2011年11月03日

KARAモノ礼賛

いつの時代も、異国の文物は見る者に憧憬を抱かせます。中世において、支那からの渡来品は「唐物」と呼ばれて珍重されました。名品とされた茶器は、時に一国一城に値したといいます。
足利義満や織田信長が愛した唐物の世界と交遊すべく、福井市の愛宕坂茶道美術館を訪れました。文字通り、坂に面して建っているためエントランスは3階。企画展示室は2階へと降ります。
唐物の茶器は、足利将軍家や大名が催した「書院の茶」で用いられました。豪華な「書院の茶」に対し、質素な道具で精神性を重視したのが、村田珠光に始まり千利休が完成させた「わび茶」です。とはいえ展示されている建盞天目茶碗は、決して煌びやかではありません。室町時代の書画も展示されており、ちょっとした文人気分に浸りました。複製とは書いてないので、おそらく全て本物でしょう。
1階は常設展示室。日本の茶道の歴史を、戦国時代随一の文化人大名だった朝倉氏を中心に解説しています。こちらの展示品は一乗谷朝倉氏遺跡から出土した茶器の複製で、あまり見応え無し。美術館には「尚庵」という名の茶室も併設されており、当日は外国人のための茶道講座が開かれていました。

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尚庵(愛宕坂茶道美術館)

福井市愛宕坂茶道美術館 企画展「唐物〜書院の茶〜」 9月28日〜12月11日


愛宕坂茶道美術館の向かいにある、橘曙覧記念文学館にも足を運びました。
橘曙覧は幕末の歌人。アメリカ合衆国第42代大統領ビル・クリントンが演説で引用した「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」など、日常の何気ない楽しみを詠んだ歌(独楽吟)で知られています。常設展示では「昭和のこどもたち」で知られる人形作家・石井美千子が、曙覧の素朴な生活ぶりを再現しています。
企画展示室では、銅版画家・山本容子の『himegimi@heian』が開催されていました。文学館でなぜ絵画?と思ったのですが、『不思議の国のアリス』にインスピレーションを得て『源氏物語』や『堤中納言物語』など日本の古典に登場する少女たち(なんとなく顔つきが本人に似ている)を描いた作品群で、立派に文学しているのでした。まるで『更級日記』の作者・菅原孝標の女のように、物語の世界に入りきって描いているのが伝わってきます。
平安時代のラノベである『源氏物語』(当時の純文学は漢文でしょう)の熱烈な愛好家だった菅原孝標の女は、いわば“世界最初のヲタク少女”ですね。

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橘曙覧が隠棲した黄金舎跡(橘曙覧記念文学館)

福井市橘曙覧記念文学館 秋季特別展「山本容子の姫君たち」 10月8日〜11月29日




【不純文學交遊録・過去記事】
歴史を動かした茶会


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2011年10月24日

一の宮めぐり

せっかく小浜市までやってきたので、福井県立若狭歴史民俗資料館の近くにある若狭国一の宮「若狭彦神社」と二の宮「若狭姫神社」にも行って参りました。

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若狭彦神社(上社)
祭神の若狭彦大神とは、山幸彦の名で知られる彦火火出見尊のこと。

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若狭姫神社(下社)
祭神の若狭姫大神は、海神の娘である豊玉姫命。山幸彦の妻となる。

若狭彦神社と若狭姫神社、参拝するのに順序はあるのか。資料館の職員の方に聞いてみました。
「特に決まっていないが、最近は一の宮めぐりが人気とかで、今はどちらも若狭一の宮を名乗っている。しかし本来は若狭彦神社が一の宮で、若狭姫神社が二の宮。やはり一の宮から行くべきでしょう」
というわけで若狭彦神社へ。帰路の無事を祈願しました。
ところが帰りに立て看板を見ると「@下社(若狭姫神社)→A上社(若狭彦神社)」の順序になっていました。
普通に考えれば、里にある下社が先、山にある上社が後ですよね。看板には「逆も可」と書いてあったので、まあ良しとしましょう(笑)

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帰りは、国道27号線沿いにある十善の森古墳(前方後円墳)にも立ち寄りました。

【不純文學交遊録・過去記事】
若狭国の古墳と交遊
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2011年10月23日

世界最古のウルシの木

1984年に鳥浜貝塚(福井県若狭町)から出土したウルシの木片が、約1万2600年前の縄文時代草創期のものと判明しました。
asahi.com 2011年10月7日
10月23日、福井県立若狭歴史民俗資料館で開催中の平成23年度特別展「縄文人の業と心−自然とともにある暮らし−」において、この世界最古のウルシの木が一日限りで公開されました(館内は撮影禁止のため写真はありません)。

