2010年05月23日

ネット時代の神話

バブル崩壊後の1990年代は「失われた10年」と呼ばれ、さらには2000年代も含めて「失われた20年」という人もいます。
21世紀に入って早10年。インターネットが日常生活から切り離せなくなった現在、文学をはじめとする文化批評はどうあるべきなのか。「ゼロ年代批評最後の大物新人」(by東浩紀)という大層なフレーズが踊る、福嶋亮大によるネットワーク時代の文化論。



神話が考える

神話という言葉は「安全神話の崩壊」という具合に、なんらかのイデオロギーと結びついて使われます。しかし本書でいう神話とは、単純に情報処理の方程式のことです。
それでは「神話」という言葉を使う必要があるのか…そう思いながら読み始めたのですが、マルクス主義だとか経済成長だとかの「大きな物語」が失われた現在、サブカルチャーが神話の役割を果たしていると考えることは出来るでしょう。

正直言って、読み物として面白くはありませんでした。抽象的な文化論って、どうしても批評のための批評という感じがしてしまうので。それに私は、アニメやゲームのことも分かりません。したがいまして、本書の正当な評価は出来かねますので、ご了承ください。
著者のブログ『仮想算術の世界』では、鹿児島県阿久根市長の「障害者差別発言」のような具体的な問題も採り上げていて、面白いです。

サブカルチャーの世界に疎い者にとって、アニメ『∀ガンダム』やゲーム『東方project』といった個別の作品の批評は新鮮でした。
著者の専門が中国近代文学ということで、中華人民共和国のラノベ事情(あまり作者が公に顔を出さない日本に対し、作者と読者が近い)に触れているのも興味深いです。

福嶋亮大は「リベラルな民主主義」の他に政治的バリエーションはないと言い切っていますが、これには大いに疑問あり。

(5月17日読了)★★★


posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月18日

KY消費

本日、久しぶりにPCを起動。Windows Updateを更新している間に読みました。
景気が低迷するなか、欲望を喪失した草食系の若者が話題となる昨今。若者は本当に消費しなくなったのか…
「下流社会」「ファスト風土」等の造語で知られる三浦展と、ロストジェネレーション(就職氷河期)世代の原田曜平が、現役大学生の男女を交えて語ります。



情報病

携帯電話やインターネットが普及した現代。「団塊ジュニア」「ロスジェネ」よりもさらに下の世代の若者には、空気を読むコミュニケーションが広がっています。
例えば、海外旅行にはお金がいるので友達に負担がかかる。予定を組むにも、みんなの都合を考えるとなかなか決められない。かといって一部のメンバーだけでは寂しいし、一人で海外へ行っても自慢話にしかならない。だからみんなで近場へ行こうとなる。
景気が悪くてお金に余裕がないのも確かでしょうが、みんなの空気を読む「友達KY消費」が消費全体を縮小させているようなのです。

「あれが好き」「これが好き」と議論するよりも、「あれっていいよね」「だよね」と同調するのが現代若者のコミュニケーションの基本。
みんなが持っているから持つのであって、人が持たない商品や人が知らない知識で差別化することは好まない。だからモノにまつわる文化もまた、衰退してゆく。あとがきで三浦展は「若者よ、もっと孤独になれ」と訴えています。
「空気を読む」という同調圧力に支配される若者たち。自由や個性を尊重する教育環境で育ったはずなのに、実はとっても不自由な世代なんですね。

本書に登場する大学生は幅広いネットワークがあり、たった二人へのインタビューであるが今の若者の全体像が見える(原田曜平のまえがき)というのは、いくらなんでも言い過ぎでは。
もしかしたら「空気を読んだ」受け答えかもしれないのに(笑)

(1月18日読了)★★★★
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 17:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月25日

底抜けニッポン(後編)

安全保障とは、なにも軍事に限ったことではありません。資源の安全保障、食糧の安全保障、技術の安全保障、文化の安全保障、どれも極めて重要です。
宮台真司氏は、国土の回復による生活世界の再構築を提唱しています。その鍵となるのが農業です。



