を祀りました。
アマテラスとタカミムスヒをめぐる考察を通して、古代日本の二元構造が浮かび上がってきます。

(3月29日読了)

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2009年03月20日

女帝の密かな陰謀

古代史最大の争乱、壬申の乱。その発端には有名なエピソードがあります。
天智天皇は晩年、弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を呼んで後事を託そうとしましたが、大海人皇子はこれを固辞して吉野に隠遁しました。
実は、わが子・大友皇子(のちの弘文天皇、ただし即位には異議もあり)に皇位を譲ろうと考えていた天智天皇が、弟が皇位に野心を示したら暗殺しようと仕組んだ「陰謀」であった…



持統女帝と皇位継承

しかし本書の著者・倉本一宏氏は、天智天皇の陰謀を明確に否定します。大友皇子は生母の身分が低く、もとから皇位継承の候補者ではなかったとのこと。
倉本氏は、天智天皇にとって弟であり娘婿でもある大海人皇子が、皇位を嗣ぐことに何の不都合もなく、むしろ大本命だったと考えています。天武天皇の皇后は、天智天皇の娘・鵜野讚良皇女(のちの持統天皇)です。

では、壬申の乱の目的は一体なんだったのでしょうか?
倉本氏は、愛息・草壁皇子の皇位継承を確実にするための、鵜野讚良皇女による「陰謀」なのだといいます。戦乱によって大友皇子の一族と、草壁皇子の異母弟である大津皇子を、一緒に葬り去ろうとしたというのです。
壬申の乱で大津皇子は無事でしたが、天武天皇の崩御後、謀反のかどで処刑されます。なお大津皇子の母は、鵜野讚良皇女の姉・大田皇女。姉が早世したことで、鵜野讚良皇女は天武天皇の皇后となりました。

当時の皇位継承は、おおむね30歳以上の皇族の同世代内で行われ、同世代内に候補者がいなくなってから、若い世代へと下りていったようです。最初から親から子へと、垂直に受け継がれた訳ではありません。
激しい権力闘争を目の当たりにして育った、持統天皇。そこから彼女の冷徹な政治哲学が生まれたのでしょう。

本書は持統天皇を中心に、継体天皇の時代から乙巳の変(大化の改新)を経て奈良時代へと至る、皇位継承のメカニズムを分析しています。
「国母」として権勢を振るい、皇統を確立した女帝・持統天皇。やはり皇祖神・天照大神のモデルなのでしょうか?

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2009年01月26日

平安朝をプロデュース

「弘法も筆の誤り」といえば、どんな名人にも失敗はあることのたとえ。
弘法大師こと空海(774‐835)は、書の名人として知られています。
空海は日本密教の創始者であり、儒教・道教・仏教を比較して論じた『三教指帰』を著した思想家です。さらには讃岐国の灌漑用溜め池「満濃池」を修復するなど、各地で治水事業を行ったとも伝えられています。
空海はまるで、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチです。



空海の企て 山折哲雄

平安朝のマルチクリエーター・空海の人となりを明らかにするために、山折哲雄氏がその先駆者として挙げるのが道鏡です。
道鏡は皇位簒奪を目論んだとされる、歴史上最も悪名の高い人物のひとり。現代においても人々の尊敬を集めてやまない空海と、ダーティイメージ極まりない道鏡。二人の共通点とは…それは天皇の看病僧だったことです。
称徳天皇の病気平癒を祈って、女帝の寵愛を受けた道鏡。空海もまた、時の嵯峨天皇の看病僧という職務を生かして、国家の中枢に「密教コード」を注入することに成功したのだと言います。

空海以前と以後で、王朝社会はどう変わったのか?
本書は単なる空海の人物伝にとどまらず、奈良時代から平安時代に至る国家システムの変遷を論じています。
その過程で、現在の象徴天皇制や皇位継承の問題にまで切り込んでおり、空海よりも「山折哲雄の企て」がとても刺激的な一冊です。
WEBマガジンへの連載がもとになっているので、ひとつひとつの章は短めで、専門的でありながら読みやすい本だと思います。

晩年の空海は禅定に入り、そのままの姿で入滅したとされます。
高野山奥の院では、今日も空海への食事と衣服の給仕が続けられています。

(1月26日読了)
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2008年12月23日

古代エジプトの叡智

古代エジプトは、多くの人をロマンへと誘います。
未だ全貌が解明されていないピラミッド、ピラミッドよりも先に建造されたというスフィンクス、ツタンカーメン王の墓が発見された王家の谷…