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福井県立若狭歴史民俗資料館(福井県小浜市)
有栖川有栖氏の小説のタイトルにもあるように、若狭国の国府があった小浜は「海のある奈良」と呼ばれています。東大寺の正倉院を思わせるデザインの建物です。

四柳嘉章氏(石川県輪島漆芸美術館館長・漆器文化財研究所所長)による記念講演会「縄文時代の漆文化」を拝聴いたしました。
漆の赤は、血の色であり、火の色であり、そして太陽の色です。触れるとかぶれることから、漆には破邪(魔除け)の意味合いもあります。漆は実用品としてではなく、呪術的に用いられたものであり、漆を用いる文化には高い精神性が認められるのです。
漆黒という言葉があるように、漆といえば黒のイメージがありますが、黒い漆器が出土するのは日本では弥生時代の後期以降です。支那・漢代の影響と考えられます。

最も呪術性が高いのが、髪に挿す竪櫛です。櫛の上部には角のような二本の突起がありますが、これはシカの角をイメージしたものです。生え変わるシカの角は再生のシンボルであり、漆の赤とともに生命の神秘を表現します。長い縄文時代を通して、二本の突起をもった基本デザインは変わりません。今回の特別展のチラシには、ニホンジカの頭骨と漆塗櫛が上下に並んでいますが、こうした意味があったんですね。
天皇が皇女を斎王として伊勢に送り出す時は、髪に別れの櫛を挿します。角を着けることで、向こうの世界の住人となるのです。鬼の頭に角があるのも、巫者(シャーマン)が祭礼で頭に角を着けるのも、ルーツは同じだといいます。

ウルシは大陸から伝来したとされてきましたが、このたびの発見で日本列島に自生していた可能性が出てきました。ただ、縄文時代の漆製品の出土例は日本海側に多く、これはウルシが大陸から伝来した傍証であると考えられることから、結論はまだ先のようです。ウルシの木の遺伝子解析もされていますが、漆器をDNA鑑定して産地を特定することは不可能だそうです。
なお、漆器のことを英語で「Japan」といいますが、「Japan」には「まがい物」という意味もあるため、近年はそのまま「Urushi」と呼ぶようになっています。

講演が始まる前は、漆製品の技術的な話だけかと思っていましたが、漆文化を通して古代人の世界観を解き明かす内容で、大変に満足いたしました。
四柳館長は、石川県穴水町にある美麻奈比古神社の宮司でもあります。呪術性に溢れた漆製品の出土は、神道的な世界観が縄文時代にまで遡ることの物証かもしれないと、管理人は妄想を逞しくするのでした。

若狭歴史民俗資料館の常設展は、鳥浜貝塚を中心とした縄文時代、若狭国造・膳臣と古墳時代、御食国と呼ばれた律令時代、武田氏が守護となった中世、小浜藩主・酒井氏の近世と、若狭国の歴史を一望できます。また「民俗」の名が示すように、若狭地方各地に残る伝統行事に関する展示が豊富なのも特徴です。
現在、NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」が放映中であることから、浅井三姉妹の次女・初(初代小浜藩主・京極高次の正室)にまつわる品々も展示されています。

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2011年10月16日

越の国の大首長

現在の北陸地方と新潟県は「越の国」と呼ばれていました。福井県坂井市には北陸地方最大の前方後円墳である六呂瀬山1号墳(墳丘長約140m)があり、第26代継体天皇の生母・振姫(第11代垂仁天皇7世孫)を輩出した一族の大首長墓であるとの説があります。

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六呂瀬山古墳群(福井県坂井市)

長年にわたって福井県の遺跡発掘を主導してきた青木豊昭氏(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館元館長)の講演会が、10月16日に鯖江市まなべの館で開催されました。演題は「今北山古墳群と越の大首長」。現在進行中の今北山・磯部・弁財天古墳群(福井県鯖江市)の発掘成果とともに、越の国の古墳時代について熱弁を奮いました。
今北山古墳は墳丘長約78m、前方部が撥(ばち)型に広がった初期の前方後円墳です。有名な箸墓古墳(奈良県桜井市)と同じ形状であり、この地が早くから開けていたことを意味します。近々、市指定史跡から(県指定を飛び越えて)国指定史跡に昇格するとのこと。
発見された当初、今北山古墳は隣り合った円墳と方墳だと思われていました。若き日の青木さんが、ひとつの前方後円墳であることに気付いたのです。「先人の業績にケチを付けて、覆していくのが二番手の楽しみ(笑)」と語る青木さん。その後も次々と県内の考古学界を塗り替えていきました。
先述の六呂瀬山古墳群は、国道364号線の建設による崩壊の危機に直面しましたが、青木さんたちの尽力によって古墳の下にトンネルが掘られることになり、全ての古墳が保存されました。