日本の難点
宮台真司 著

日本は水田を減反しながら、コメの高関税を維持するためにミニマムアクセス米を輸入するという、矛盾した愚策を続けています。欧米諸国は関税ではなく、農家への直接支払いで国内農業を保護する政策に転換しました。
ただし、農家への直接支払いは一律ではなく、農業で自立できる「農家らしい農家」が優先になります。これまで「農家らしくない農家」を保護してきた、農協・農林族議員・農林官僚による「農政トライアングル」を打破せねばなりません。
宮台氏は国土保全によるパトリ(郷土)の回復が、日本の「底抜け」をカバーすると考えているようです。

他にも宮台氏は、次のような提言を掲げています。
・「小さな政府」と「大きな社会」による本来の意味での新自由主義
(いわゆるネオリベは「小さな政府」と「小さな社会」の組み合わせ)
・「軽武装×対米依存」から「重武装×対米中立」への転換
・性表現は規制からゾーニングへ
これらは、ほんの一部です。興味のある方は、ぜひ本書をお読みください。
衆院選で大きく議席を減らした自民党は、二大政党の一翼として、国民に民主党とは異なる選択肢を示すことが求められますが、本書にはそのヒントがあると思います。

宮台氏のエリート主義(あるいは自慢話?)は、エリートならざる凡人には鼻に付くことも確かですが、彼の主張には同意できる部分が多いので、本書に対する私の評価は甘めかもしれません。

発足したばかりの鳩山政権は、閣僚人事で早くも躓いています。
首相会見の記者クラブ開放を阻止した平野博文官房長官は、重大な公約違反。
テレビ受けのいい原口一博総務大臣は、最大の既得権益集団・マスメディア寄り。
亀井静香金融担当大臣の起用に至っては、ブラックジョークとしか思えません。
底抜け国家・ニッポンの行く末は大丈夫でしょうか…

(9月22日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
底抜けニッポン(前編)
底抜けニッポン(中編)
おやめになったらどうするの?
日本のメディアは“杉林”
M2+K、沖縄を語る。
波状攻撃三連射
本当の“リベラリズム”
助教授の生き様
ラベル:農業
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 21:16| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月23日

底抜けニッポン(中編)

政権交代が実現し、9月16日に発足した鳩山内閣。
22日の国連気候変動首脳会合で、鳩山由紀夫総理大臣は、日本が温室効果ガスを2020年までに1990年比25%削減することを表明しました。
(京都議定書での削減目標は、2012年までに1990年比-6%)



日本の難点
宮台真司 著

京都議定書が基準とする1990年は、冷戦終結によって東西ヨーロッパが統合され、EUのエネルギー効率が著しく低下しています。EUは実質的な削減努力をすることなく、目標達成が可能です。
(京都議定書での削減目標は、2012年までに1990年比-8%)
鳩山総理がハトならぬ、世界のカモにされなければ良いのですが…

宮台真司氏は、環境問題とは政治問題であると断言します。
政治的なゲームでは「何が真実か」よりも「何が真実という話になっているか」の方がはるかに重要です。地球温暖化が科学的に正しいかどうかは、重要ではありません。
温暖化対策という新しい政治ゲームは、既に始まっており、当面は続きます。今さら「削減目標がアンフェアである」とか「温暖化の主因はCO2ではない」と叫んでも、負け犬の遠吠えに過ぎません。新しいゲームで先行者の利を得ることが賢明であると、宮台氏は説きます。

化石燃料の省エネでは世界に先行した日本ですが、風力・太陽光など、再生可能エネルギーの分野では遅れをとったことも事実です。京都議定書の削減目標は、再生可能エネルギーの利用度が高い国に有利となっています。
宮台氏が言うように、環境問題とは科学でも倫理でもなく、政治です。日本には新しいゲームのルールで、勝ち残れる戦略が求められます。
(個人的には、地球温暖化の科学的真偽にも、大いに興味がありますが)

ただ、日本がいくら削減しても、アメリカ・EU・中国・インド・ロシア等が「実質的な削減」をし、地球全体の温室効果ガスが減らなくては意味がありません。
結局、日本だけが排出権を買わされて終わり…とならなければ良いのですが。
(その頃には、地球が寒冷期サイクルに入っているかも?)
民主党が、高速道路無料化やガソリンの暫定税率廃止といった、温室効果ガス削減とは矛盾した政策も掲げているのも懸念材料です。ガソリン税を廃止する代わりに環境税を導入し、太陽光発電の補助金の財源にすると言うのなら分かりますが。

