2007年09月09日

ほどほどで行こう。

世のなかの至るところに「改革」の言葉が踊る昨今ですが、近頃は「格差社会」と言われるように、改革の負の側面もクローズアップされるようになりました。

競争原理の導入で経済が活性化したことと、格差が拡大して社会が不安定化したことは、同じ現象の異なる側面です。そもそも「活性化」と「安定化」は相反する言葉であって、同時に生じるはずはありません。
TT社会は便利さとともに、プライバシー漏洩のリスクをともないます。企業業績の回復とは、人員削減による労働時間の増大だったり非正規雇用者の増加だったりします。
あらゆる改革や変化は、正と負のトレードオフにあるのです。そして改革や変化の規模が大きく急激であるほど、成果に対するリバウンドは大きくなります。バブル崩壊後の経済停滞が、あまりにも長く続いたように。



本格保守宣言

進歩とは人類普遍の原理なのでしょうか?
そんな疑問を投げかけるのが、佐藤健志氏です。
人類の歴史は長い間、緩慢な変化を続けていました。その間、世界の人口もあまり増えてはいません。人口が急激に増えるのは産業革命以降です。世の中に急激な変化が起こらなければ、進歩や未来の概念も生まれません。
世界人口推移グラフ(国連人口基金)
産業革命以降の急速な科学やテクノロジーの進歩は、人類に「理性によって未来は必ず良くなる」という幻想をもたらします。そして理性の力で世のなかを一から作り直そうとしたのがフランス革命です。フランス革命とは「理性の祭典」であった一方で、粛清の嵐が吹き荒れる恐怖政治でもありました。
急進主義がなければ、保守という思想もまた有り得ません。右翼・左翼の語も、フランス革命時代の議会の席に由来します。

さて今日の日本で、憲法改正や郵政民営化などの改革路線を唱えるのは「保守」と呼ばれる陣営です。一方、憲法9条や戦後民主主義の護持を訴える勢力が「左翼」と呼ばれたりします。
保守とはありうべき状態を維持することであり、現状が正常な状態でない限り、現状維持が保守なのではありません。
ただし佐藤氏は、日本の保守勢力をホンモノの保守ではない「公式保守」と呼びます。公式保守とは、競争原理にもとづいた経済改革と愛国心を強調した国家主義の双方を、急進的に推し進める立場のことです。

急進主義の不可能性を説く「本格保守」は、憲法改正という抜本的な改革よりも、解釈改憲に徹します。ある条項の改正を認めることは、他の条項(例えば天皇)にまで影響を及ぼすからです。
憲法9条は国際紛争の解決手段としての武力保持を禁じたものであり、日本が自衛権を有するとの解釈は既に広く受け入れられています。日本は自衛のために核武装してもいいのです。環境権やプライバシー権といった新しい人権も、改憲(加憲なんていう政党もありますが…)によらずとも、幸福追求権を規定した憲法13条を柔軟に解釈することで対処できます。

佐藤氏の唱える本格保守とは、なにか弱腰で煮え切らない態度のように見えますが、本格保守には「時代が変わろうと守るべきものがある」とする強い信念と「あわてふためかなくとも変化に対応できる」強い自信とが必要だとされます。
本格保守のとるべき態度について、佐藤氏は自らのダイエット体験を例に出します。
ダイエットの初期に、めざましい効果が出ることがあります。しかし効果はそう長く続くものではありません。調子に乗って急激な減量を続けては、身体のバランスを崩してしまいます。現実社会の改革とて同じです。また、努力しても体重に変化が現れない時期は、身体が安定したバランスを保ったのであり、新たな改革の方法論を導入する機が熟したものと考えます。

保守とは政治的立場ではなく、理性を過信して急進主義に陥らないための、人類の智慧のようなものです。
本書を強引にまとめると、結局「本格保守」とは「ほどほどで行く」ことなのか…となってしまうのですが(笑)、フランス革命以降の保守思想史に関する記述は大変面白く読めました。

(9月7日読了)