会場には、青木さんの私物である三角縁神獣鏡と銅鐸が登場。真新しい光沢があるので一目で複製品だと判りましたが、それでも30万円はするそうです。講演で使う教材として購入したのだとか。
今回の講演は、さばえ遺跡発掘速報展(10月6日〜23日)の一環として行われました。冒頭で青木さんは、新聞の一面を飾るような新発見があったと宣言。詳しくはまだ明らかに出来ないのですが、弁財天古墳群周辺の壕の跡から弥生土器の破片が見つかり、倭国大乱との関連が想起される高地性環壕集落だった可能性があるそうです。
今北山古墳群・磯部古墳群・弁財天古墳群

【不純文學交遊録・過去記事】
またまた古墳と交遊
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2011年10月09日

地震はナマズのせいだと言ったのは誰?

3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震から7ヶ月。マグニチュード9.0という国内観測史上最大の規模と大津波による未曽有の災害は、平安時代の869年7月13日(貞観11年5月26日)に起こった巨大地震の再来であると考えられています。
このたびの大震災を教訓に、過去の地震における津波の記録が改めて見直されるようになりました。
私たちは地球の歴史から何を学ぶことができるのか。10月9日、福井県立恐竜博物館にて産業技術総合研究所招聘研究員・寒川旭氏(地震地質学・地震考古学)が「大地に刻まれた地震痕跡」と題して講演しました。
(管理人は年間パスポートを持っているので、1500円で何度でも入館できます)

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震災からの復興を願って博物館近くに現れた和紙恐竜。がんばろう日本!

貞観の大地震は、菅原道真らが編纂した正史『日本三代実録』に記されています。9世紀の日本列島は地震・火山の活動期でした。864年(貞観6年)には、富士山の有史以来最大規模の噴火も起こっています。貞観の大噴火による溶岩流で出来たのが、現在の青木ヶ原です。
戦国時代にも数々の大地震が記録されています。1586年の天正地震では、富山県の木舟城にいた前田秀継(前田利家の弟)が圧死、岐阜県の帰雲城では内ヶ嶋氏理が一族もろとも山崩れで滅亡しました。そのとき豊臣秀吉は滋賀県の坂本城で地震に遭い、一目散に大坂城へ逃げ帰ったといいます。
のちに秀吉は、伏見城を普請する際「なまつ(鯰)大事」と書状に記し、耐震補強の重要性を説いています。これが地震をナマズに見立てた最古の史料です。
しかし1596年の慶長伏見地震で、伏見城は脆くも倒壊。真の継体天皇陵である可能性が高い今城塚古墳も、墳丘が大きく崩壊しました。現在、宮内庁は太田茶臼山古墳を継体天皇陵に指定していますが、中世以前は今城塚古墳だとされていました。地震で崩壊した今城塚古墳は、天皇陵に相応しくないと考えられたのかもしれません。

東日本大震災では、千葉県浦安市をはじめ各地で液状化現象による被害が報告されました。液状化現象は人工の埋め立て地で起こるものとばかり思っていたのですが、全国の遺跡発掘現場からは過去の地震で発生した液状化現象による噴砂の痕跡が見つかっています。日本列島に安全な場所は無いのですね…
100〜150年周期で訪れる地震の活動期は、不思議と歴史の転換期に重なっています。次なる活動期と予想される21世紀の半ば、日本はどんな時代を迎えているのでしょうか。
寒川さんは少年時代に漫画家を目指していたそうで、講演でも見事な自作のスライドを披露してくれました。ちなみに漫画を描くときのペンネームは、本名を逆さにした旭川寒(あさひかわ・さむい)だそうです。


【余談】埼玉県の秩父地域は、周辺で大きな地震が起こっても揺れが小さいのだとか…
秩父地方の地震に対する優位性(PDF)株式会社リテラ

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2011年08月16日

森と芸術

実は美術館には、あまり行ったことがないんです。
一般的な絵画や彫刻には興味をそそられなくて。
しかし、久しぶりに行ってみたくなる展覧会が催されました。



福井県立美術館『森と芸術』PDF

8月15日、美術評論家・仏文学者の巌谷國士が監修する『森と芸術』を観てきました。
豊かな生命を育み、人類に恵みをもたらしてきた、森。人類が森を離れ、文明を築いてからも、森は様々なイマジネーションを呼び起こします。
美術と博物をクロスオーバーさせた展覧会が、私の好みに合うようです。