古代エジプトの信仰の中心は太陽神「ラー」ですが、他にも多くの神様が存在する多神教でした。



「太陽の哲学」を求めて 吉村作治 梅原猛

タイトルと著者で、おおよその内容は想像できます(笑)
哲学者・梅原猛氏が、古代エジプトと日本の太陽信仰を持ち上げて、戦争と環境破壊をもたらした一神教文明を批判する…と。

ありきたりと言ってしまえばそうなのですが、私自身「アニミズムと科学の融合」を標榜していますので、梅原氏と思想的に共鳴できる部分があるのは確かです。
森(杜)を聖域とすることで森林を保護してきた神道に、私は好意を抱いています。また、生物の形態を模倣したバイオミミクリーは、自然のメカニズムに則った、効率的な科学技術のあり方だと思います。

さて、本題に戻りましょう。
世界的なエジプト考古学者・吉村作治氏が、梅原氏をギザの大ピラミッドやルクソールの神殿へと案内します。
吉村氏がエジプト文明の特徴と、キリスト教や古代ギリシャ哲学との意外な関係を披露し、それをもとに梅原氏が自らの思想を語るという対談形式の本です。
世界最初の一神教とされるアクエンアテン王(アメンヘテプ4世)のアテン信仰と後世の一神教との違い、イシス神話がマリア信仰に与えた影響など、興味深い内容が語られます。

長らく王の墓だと考えられてきたピラミッドですが、ピラミッドからは人骨や副葬品は発見されておらず、王の墓ではないとするのが吉村氏の主張です。
クフ王の大ピラミッドの「王の間」には、石棺のような箱がありますが、蓋はありません。ここで梅原氏の推理が炸裂。王の間とは、石棺に前王の亡骸を入れて、新しい王が前王の亡骸とともに寝ることで、前王の魂を受け継ぐ儀式が行われた場所ではないかと。これなら王の墓ではないピラミッドに石棺があることも、石棺に蓋がないことも説明できます。
日本の皇室の大嘗祭にヒントを得たという梅原氏、さすがです。

(12月23日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
アニミズム革命
太陽の道
キリスト・コード
自然界の匠たち


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2008年11月16日

カッパは製鉄民だった?

NHK教育テレビ『高校講座・化学』で、こんな実験をしていました。
銅と青銅(銅と錫の合金)と鉄、3種類の金属で鍬を作ります。これらで土を耕したところ、銅と青銅の鍬はすぐに曲がってしまいましたが、鉄の鍬はずっと耕し続けることができました。
鉄の登場は、人類の文明を飛躍的に発展させました。
日本の歴史においても、鉄は古代国家の成立に大きく影響していることでしょう。



古代製鉄物語 浅井壮一郎 著

現代のような高温の製鉄炉や、高度な鉱山技術がなかった時代に、製鉄はどのように行われていたのでしょうか。
『古代製鉄物語』は、鉄鉱石や砂鉄が利用される以前、古代の製鉄は水辺で採れる鉄(湖沼鉄)が原料だったとする説を展開しています。
地中の鉄分が人型に固まった、天然記念物の高師小僧は、湿地帯の植物の根元に鉄が吸着して出来たものです。
日本列島は古来、豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)と称されてきました。
葦が生い茂る湿地帯は、豊富な水酸化鉄が得られたというのです。
浅井氏は、神武天皇の東征ルートを、鉄を産出する湖沼地を求めた旅であったと考えています。

水辺で鉄の採集に従事していたのが、河童と呼ばれる人々でした。
河童のことをヒョウスベ(兵主部)ともいいます。ヒョウスベの語源となった兵主神は、支那の武神・製鉄神です。
穴師坐兵主神社(奈良県桜井市)の摂社として相撲神社があり、野見宿禰を祀っています。野見宿禰は土師氏の祖です。高温技術を持つ土師氏は、製鉄にも関わりがあったと浅井氏は考えます。そういえば、河童は相撲が得意でしたね。
古代製鉄の原料が湖沼鉄であるならば、河童=製鉄民説は信憑性を帯びてきます。