鳩山総理は「主要国の参加による意欲的な目標の合意」を削減の条件としていますから、日本が世界のカモにならないことを信じたい…

(つづく)
ラベル:地球温暖化
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 17:08| Comment(8) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月22日

底抜けニッポン(前編)

9.11テロや世界金融危機を経て混迷する現代社会を、宮台真司氏は「社会の底が抜けた」と表現します。
もともと社会には、社会はこうあるべきという「底」などないのですが、社会の底抜けをやり過ごすメカニズムが壊れ、誰もが社会の底抜けに気付いてしまったのが、ポストモダン社会です。



日本の難点
宮台真司 著

毎年秋になると、文藝春秋から『日本の論点』という分厚い本が出版されます。政治・経済から芸能・スポーツに至るまで、ひとつのテーマに意見の異なる論者が寄稿して、現代日本の抱える諸問題を網羅する体裁となっています。
本書は、宮台氏が一人で日本の諸問題を網羅した、ミヤダイ版『日本の論点』です。以下のような構成となっています。

第一章 コミュニケーション論・メディア論
第二章 若者論・教育論
第三章 幸福論
第四章 米国論
第五章 日本論

タイトル通り、日本が抱える諸問題に対して、宮台氏が自分なりの解答を提示しています。ただ、そういう読み方だけでは「この意見には賛成だけど、あの意見には反対だ」とか「ミヤダイって右翼か?」で終わってしまうでしょう。
むしろ私は日本の諸問題を通した、ミヤダイ流社会システム論の入門書として読みました。民主主義とは何かとか、共同体とは何かとか、そういうことを考えるきっかけになる本です。若者論やサブカルチャー分野の著作で知られる宮台氏ですが、本来の専攻は権力論なのです。

民主主義では選挙で代表を選び、モノゴトを国会の多数で決定します。
人は、誰かによって都合よく創られた疑いのある、非中立的な世界や社会を、受け入れられません。多数決には、特定の誰かが決めたという選択帰属をキャンセルする「奪人称化機能」があると、宮台氏は説きます。
近代社会において多数決は、世界を創造した超越神や、建国神話の英雄に代わるものです。選挙や多数決による政治的決定は、素朴に「みんなで決めたことは正しい」からではないのです。

意外にも宮台氏は、本書が新書デビュー作。
専門用語(ミヤダイ語?)が多く、新書にしては取っ付きにくい印象ですが、もともと新書とは教養書であって、お手軽ハウツー本ではないのですから、これでいいのでは。

(つづく)
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月24日

人間と動物の境界

人間とチンパンジーの遺伝子は、98%が共通だと言われています。
人間と類人猿が遺伝子的に近いばかりか、言語を解するボノボ、道具を使って餌を採るチンパンジー、イモを洗うニホンザルなどが報告されています。知性や文化の存在が、人間と他の動物を区別する明確な基準とは言い難くなってきました。

科学技術は、あらかじめ優秀な遺伝子を持ったデザイナー・ベビーや、クローン人間の誕生を可能にしようとしています。
あるいはコンピュータやロボットの進歩は、人間のような感情を持った機械を生み出すかもしれません。果たして「彼ら」を人間と呼ぶべきなのでしょうか。
もっと身近な例を挙げれば、中絶された胎児は人間なのかという問題もあります。

人間とそうでない者との境界は、どこにあるのでしょうか。



人間の境界はどこにあるのだろう? フェリペ・フェルナンデス=アルメスト 著

ふと目に入ったタイトルが気になった一冊。

人間(=主として西欧人)が、類人猿や異民族をどのように捉え、人間の境界をどう考えてきたのか、その歴史が綴られています。
本書の読みどころは、西欧人の「未開人」に対する認識でしょう。そこには差別的なものばかりではなく、文明に侵されていない純粋な存在としての憧れもあったようです。しかし西欧人中心の好奇な視線は否定できず、おぞましく残酷な事例は少なくありません。人種差別という世界史の暗黒面を、克明に描いています。

最終章では遺伝子工学とロボティクスによる人間の未来像について語られますが、著者独自の意見らしきものはなく、期待はずれでした。
結局、人間の境界を定義することは難しいというのが結論のようです。