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2007年08月19日

ヴァーチャルな「わたし」

日本中にあまねく普及した、パソコンに携帯電話。身の回りのあらゆるモノがネットワークでつながる、ユビキタス(=あらゆるところに)社会が現実になろうとしています。

情報化で社会はどう変わり、情報化した「ウェブ社会」を個人はどう生きてゆけばよいのでしょうか。1976年生まれの若手社会学者・鈴木謙介氏が、ウェブ社会における「わたし」のゆくえを探ります。



ウェブ社会の思想

あらゆるモノがネットワークでつながるユビキタス化と、ネットワークが生み出すヴァーチャルな世界。
ヴァーチャルという言葉は「虚構・ニセモノ」という感じで使われることが多いですが、ヴァーチャルには「仮想の、虚像の」という意味のほかに「実質上の、本質の」という意味もあります。匿名のネット空間で演じられる「わたし」こそが、文字通り「わたし」の本質なのかもしれません。

インターネットを通じて誰もが世界に向かって発言することが可能となり、またあらゆる主義主張からの情報に接することが可能となりました。
そうなると地位低下せざるを得ないのが、世論を醸成し社会の木鐸としての役割を担ってきたマスメディアです。
「ネット右翼」という言葉がありますが、鈴木氏らが大学生にアンケートをとった結果、実際に若者の多くが右翼的な言説を支持しているわけではありませんでした。しかし「マスコミの報道は偏っていて信用できない」という設問に対しては、圧倒的多数が同意しています。
マスコミの報道は(親左派的だったり、資本関係や政治的利害に縛られ)偏向している、ネットのなかにこそ真実がある、と考える人々が生まれてきているのです。

マスメディアの公的な役割が失効した今、インターネットを通じた民主主義はありうるのでしょうか。
インターネットは、自分が得たい情報を見たいときにだけ見ることが出来ます。あらゆる人のあらゆる情報を自動集約していけば、取るに足らない情報は淘汰される…こう考える立場を鈴木氏は「数学的民主主義」と呼びます。
一方で、反対意見へのリンクを義務化したり、システムのなかに民主主義を強制するアーキテクチャを組み込むべきだとする立場を「工学的民主主義」と呼んでいます。

本書の論点は多岐に渡り、私がここで簡単にまとめることは出来ませんが、本書によっていま「ウェブ社会」で起こっていることを俯瞰することが出来ると思います。
例えばセキュリティとプライバシーの関係、オンラインゲーム「セカンドライフ」とポイント経済、ブログ炎上、グーグルアマゾンが描く未来像…など、興味をひくテーマが誰でもひとつはあるはずです。

(8月16日読了)
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2007年05月14日

1971

東浩紀北田暁大、ともに1971年生まれの批評家と社会学者です。
同じ年に生まれ、同じように東京郊外で育ち、同じ大学に通った二人。『東京から考える』は、東京(および隣接する県)の都市の住んだ記憶や歩いた印象を挙げながら、格差について郊外について果てはナショナリズムに至るまで語る対談集です。



東京から考える

「郊外」にはふたつのタイプがあるようです。
ひとつは国道16号線的な郊外です。大型ショッピングセンターやファミリーレストラン、24時間営業のファストフード店・レンタルビデオ店等が立ち並ぶ、クルマなしでは生活できないような都市。本書ではたびたびジャスコ的・TSUTAYA的郊外と表現されます。
もうひとつは東氏が育った横浜市青葉台のような新興住宅地です。「○○台」とか「××が丘」とネーミングされることの多いこれらのニュータウンは、街路はこぎれいに整備され、盛り場のような雑踏や暗がりは徹底的に排除されています。下校する小学生が防犯用のICタグを持たされていたり、世田谷区の成城のように住宅に監視カメラが設置されている場合もあります。こちらは富裕層の理想の生活を体現した、テーマパークのような郊外です。日本版ゲイテッド・コミュニティともいえます。