展示は、8つのゾーンから構成されています。
アダムとエヴァが生まれた、楽園としての森。
神々や妖精たちが暮らす、神話と伝説の森。
近代に入って風景そのものが絵画の主題となった、風景画のなかの森。
シンボルとして装飾的に扱われた、アールヌーヴォーと象徴の森。
神話の世界を人工的に再現した、庭園と「聖なる森」。
『赤ずきんちゃん』や『不思議の国のアリス』など、メルヘンと絵本の森。
現実の模倣でも抽象でもない超現実を描いた、シュルレアリスムの森。
そして岡本太郎やジブリのアニメに影響を与えた、日本列島の森。

展示されている作品は、超メジャー級の作家がズラリ。
デューラー、ゴーギャン、ルソーの絵画。
エミール・ガレ、ドーム兄弟の器。
マン・レイ、マグリットらシュルレアリスムの巨匠。
これは行って良かったと満足できる内容でした。

『森と芸術』は、東京都庭園美術館(4月16日−7月3日)を皮切りに、福井県立美術館(7月29日−8月28日)、札幌芸術の森美術館(9月3日−10月23日)の全国3ヶ所を巡回しています。
図録は平凡社から出版されており、一冊の書物としても読みごたえがあります。展覧会に行けなかった方は、こちらで幻想的な森の雰囲気を味わってください。
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2011年07月10日

恐竜は種類が多すぎる

映画『ジュラシック・パーク』のテクニカルアドバイザーであり、主人公アラン・グラントのモデルとなったアメリカの古生物学者ジャック・ホーナー博士(モンタナ州立大学付属ロッキー博物館)が来日しました。博士は、子育て恐竜として知られるマイアサウラ(良母トカゲの意)の記載者でもあります。
7月10日、福井県立恐竜博物館の特別展「新説恐竜の成長」で、ホーナー博士が「Dinosaur Shapeshifting −変身する恐竜たち−」と題して記念講演を行いました。

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このトリケラトプスは幼体?成体?(答えは特別展を見てね)

ホーナー博士の持論は「あまりにも恐竜の種類が多すぎる」です。博士は、これまで別々の種類として記載されてきた恐竜の化石が、成長段階の異なる同一種であることを明らかにしてきました。
同じ地層から発掘された、大きさが異なる良く似た恐竜の化石。骨の断面を調べてみると、小さい固体は構造がスポンジ状で、急速な成長の過程にあることが判りました。一方、大きい固体の骨は成長を終えていました。例えば、トリケラトプスとトロサウルスは別の種類だとされてきましたが、実はトロサウルスとはフリルの大きく成長したトリケラトプスであることが判明したのです。
こうして幾つかの恐竜は、図鑑から姿を消しました。博士は、現在知られている恐竜(約800〜1000種)のうち、3分の1は姿を消すだろうと述べています。

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サインに応じるホーナー博士

今回の特別展には、世界最大(1.5m)のティラノサウルスの頭骨や、さまざまな成長段階のトリケラトプスの頭骨など、モンタナ州立大学付属ロッキー博物館が所蔵する貴重な標本が展示されています。
ティラノサウルスは成長とともに歯が大きくなり、歯列の数は減っていきました。大きく丈夫な歯は骨を噛み砕くのに適しており、ホーナー博士はティラノサウルスの成体がスカベンジャー(屍肉食)だったとの説を唱えています。ティラノサウルスは幼体が獲物を追い立て、成体が待ち伏せして狩りをしていたとの説に対し、証拠がないとして博士は否定的です。
リアルなアニマトロニクス(恐竜ロボット)も特別展の目玉ですが、個人的にはロボットよりも実物化石を多く見たかったですね。トリケラトプスの死体(模型)は、かなりグロいので注意!
平成23年度 福井県立恐竜博物館特別展「新説恐竜の成長」
7月8日(金)〜10月10日(祝)
 福井県立恐竜博物館

最近、ティラノサウルスの幼体には羽毛があったとの説があるようです。
そこで私は、鳥類は羽毛恐竜がネオテニー(幼形成熟)で進化したのではないかとのトンデモ説を思いつきました(笑)。


ラベル:恐竜
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2011年03月07日

平成22年度発掘速報展

3月7日、福井市文化財保護センターの平成22年度発掘速報展を見てきました。
(平成23年2月26日〜3月20日)