訳者は、動物行動学の著訳書を数多く出している長谷川眞理子氏。
あとがきで長谷川氏は、著者の視点は人間と動物を論理で分けようとする西欧的なもので、日本人のような生き物への共感がないと指摘しています。
それはもっともなのですが、水子供養を日本人の生命観の表れとして挙げるのはどうかなと。水子供養の歴史って、結構浅いと思うのですが。

(9月23日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
赤ちゃん売ります
ヒトがモノになる…
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 00:03| Comment(10) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月24日

哲学の不可能性について

2008年6月8日、東京都秋葉原の歩行者天国で7人が犠牲となる通り魔事件が発生。
容疑者が派遣社員であり、携帯サイトの掲示板に職場での不満を書き込んでいたことから、事件の背景に格差社会があるとの論調も見られました。

市場原理主義を標榜する新自由主義(ネオリベラリズム)が格差社会を生み出し、新自由主義者たちは「負け組」が反体制的にならないよう街中に監視カメラを設置したり、愛国心教育で国民を洗脳しようとしている。悪いのは「ネオリベ化した世界」「ネオリベ的な日常」だ…
このような思わせぶりな言説が氾濫する風潮に、違和感を表明しているのが仲正昌樹氏です。
「ネオリベ」という言葉を民営化や規制緩和の是非という文脈で用いるのは良いのですが、社会学者や思想家が「ネオリベ化した世界」という場合、明らかに経済政策論議の範疇を逸脱しています。こうした真っ当な指摘をすると「現実が見えていない」「ネオリベに洗脳されている」と批判される、これではまるで宗教です。



〈宗教化〉する現代思想 仲正昌樹 著

実は哲学・思想そのものが、限りなく宗教と紙一重であることを論じたのが本書です。
では「哲学」と「宗教」はどう違うのでしょうか?
「宗教」は、人生や世界についての深遠な問いに究極の答えを示し、それを信ずることを要求します。一方の「哲学」は、人々が無条件に常識と信じていることに疑問を呈し、どこまでも問いの可能性を開くことを特徴とします。信じようとする「宗教」に対し、疑おうとするのが「哲学」です。
ところが、常に問いを発し続ける哲学もまた「真理」を求めています。真理への無限の探求が哲学であるのに、真理を固定化してしまっては宗教と変わりがありません。

プラトン以降の西欧哲学の歴史が、いかに疑似宗教化の危険と隣り合わせであったか、本書は延々と論じ続けます。
特にマルクス主義とキリスト教との類似性は、徹底的に示されています。資本主義社会が革命によって必然的に共産主義社会へ移行するとの主張は、キリスト教的な終末思想そのものです。
そういうわけで本書は真面目な西洋思想史の本であり、タイトルから想像されるように、日本の思想・言論界の現状がいかに宗教的であるかという本ではありません。
ちょっと残念…

(8月24日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
なんだったんだ?ゲンダイシソウ
パブロフの犬の遠吠え
本当の“リベラリズム”


続きを読む
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 21:01| Comment(11) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月21日

新しい年のはじめには自由について考えよう

この本を手に取るのは、初めてではありません。
当blogはこれまで、たびたび「リバタリアニズム」への賛同を表明してきました。
自由主義を意味する言葉に「リベラリズム」があります。しかし実際には、市場原理よりも公共サービスの充実や富の再分配を重視する立場が「リベラル」と呼ばれます。また、経済的自由を主張しながらも個人の自由への介入を認める立場は「保守主義(コンサヴァティヴ)」と呼ばれます。
あまりにも多義的になった「リベラリズム」に対し、個人的自由も経済的自由も尊重するのが「リバタリアニズム」の思想なのです。なお、あらゆる自由を純粋に追求するリバタリアニズムにとって、個人的自由と経済的自由とは区別されるものではありません。

リバタリアニズムの最も優れた入門書と評されているのが、森村進氏の『自由はどこまで可能か』(講談社現代新書)です。



本書では「リバタリアニズム」と「アナルコキャピタリズム」を明確に区別しています。
リバタリアニズムは個人の自由を最大限尊重しますが、国家の存在を否定するものではありません。対するアナルコキャピタリズムは「無政府資本主義」と訳されるように、国家の存在を明確に否定します。
本書は何らかの国家の役割を認めるリバタリアニズムを中心に紹介し、アナルコキャピタリズムに特有の主張にはそのつど断りを入れています。