ジャスコ的な日本全国の都市の画一化(三浦展氏のいうファスト風土化)が進むなか、それぞれの都市に個性を持たせようという声は根強くあります。
一方で人は都市に快適さと安全を求め、バリアフリーとセキュリティーを追求した人間工学的に正しい都市空間が、私たちの生活圏を覆いつくそうとしています。
東氏は、人間工学的に正しい都市を許容する立場です。一方の北田氏は、下北沢が再開発によって迷路のような街並みが失われようとしていることに触れ、ノスタルジーの権利を擁護します。
また格差について語る章では、ホリエモンに代表される億単位の資産を持つIT長者と、下流と呼ばれる若者のライフスタイルがなんら変わらない(どちらもジャスコ的・コンビニ的な消費スタイルと親和性が高い)との指摘が面白いですね。

地方在住者にとっては東京の地名をいろいろ挙げられても、その街の特色を思い浮かべることができないのですが、自分の住んでいる地域に重ね合わせて読んでみるのも一興です。

(5月13日読了)


管理人のひとりごと
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2007年05月01日

あかきゆめみし

4月23日、ロシア連邦の初代大統領ボリス・エリツィン氏が死去しました。
エリツィン氏は、1991年8月の守旧派によるクーデターを制圧し、ソビエト社会主義共和国連邦を崩壊に導きました。ここに1917年のロシア革命以来(ソ連の成立は1922年)、74年間続いた社会主義体制は幕を下ろしたのです。



共産主義が見た夢

「階級差のない平等な社会」という崇高な理想を掲げて誕生した共産主義
資本主義が発展していくと、資本家が手にする利潤も労働者に支払われる賃金も減少し、大企業は小企業を吸収して富はますます少数の者の手に集中する。資本主義である限り、恐慌と失業はなくならない。そして事態は否応なく革命へと向かう。革命によってブルジョワの所有する生産手段は国有化され、(プロレタリアート独裁を経て)階級なき社会が実現される…
しかしながら実際に革命が起こったのは、資本主義が成熟した社会ではなく、後発資本主義社会のロシアでした。そして階級なき社会を目指すはずだったのが、現れたのは共産党による強固な独裁国家だったのです。

共産主義とはなんだったのか。
本書には、世界最初の社会主義国家ソビエトの歴史を中心に、中国や中南米の社会主義国家の成立までが簡潔にまとめられています。とりわけ興味深いのがレーニンの生涯です。彼は、敵の敵と手を組んで権力の頂点へと登りつめた、非常に冷徹なマキャベリストとして描かれています。
「ある政治目標を実現するために、ある一定の残虐行為に訴えることがもし必要ならば、それは最も精力的な方法で、かつ可能な限り最短期間内に実行されなければならない。なぜなら大衆は、長引く残虐行為に耐えられないからだ」これはレーニンが引用したマキャベリの言葉です。レーニンの後継者スターリンが行った大粛清がよく批判されますが、その土壌はレーニンが用意したものでした。
共産主義の名のもとに、あまたの人類の命が失われました。

本書の注釈には「社会主義と共産主義との間に明確な区別をつけることはできない」と書かれていますが、やはり区別すべきです。実際に地球上に存在したのは社会主義国家であって、万民の完全な平等と国家の消滅を実現した共産主義社会(国家ではない!)は、いまだこの世には現れていません。
原始時代は共産主義社会だったのかもしれませんが、原始時代の人間に全く私的所有という概念がなく、階級もまた存在しなかったのかどうかは、定かではありません…
世界史上最も成功した社会主義国(=最も経済的平等を実現した国)は、やはりわが日本でしょうか。

(4月29日読了)


管理人のひとりごと
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2007年04月23日

格差スパイラル

格差、格差、格差…
格差社会の四文字をメディアで目にしない日はない、今日この頃。
重厚長大・大量生産・終身雇用等を基盤とした経済から、バブル崩壊を経て、IT化・グローバル化が進行しニューエコノミーと呼ばれる現在の経済社会。それはIT長者や株長者が注目を集める一方で、大多数の労働者は低賃金でマニュアル通りに単純作業をこなすことが求められる、必然的に格差を生み出す社会でもあります。
希望格差社会新平等社会などで格差社会を論じてきた山田昌弘氏は、この新しい社会に適応できるかできないかの能力の差はコミュニケーションであると言います。