本書の版元である彩流社は、在野の歴史家の著作を数多く出しているようです。
浅井壮一郎氏は民間企業に勤務していましたが、不慣れな仕事を転々として定年を迎えました。そんな空っぽな自分を埋めるべく、早稲田大学に入学して歴史を学んでいます。
しかし、本論とほとんど関係のない伊勢神宮のユダヤ紋(出典はサイエンスエンターテイナー・飛鳥昭雄氏の著書)について触れているのは、どういう意図なんでしょう?
こういう余計な文章をはさむと、やはりトンデモ本ではないかと疑念を持っちゃうんですよね…

(11月16日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
カッパなにさま?カッパさま!
高田崇史氏の『QED 河童伝説』でも、河童は製鉄民だとする説を展開しています。
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2008年10月20日

教科書は変わる

髪を振り乱し馬に跨った勇猛な足利尊氏像。有名なこの絵のモデルは、近年では尊氏の執事であった高師直だとする説が有力です。
国宝で肖像画の傑作と名高い源頼朝像にも、尊氏の弟・足利直義ではないかとの新説が出されています。
大きく変わりつつある歴史の常識。高校の日本史の参考書が大幅改訂されたことも話題となりました(池田信夫blog 変わる日本史の常識)。

私たちが学んだ日本史で最も大きな見直しが迫られているのは、645年の大化の改新でしょう。
天皇をないがしろにして専横の限りを尽くした逆臣・蘇我入鹿を、中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが暗殺し、律令国家の基礎を築いたとされる出来事です。
現在では蘇我入鹿暗殺事件を乙巳の変、翌年からの政治改革を大化の改新と呼ぶようになっています。



「大化改新」隠された真相 谷口雅一 著

奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡は、蘇我入鹿の邸宅跡だと考えられています。
甘樫丘の入鹿邸と蘇我氏の氏寺・飛鳥寺そして蘇我馬子の邸宅は、天皇の宮殿を取り囲むように防衛する要塞だった…最新の発掘成果をもとに大化の改新を捉え直す番組が、NHKスペシャルで放映されました。本書はその書籍化であり、著者は番組のディレクターです。

大化の改新は本当にあったのか、異論は古くから出されていました。
改新の詔には地方行政単位として「郡」という語が出てきます。しかし「郡」が用いられたのは後世の大宝律令以降であり、当時の表記は「評」でした。
日本書紀は漢字で書かれていますが、漢文の原音に忠実な部分と、明らかに原音を知らない者が書いた部分とがあります(森博達氏の説)。
原音と異なる表記の部分は、後世の加筆・潤色による疑いがあり、劇的な入鹿暗殺シーンがまさにそうなのです。
(長槍を構えて待機していた中大兄皇子が、なぜか入鹿に剣で斬りつけています)

「韓人、鞍作臣(入鹿)を殺しつ」(『日本書紀』古人大兄皇子の弁)
韓人とは、韓すなわち百済を支持する人物・中大兄皇子を指すというのが本書の解釈です。
百済は古くから日本の友好国であり、中大兄皇子は滅亡した百済の王子・豊璋を日本に匿い、百済再興を支援するために白村江で唐・新羅連合軍と戦います。
(中大兄皇子が、そこまで百済に肩入れする理由はなに?)
7世紀の大陸には隋・唐という強大な統一王朝が誕生し、朝鮮半島にも圧力を及ぼしていました。緊迫する大陸情勢を探るために蘇我氏政権が送ったのが遣隋使・遣唐使であり、要塞のような飛鳥の都は隋・唐の侵略に備えて築かれたと考えられます。
全方位外交を目指す開明派の蘇我入鹿と、百済との同盟を重視する保守派の中大兄皇子。クーデターの背景には外交政策の違いがあったようです。
(白村江で日本・百済連合軍は大敗。「大化の改新」とは「大過の反動」だった?)

本書の結末では、歴史教育において大化の改新が重要視されてきた理由を推理しています。

(10月20日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
黒幕は誰だ?
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2008年09月29日

神の島は宝島

21世紀の今日になっても、人が立ち入ることを禁じられた「神の島」。
そこでは数千年前以上から祭祀が執り行われ、人々の祈りがいまも息づいています。



宗像大社・古代祭祀の原風景 正木晃 著

玄界灘の荒波に浮かぶ、福岡県沖ノ島
全島が宗像大社の神域であり、島への立ち入りは厳しく制限され、上陸する際には海中で禊を行わなければなりません。しかも女人禁制です。
宗像大社は沖津宮・中津宮・辺津宮の三社から成り、それぞれ田心姫・湍津姫・市杵島姫という女神を祀っています(宗像三女神)。三社のうち、沖ノ島にあるのが沖津宮です。
海洋豪族・宗像氏は、航海の安全を祈願するとともに、海上交易を支配していました。天武天皇の妃を輩出した宗像(胸形君)徳善の陵墓と考えられている宮地嶽古墳は、石室の規模、副葬品の豪華さともに天皇陵クラスです。