森村氏は、最低限の社会保障は必要だとの立場です。
自分の責任ではない事情のために、自分の能力と財だけでは生きてゆけない人は存在します。日本国憲法第25条に謳われる「健康で文化的な最低限度の生活」の保障です。ただし公的な年金や雇用保険、健康保険を認めるものではありません。
全体的には穏健な論調なのですが、家族についての提言は非常に大胆です。森村氏が想定する「家族」には、結婚も離婚も遺産相続も高齢者の扶養義務も存在しません。しかしそれは現在の家族形態の否定ではなく、その法定への反対です。「友情や恋愛は法によって規定されていない」と。
本書の魅力は、森村氏のこの文章にあるんでしょうね。リバタリアンの消極的な政治観への批判に対しては、「政治家の公約は商人の契約ほど当てになるだろうか?」と切り返します。

森村氏はもちろん、リバタリアニズムが地球環境問題をも解決すると主張しますが、疑問があることも認めています。
ひとつは、未だ見ぬ将来世代への責任が不明確なこと。もうひとつは人間中心主義的すぎるリバタリアニズムが、自然保護と相容れるのかということです。
私は自分の自由と同様に、他者の自由(他者の生命)をも尊重するストイックさが、リバタリアンに求められる資格だと思っています。

独自のアナルコキャピタリズムを唱えていることで知られるのは、作家の笠井潔氏です。笠井氏の著作『国家民営化論』は、本書でもたびたび言及されています。
竹内靖雄氏の『経済倫理学のすすめ』には、社会の諸問題(感情)を市場(勘定)で解決する策が語られています。
昨年(2007年)出版された蔵研也氏の『リバタリアン宣言』は読み易い本ですが、リバタリアニズムを「勝ち組エリートの思想」だとする出版社の紹介文がイヤラシイ(笑)。橘玲氏が言うように、リバタリアニズムは弱肉強食を肯定するものではないのです。
なお私は、精神的には個人の自己決定を絶対視するリバタリアンですが、現実の社会制度としては富の再分配は必要だと考えます。

(1月2日再読)

【不純文學交遊録・過去記事】
「クニガキチント」しなくていい
ヒトがモノになる…
イケナイコトカイ
波状攻撃三連射
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 19:50| Comment(22) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月21日

裁判員になりたいですか?

平成21年5月までには始まることになっている裁判員制度
国民の健全な社会常識を裁判に生かす…一見もっともな主張ですが、私は裁判員制度に疑問と不安がいくつかあります。

まずは疑問。裁判官が不足していたり業務に支障が出ているわけでもないのに、なぜ素人の裁判員を参加させるのでしょうか。
裁判員は国民から抽選で無作為に選ばれるのですが、大抵の国民はなんらかの職業をもっています。裁判員になると数日から数週間は業務に従事できません。これは経済活動の自由を保証した憲法に違反していませんか?
そして不安。裁判員は被告人と顔を合わせます。個人情報は十分に保護されるといっても、かつて自分が有罪にした被告人から仕返しを受ける恐れはないのでしょうか。

ここに裁判員制度に対して強く疑問を呈する一冊があります。著者・西野喜一氏は、元判事の司法研究者です。



裁判員制度の正体

裁判員審理の対象となるのは、その犯罪に対する刑の最高が死刑、無期懲役、無期禁錮にあたる重大な刑事事件です。具体的には殺人、放火、強盗傷害、傷害致死などが挙げられます。比較的軽い刑事事件は対象となりません。また民事事件、行政事件、少年事件、家事事件は対象となりません。
重大な刑事事件は慎重な審理が要求されるうえ、資料が膨大で裁判員が拘束される日数が多くなります。先に述べたように、裁判員になる人の多くは他に仕事や家事を抱えているわけです。裁判員への負担軽減のために、慎重であるべき審議の時間が短縮され、粗雑化する恐れがあります。