格差社会スパイラル



山田 昌弘著 / 伊藤 守著


携帯電話やインターネットが普及した現代の日本。一見、コミュニケーションが豊かになったように見えます。しかしケータイの普及で、私たちは「人を信じる」心を失ったと、企業経営者のコーチングを手掛ける伊藤守氏は言います。
ケータイのメールでのみつながる「友情」では、メールがすぐに返ってこないと「捨てられた」と思ってしまいます。コミュニケーションは待てないと成り立ちません

子どものコミュニケーション能力が育まれるには、新聞や本を読んだり、展覧会やコンサートを鑑賞したり、親子の間に知的な会話がある家庭環境が求められます。
知的な家庭環境を営むには、親にそれなりの学力が必要でしょうし、それなりの費用もかかるでしょう。しかし実際には高学歴・高収入の男女同士、低学歴・低収入の男女同士が結婚することが多いそうです。また低収入・低年齢カップルの出来ちゃった婚は、経済的理由で離婚に至ることも多いといいます。そうなると、格差は再生産されるばかりです。

格差社会を生き抜くスキルが説かれていますが、少数のクリエイティブな仕事に就く人と、大多数の(非正規雇用であっても構わない)単純労働に従事する人という、二極化するこれからの社会の構図は変えようがないようです。

(4月23日読了)


管理人のひとりごと
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2007年04月02日

「クニガキチント」しなくていい

己の欲せざるところ人に施すことなかれ
他人に危害を加えない限り、個人の自由は最大限尊重されるべきである…これがリバタリアニズムの基本理念です。当blogでは、これまでリバタリアニズムの語をたびたび用いてきましたが、一般的にはまだ浸透していない言葉かもしれません。

自由主義というと、リベラリズムという言葉が思い浮かびます。
しかしながら、小さな政府を主張する人も、福祉政策重視を訴える人も、みな口をそろえてリベラリストを名乗るので「リベラリズムって、一体何なんだ?」と疑問をもたれる方が多いのではないでしょうか。だからというわけではないでしょうが、個人の自由を最大限尊重する思想はリバタリアニズムと呼ばれます。
ところがリバタリアニズムといっても、実は一筋縄ではいかないのです。
経済的利益追求を第一とした市場原理主義から、国家は国防・治安維持のみに専念せよとする古典的な夜警国家論、ありとあらゆる国家権力の存在を否定するアナーキズムなどがあります。個人の自由を絶対視するだけに、リバタリアンの数だけリバタリアニズムがあるのかもしれません。

蔵研也氏は、堂々と無政府主義者(アナルコ・キャピタリスト=無政府資本主義者)を名乗っています。
年金に健康保険、医療制度や建築の耐震基準…これらは「国がきちんと」やるべきことだと考えられています。しかし「クニガキチント」やることによって、私たちの精神的・経済的自由が大きく損なわれているのではないかというのが、本書の主張です。
自由の尊重は大いに結構。しかし税による富の再分配や健康保険がなかったら、格差が拡大するだけではないのか?…これに対して蔵氏は「クニガキチント」しなければ、安価な食料品や医薬品が流通し、電話料金も下がり、低所得者でも豊かな生活が営めるようになると言います(特に医療制度についての指摘は具体的)。
蔵氏は無政府主義者を名乗るだけあって、国家がなければ戦争もないとか、国籍から自由になることも書いています。しかし所得税を払わずに国々を行き来する永遠の旅行者=PT(Perpetual Travelers)のような生き方には、公共サービスのタダ乗りであるとして批判的なようです。