沖ノ島は宝の島でもあります。
鏡・刀剣・金細工など、国宝なんと8万点。質・量ともに、畿内政権の巨大古墳の副葬品を凌駕します。出土品のなかには遥かペルシアに由来するガラス製品も含まれており、「海の正倉院」と呼ばれる由縁です。
これほどの豪奢な品々が盗掘に遭うことなく今日まで遺されてきたのは、沖ノ島が神の島として畏怖されてきた証に他なりません。

著者の正木晃氏は歴史学者でも考古学者でも神道研究者でもなく、密教の研究者というのが本書の面白いところ。作家・夢枕獏氏との対談も掲載されており、沖ノ島の魅力と神秘を、学問の壁を超えて縦横無尽に語りつくしています。

9月26日、宗像・沖ノ島と関連遺産群は、新たに世界遺産の国内候補に登録されました。
縄文時代からの祭祀の痕跡が、タイムカプセルのように今も残る沖ノ島。貴重な遺跡と亜熱帯植物の原生林が護られてきたのは、人の立ち入りが禁じられてきたからこそ。
世界遺産になっても、絶対に観光地化して欲しくありません。

宗像大社公式ホームページ

(9月28日読了)
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2008年09月15日

隠された「ニッポン」

私たちのすむこの国は、日本と書いてニッポン(またはニホン)と読みます。
古代支那の歴史書は、日本を倭国と呼んでいました。日本の国号が使われるようになったのは、7世紀だと考えられています。
日本にはヒノモトという読み方もあります。日本の二文字に隠された、日本国成立の歴史とは…今回は民俗学・地名学の大家、谷川健一氏の一冊です。



隠された物部王国「日本」 谷川健一 著

大和朝廷のはじまりを告げる、神武東征神話。イワレヒコ(神武天皇)が大和に入った時、そこは既に同じ天孫族であるニギハヤヒが支配していました。
ニギハヤヒは物部氏の祖神。つまり記紀は、神武天皇以前は物部氏が大和の支配者だったことを認めているのです。

谷川氏は、日本列島の統一に中国・朝鮮半島の動乱が影響していると指摘します。
2世紀の朝鮮半島の動乱が九州に「倭国大乱」をもたらし、百余国あったクニが三十余りの邪馬台国連合を形成し、女王・卑弥呼を共立しました。この時、九州を出て大和に進出した集団が物部氏だというのです。
そして高句麗・新羅・百済の三国が鼎立した4世紀初頭、これに呼応した邪馬台国連合の再編が神武東征神話に反映されていると谷川氏は考えます。

谷川氏は物部氏の勢力が四国にあったことに触れていますが、九州から大和へ入る過程でどのような土地と部族を併合していったのかは、具体的に書かれていません。神武東征についてもそうです(物部氏も神武天皇も、最初から船で一直線に大和を目指したのでしょうか?)。
もっとも、これは多くの日本史の本について言えることですが。

本書には白鳥伝説、大嘗祭の秘密、南島の信仰など、谷川民俗学のエッセンスが散りばめられています。
九州から東遷した物部氏と天皇家、そして大和の先住民たる蝦夷。日本の重層的な成り立ちを感じる一冊です。

(9月15日読了)


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2008年09月08日

太陽の道

古代の遺跡や聖地とされる場所は、ある一定の法則に従って配置されていると言われます。ヤマトの古墳や神社はほぼ一直線上に並んでおり、その線を延長すると、東は伊勢の斎宮から西は淡路島の伊勢までを結ぶ北緯34度32分のラインが浮かび上がるという…これを太陽の道と名付けたのが、古美術写真家の小川光三氏です。
小川氏の説を基にした番組は、1980年にNHK特集で放映されました。本書は30年に及ぶ氏の研究をまとめたものです。



ヤマト古代祭祀の謎 小川光三 著

日本の太陽信仰の成立には、稲作があるといいます。
稲は本来、日本には自生していない亜熱帯の植物です。稲を北限で栽培する日本では、稲作は春から秋の間の一定の期間内に行われなければなりません。
春分になると田起こしを始め、秋分になると収穫する。春分‐夏至‐秋分‐冬至という太陽の運行を知ることが、日本の太陽信仰のベースです。太陽の動きを読んで農業を指導する人を「日知り」と呼び、これが聖(ひじり)の語源です。