西野氏は、そもそも裁判員制度が憲法違反ではないのかと主張します。
被告人は公平な裁判を受ける権利を有し、裁判は「良心に従って独立して職権を行う、憲法と法律のみに拘束される」裁判官によってなされます。公平かどうかわからない素人の裁判員に、被告人は人生を委ねることになるかもしれません。
プロの裁判官と素人の裁判員とでは、任務に対するモチベーションが違います。あなたは日当一万円で自分の仕事をそっちのけにして、他人の人生を大きく左右する判決を下す任務に堪えられますか。
死刑判決を下すことは、プロの裁判官であっても非常な重圧と思われます。西野氏が指摘するように、裁判員の参加には、死刑判決に対する裁判官の心理的負担を軽減する働きがあるのかもしれません。

本書には、あなたがもし抽選で裁判員候補者に選ばれた場合に、逃れる方法がいくつも提示してあります。
ただ、裁判員制度は現代の「赤紙」であり徴兵制への入口だとの主張には行き過ぎの感もあり、本書で指摘される問題点のいくつかは杞憂かもしれません

私は現行の裁判員制度に反対ですが、裁判に国民が参加することの意義自体は否定しません。
裁判に「国民の健全な社会常識」を反映させることが狙いであるなら、むしろ日常生活で起こりがちな軽度の刑事事件や少年犯罪にこそ裁判員制度を導入すべきではないでしょうか。

(10月15日読了)


管理人のひとりごと・・・
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 00:43| Comment(2) | TrackBack(1) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月17日

差別もある明るい社会

「中国人と名古屋人は似ている」と明治・大正期のキリスト教思想家、内村鑑三は指摘しました。
経済成長著しい中華人民共和国と、日本経済を牽引するトヨタ自動車のお膝元・名古屋。双方に何か共通項があるのかも…と思いたくなるのですが、よくよく考えてみれば中華人民共和国は当時まだ存在していません(あったのは)。内村鑑三は、日本の中国地方(山口)の人と名古屋人の気質について述べていたのです。
現在の中華人民共和国のことを、当時の人は支那と呼んでいたはずです。そのことを知らないと、とんでもない勘違いを犯すことになります。

いわゆる差別語狩りにより、支那は中華人民共和国に対する蔑称であるとして、ほとんど用いられなくなりました。
では世界共通語であるChinaを、日本人だけが使用できないのは差別ではないのでしょうか。「中華」なる語も、自国民以外を全て蛮族とみなす差別思想ではないでしょうか。



健全なる精神

こうした言葉をめぐる誤解をはじめとする、社会の歪み・病んだ良識に、健全なる精神で立ち向かっているのが呉智英氏です。
差別は正しい、差別と闘うのと同じくらい正しい。人類が目指すべきは「差別ある明るい社会」である。差別さえない暗黒社会にしてはならない、と。
人類が最初に発した言葉はなんなのか知る由もありあませんが、私は言葉の誕生そのものが差別の起源であると考えています。原始時代の人類が何かに命名したとき、それは他のもろもろの事象と「あるもの」とを差別したに他ならないからです。
身長、体重、顔かたち、生まれ、育ち、好き嫌い…人はそれぞれみな違います。時には差別と感じることがあっても、言論統制のない明るい社会に棲みたいですね。

呉氏の批評対象は言葉だけではないのですが、やはり面白いのは言葉をめぐる議論です。
たとえば「すべからく」という語は「是非とも、当然すべき」という意味なのですが、これを「全て」の高級な表現として誤用するケースが見受けられます。
同じように「捨象」という語は「抽象化」することなのに、これを「ポイ捨て」の文学的表現と勘違いしている人もいるようです。言葉の意味通り正しく読むと、逆に書いた人の意図とは全く違うトンデモ文章が生まれます。
過去の著作と重複する記述が数多くありますが、それだけ日本語をめぐる現状が変わっていないという証しなんでしょうね。

呉氏はアメリカ人留学生から「日本では飲食店従業員が犯罪に巻き込まれることが多くないか?」と質問を受けたそうです。
そういえば私も気になっていました。深夜営業のファミリーレストランや、一人で店番をしている喫茶店とか居酒屋って、強盗犯の格好のターゲットにされているのではないかと不安を抱きながら。
ところがこれはマスコミの自主規制表現だったんですね。淫色店飲食店と言い換えていたのです。

健全なる精神の持ち主であれば、大いに笑えます。

(9月17日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
FCって、なあに?
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 18:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。