リバタリアニズムは自己決定を重視しますから、麻薬や自殺も一種の愚行権として認められます。しかしリバタリアンとは、決して経済競争イケイケドンドン主義者や享楽主義者ではなく、むしろストイックな道徳主義者なのだと私は思っています。
私はリバタリアニズムに大いに賛同しますが、現実の経済政策としては、富の再分配は必要だと考えます。リバタリアンだって、失業したり病気になったり投資に失敗したりしますし、経済的勝者は他人を踏み台にして利益を得ているわけですから。
また、現代社会はあまりにも巨大化・高度化・複雑化しました。地球上には60億以上の人間がひしめきあい、誰もが好き勝手に利用できるフロンティアは残されていません。好き勝手に利用すれば、そこにはコモンズの悲劇が待ち受けていることでしょう。

(4月1日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】 イケナイコトカイ?


管理人のひとりごと・・・
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2007年01月29日

赤ちゃん売ります

タレントの向井亜紀さんは、2003年に代理母出産によって双子のお子さんを授かりました。
代理母出産では、遺伝上の母親と産みの母親が異なります。向井さんは子宮頸がんを患って子宮全摘出手術を受けており、別の女性のおなかを“借りる”ことによって、自身と夫・高田延彦さんの子どもを授かることができたのです。

世の中には、不妊に悩む人々が少なからず存在します。
医療技術の進歩は、これまで子どもを授かることができなかった人々に希望をもたらしました。しかし、体外受精や代理母出産には高額な費用が要求されます。
ベビー・ビジネスとも呼べる新たな市場。その驚くべき実態を、教えてくれる本があります。


ベビー・ビジネス



デボラ・L.スパー著 / 椎野 淳訳



一般的な商品は、市場における需要と供給のバランスで適当な値段が決まります。リンゴの値段が高過ぎるなら、代わりにバナナを買うことができます。
しかしベビー・ビジネスの世界は、他の市場とは異なります。わが子を授かりたいと願う人々は、ありとあらゆる治療を繰り返し試み、可能な限りの費用を投じるのです。そう簡単に諦められるものではありません。かけがえのない、自分たちの遺伝子を受け継ぐ命のためになら。

ベビー・ビジネスは、不妊治療にとどまりません。
着床前遺伝子診断によって、胚が重度の遺伝病を持っているか否かを知ることができます。そうなると健康ではないと判断された胚は、破棄されてしまいます。
“胚の選択”は、いずれ優秀な遺伝子に操作された子ども“デザイナー・ベビー”の誕生を導くことになるでしょう。
バイオテクノロジーばかりでなく、国際的な養子縁組の斡旋もまた、金銭の介在するビジネスといえます。

あらゆるベビー・ビジネスを禁止してしまえば、闇市場が生まれたり、規制の強い国の住民は規制の緩い国へ渡って子どもを授かろうとするでしょう。
宝石や高級ブランド品のような“贅沢品”として生殖医療を位置づければ、濫用は避けられますが、恩恵を受けられるのは裕福な人ばかりです。その先にあるのは、ジーンリッチジーンプアの階級社会かもしれません。
生殖医療を、ドナー登録制の臓器移植のように扱うことも考えられます。商取引の要素は排除され“人体の売買”という懸念はなくなります。しかし全くの無償で代理母を志願したり精子や卵子を提供しようとする人は、多くはないでしょう。

…いろいろと考えさせてくれる一冊です。

(1月29日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
ヒトがモノになる
ラベル:生命倫理
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 20:51| Comment(8) | TrackBack(2) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月03日

ヒトがモノになる…

昨年(2006年)、愛媛県の宇和島徳洲会病院で行われた生体腎移植手術に金品の授受があったことが発覚、また同院では過去11件の病気腎移植手術が行われていたことも判明しました。
「モノ」として遣り取りされる、人間の臓器。いま「ヒトのモノ化」が進行しているとするのが、この本です。

モノ・サピエンス



岡本 裕一朗著


タイトルが目に留まって手にとった、この本。モノとは物質のモノであり、価値の単一化のモノ(モノクロ、モノレールなどのモノ)でもあります。モノ化とは物質化するとともに、商品としてお金によって価値が一元化されることを意味しています。