初期ヤマト王朝が生まれた三輪山。北麓には纏向(まきむく)遺跡と箸墓古墳があり、ここが邪馬台国だったとする説があります。
それに対し小川氏は、邪馬台国は二世紀から存在していたが、纏向が「ヤマト」と呼ばれるようになったのは三世紀後半であって、それまでこの地は「出雲」だったと言うのです。
大和盆地東部の都祁(つげ)には、大和地方で唯一「ヤマト」の地名を残す小山戸(おやまと)があり、小川氏はここが邪馬台国であったと考えています。弥生時代の大和盆地は底湿地で、多くの人が住めるようになったのは、古墳時代に入って灌漑農業が行われてからだそうです。それまでは都祁のような高原台地の方が、居住に適していました。
出雲神を祀る三輪山が本来の「出雲」であって、出雲大社のある「出雲国」は考古学的には後進地域であり、天孫族から三輪山麓を追われた出雲族が移り住んだ場所に過ぎない…邪馬台国も出雲国も実は大和盆地のなかの狭い地域にあったとなると、なんだかスケールの小さな話ですね。

前方後円墳は、古代支那の数学書『周髀算経』に基づいて設計されていると小川氏は言います。
古墳の周濠は灌漑用水に使われたとして、古墳が単なる権力者の墓ではなく、稲作とともに生まれた施設だとの指摘は興味深いものでした。

(9月7日読了)
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 19:24| Comment(8) | TrackBack(0) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月13日

法隆寺は中世建築?

世界最古の木造建築である、世界遺産・法隆寺。
外国人に法隆寺を「古代の建築」と紹介したら、「中世の寺院ではないのか」と聞きとがめられた…そう語るのは井上章一氏。『霊柩車の誕生』、『美人論』、『パンツが見える。』などのユニークな著作で知られています。

海外の研究者には、法隆寺は鎌倉時代に再建されたと思われているのでしょうか?
そうではありません。法隆寺の創建は607年、火災によって再建されたのは670年頃だとされています。聖徳太子の時代、7世紀は中世であるというのが西洋史の常識なのです。



日本に古代はあったのか 井上章一 著

日本史では鎌倉幕府の成立を以って中世とし、江戸時代を近世と呼ぶのがならわしです。西洋史では西ローマ帝国が滅亡した476年以降を中世、ルネサンス以降を近世とするのが一般的です。中国史には漢までが古代、唐までが中世、宋からを近世とする見方があります。
「古代」日本と交流のあった隋・唐は中世国家である…そうなると日本の歴史は、世界の歴史と千年近くもズレている(遅れている?)ことになるのでしょうか。

そうではなく、平城京・平安京が「中世」の唐の都城を模して築かれたのであれば、奈良・平安時代もまた「中世」と呼ぶべきではないかということです。
中世を封建制度(すなわち土地恩給に基づく主従関係)の時代と定義すれば、荘園を支配していた平安貴族も封建領主と呼びうる存在です。蘇我氏や物部氏が領地を支配しながら朝廷に参画していた飛鳥時代もまた、中世的な時代だったのではないでしょうか。天皇が土地と人民を支配する律令制度は、その間の一時的な国家形態に過ぎないと。
そう考えると日本史の中世は、世界史の中世と一致します。

日本の中世の始まりを、世界史にあわせて邪馬台国の時代から古墳時代だとすると、日本にはローマ帝国や秦・漢帝国に相当する古代国家がありません。つまり日本に「古代」はなかったとするのが、井上氏の主張なのです。
鎌倉時代から中世が始まったとする説が根強い背景には、関東に武家政権が生まれたことを特別視する東京優位史観、さらには東京大学と京都大学の学閥争いがあることを指摘しています(ちなみに井上氏は、京都市生まれの京大卒)。
日本史をグローバルな視点から捉えることで、今までとは違った歴史観が生まれてくる面白さがあります。

本書は角川選書の一冊。選書には新書よりもお堅いイメージがありますが、井上氏の軽妙な語り口は300ページを飽きさせずに読ませてくれます。

(8月13日読了)
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 23:48| Comment(0) | TrackBack(1) | 歴史・民俗交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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