使い捨てられるブランド品
カラダをレンタルしてお金をもらう援助交際
非正規雇用(フリーター)
臓器売買や代理母出産…


世の中におけるモノ化の進行を、ポストモダン以降の消費社会の動向をたどりながら事例が紹介されます。なお本書におけるポストモダンとは、70〜80年代以降です。さらに90年代に共産主義諸国が崩壊したことで、ポストモダン(=歴史の終わり)が実現し、ヒトのモノ化に拍車がかかったとしています。

面白い指摘は、バイオテクノジーの受容をめぐって、従来の右派・左派の分裂が起こりうることです。
アメリカの共和党は市場原理主義であり、自由な経済活動は新たなテクノロジーを次々と生み出します。しかし支持層は道徳的には保守派であり、遺伝子操作や妊娠中絶に強い拒否感情を示しています。
一方の民主党は妊娠中絶や同性愛に寛容で、先端医療研究も支持します。かといってバイオテクノロジーの推進が新たな不平等を生むことは、リベラル派の望むところではありません。

本書では様々な「ヒトのモノ化」が考察されますが、その是非については論じられません。性急に道徳的判断を下す前に、現実にどのような事態が進行しているかを捉えようというスタンスです。全体としては「ヒトのモノ化」は個人の自由な欲望を原動力としており、モノ化の潮流に合ったモノ・サピエンスとしての尊厳を考えるべきとの立場のようです。

ただ、大きな欠陥がひとつ。
岡本氏は遺伝子操作によって「生まれの不平等」が克服され、優秀な遺伝子ばかりが満ちあふれた「均一な社会」が出現する「消費者優生学」の時代の到来を予想しています。しかし格差社会を論じながらも、経済的に遺伝子操作ができない階層がありうることに全く触れていません。

(1月2日読了)
ラベル:生命倫理
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 11:47| Comment(11) | TrackBack(0) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月23日

なんだったんだ?ゲンダイシソウ

現代思想という言葉は「いま学界や論壇で主流となっている哲学や主義・主張」という意味に解釈できます。
そんな辞書的な解釈とは別に、カギカッコ付きの「現代思想」というもの(ジャンル)が存在しました。
1980年代に一世を風靡した「現代思想」(あるいはニュー・アカデミズム)という名のムーヴメント。日本で現代思想と言えば、むしろこちらの方が一般的かもしれません。



あの「現代思想」(と呼ばれた一種のお祭り)って、一体なんだったのか?
講義してくださるのは、仲正昌樹さんです。
従来の哲学や思想は、人間や社会のありかたを真面目に考えて答えを出そうとしていましたが、近代社会とか人間の理性とかいうものを疑ってかかる「現代思想」には、確信犯的に解答を放棄しているような不真面目さ(?)があるといいます。
また、マスメディアへの頻繁な露出やサブカルチャーへの言及(こうした知の実践スタイルをニュー・アカデミズム、略してニューアカと呼ぶ)も、「現代思想」の学者たちの特徴です。

「現代思想」がブレイクする以前、思想界にはマルクス主義という巨大な勢力がありました。
産業革命以降の近代社会は、資本家が労働者を搾取して資本を増殖させているが、そのうちに搾取できる労働力は次第に減少します(貧困増大の法則)。資本主義は早晩行き詰まり、労働者による革命が起こるのは歴史の必然であると。
しかしながら、労働者が自ら生産した商品を消費することで、資本主義は行き詰まるどころか増殖し続け、マルクス主義では説明できない未曾有の大衆消費社会が到来したのです。

近代的な人間観に最初に揺さぶりをかけたのは、栗本慎一郎でした。栗本は、前近代社会の祝祭における破壊的な消費(ポトラッチ)のように、人間には過剰なモノを蕩尽する欲望があるとし、「生産的に労働する人間」像を否定します。
そして浅田彰は、近代的・資本主義的価値観を維持しようとするパラノ人間に対し、彼らと闘争するのではなく逃走するスキゾ・キッズを礼賛しました。浅田のスキゾ・キッズは、消費社会の発展とともに台頭したフリーのカタカナ職業人(コピーライターや○○コーディネーターなど)の生き方とも一致します。
また、文学においては田中康夫の『なんとなく、クリスタル』が、よりも記号が消費される新しい消費社会を描いています。

では隆盛を極めた「現代思想」が、なぜウケなくなったのでしょうか?
ひとつは、かつて礼賛された組織に縛られないスキゾな生き方が、バブル崩壊後の長期不況によって非常に困難になってきたこと。
もうひとつは、ソ連・東欧諸国の崩壊によるアメリカ一極支配の到来で、新自由主義的な資本主義に対する、マルクス主義的な「ベタな」資本主義批判が復活してきたことです(仲正は「ポストモダンの左旋回」と呼んでいます)。

この本、あとがきも面白いです。
生徒のボランティアを義務化しようとする連中に対し「日本の保守が毛沢東時代の中国を見習ってどうする!?」と突っ込んだり、「安倍総理の“美しい国”は危ない!」と叫ぶサヨクの元気さを気味悪がったりと、左右双方のオメデタイ人々を皮肉っています。

(12月23日読了)
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 21:56| Comment(13) | TrackBack(1) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月29日

格差社会の処方箋

格差社会と呼ばれるようになった、わが日本。
所得配分の不平等の度合いを示すジニ係数が上昇したと話題になり、最近では、働けども豊かになれないワーキング・プアなんて言葉も目にするようになりました。
所得格差が、より高収入を得る者が増えた上離れに起因するのなら問題はありません。しかし、貧困層の増加=底抜けが起きているなら、社会的影響は深刻です。
フリーター・ニートに代表される低収入の若者、経済苦を理由とする自殺者の増加、離別母子家庭の増大…底抜けは、確かに起きているのです。


新平等社会



山田 昌弘著



現代の格差問題が難しいのは、自由で民主的な社会において「望ましい」とされていることから格差が生じているからです。
経済活動、職業選択、家族形態の自由化。
IT化、グローバル化、知識産業化によってもたらされたニューエコノミー
ニューエコノミーにおいて、仕事は二極分化されます。創造力・想像力や知識・美的センスが要求される、少数の仕事。そしてIT化・オートメーション化で定型化された、大量の仕事。後者はマニュアル通りにできる仕事なので、高度な熟練の必要がなく、派遣労働に置き換えることが可能です。
では、格差はニューエコノミーの進展の帰結として放置しても良いのでしょうか?

山田は、格差問題は環境問題と同じだと言います。どちらも市場原理における外部不経済と捉えるのです。
経済活動を市場原理だけに任せれば、資源の枯渇や廃棄物の増加という外部不経済が生じ、持続可能な発展が阻害されます。同じように、市場原理が格差を生み出すのは仕方がないが、放置すれば社会不安が増大したり人々の働く意欲が低下したりして、社会の持続可能性が損なわれます。

本書には、数々の格差社会の処方箋が提示されています。
累進課税を過去の水準に戻すのも、そのひとつです。累進税率が高いと、高額所得者が海外に逃げ出すとの反論がありますが、ならば文部科学省の出番だと山田は言います。
高額所得者が儲かるのは、日本国内に優れた労働者とセンス良くお金を使う消費者がいるおかげ。そして日本に生まれて、良い教育を受けられたおかげです。
税金逃れのために海外へ移住するのは、日本社会に対するを恩を忘れています。高額所得者に、日本人としての教育が必要であると。
他にも、寄付を促進するための税制改正、年金マイレージ制度、地域で環境保護や福祉の仕事に従事する共生事業の創設などが提案されています。

後半では、日本社会に格差がどのように現れているのか(仕事格差・結婚格差・家族格差・教育格差)、具体的に示されています。

(10月29日読了)

【不純文學交遊録・過去記事】
希望があるなら、まだいい…
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 21:00| Comment(2) | TrackBack(3) | 社会・思想交遊会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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