今回の目玉らしき展示は、新聞で報道された古墳時代前期の金属加工遺物。
古墳前期の金属加工遺物出土 福井の高柳遺跡
個人的お目当ては、昨年7月の第25回福井県発掘調査報告会で紹介された南北朝時代の烏帽子の実物。保存処理を終えて展示されました。紙と絹で作られ、表面は漆塗りだそうです。
太平記でおなじみの新田義貞・脇屋義助兄弟が陣を構えた石丸城跡から出土しました。

速報展とは別に、弥生時代の土器の数々も展示されました。
弥生時代までの土器は装飾性豊かでローカル色が強く、古墳時代に入ると地域性が薄れてデザインが画一化するそうです。

この他、江戸時代から昭和にかけて使われていた民具を見ることができます。

【不純文学交遊界】
福井市文化財保護センター平成22年度発掘速報展
【不純文学交遊録・過去記事】
土の中の祈り
大陸をみつめた王たち
福井県発掘調査報告会


平成22年度発掘速報展
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2010年11月23日

土の中の祈り

11月15日、福井市文化財保護センターの平成22年度企画展「土の中の祈り」(10月30日〜11月21日)を見て参りましたので、ご報告。
福井市内で発掘された遺物から、祭祀にまつわるものを展示しています。

【高柳遺跡】
土偶(縄文時代晩期)
破砕鏡・弓・鍬(古墳時代前期)
人形(平安時代初頭)
墨書土器(平安時代前期)
素朴な造形が好ましい縄文時代の土偶と、患部を欠損させて病気の治癒を願った人形(ひとがた)が、全ての展示のなかで最もインパクトありました。

【河合寄安遺跡】
墨書土器・ミニチュア土器(古墳時代中期)
実用品ではなく、祭祀のために作ったミニチュア土器がユニーク。まるでままごとセットみたい。古墳時代中期の墨書土器は全国初で、福井県内では最古。

【伝田谷寺跡】
埋納銭(室町時代後期)
田谷寺は、現在の大安禅寺の前身となった寺。11万6千枚もの埋納銭の大部分は支那の北宋銭だが、国産の皇朝十二銭もあり。97枚をひと括りで100文として扱われた模様。中世の寺院は貸金業も営んでいたので、呪術的な意味合いではなく、単なる備蓄銭だったのかも。

【福井城跡】
舟形木製品(江戸時代初頭)
墨書カワラケ(江戸時代前期)
能「高砂」のカワラケ(江戸時代後期)
徳川親藩・松平氏の居城だった福井城。当時の武家の生活がわかります。

次の企画展は、平成22年度発掘速報展(平成23年2月26日〜3月20日)。

【不純文学交遊録・過去記事】
大陸をみつめた王たち
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2010年09月19日

織田信長ゆかりの劔神社へ

戦国大名・織田氏発祥の地である、福井県丹生郡越前町(旧織田町)の劔神社へ行って参りました。
越前国二ノ宮である劔神社は、織田信長が氏神として崇敬したことで知られています。国宝の梵鐘には「劔御子寺鐘 神護景雲四年(770年)九月十一日」の銘があり、奈良時代には既に神宮寺が存在したことになります。
記録に残る最初の神宮寺は霊亀元年(715年)、藤原武智麻呂の夢告により、越前国一ノ宮の氣比神宮に建立されました。劔御子寺も、氣比神宮寺に遜色ない歴史をもっているようです。

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劔神社

越前町織田文化歴史館では「神仏習合の源流をさぐる‐氣比神宮と劔神社‐」と題した特別展示を開催中(平成22年9月4日〜10月11日)。9月19日には「劔御子寺は日本最古の神宮寺か」と題して、青木豊昭氏(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館元館長)による記念講演会がありました。
織田は越前国敦賀郡伊部郷に属し、地名の由来は織り物の盛んなところ(田は水田ではなく、処の意)だそうです。この地の豪族である伊部氏の祖は、百済からの渡来人・乃理使主(『新撰姓氏録』)で、秦氏の一族だといいます。また、越前国には牛を殺して漢神(韓神)を祭ることを禁止する命令が出されており、奇しくも前回の交遊(『渡来の原郷』)にまつわる話が聴けました。
劔神社の祭神は氣比神宮と共通項が多く、氣比神宮が大中臣氏を神官にすると、対する劔神社は忌部氏を招き、両社は競うように社格を上げていきました。

青木さんのお話で、大変印象深かったことをひとつ。
各地の寺社の御本尊や御神体は、人目に触れることを嫌い、手付かずのまま放って置かれていることが多いそうです。そのため、落ち葉やネズミの糞に埋もれているのだとか。これでは宝物が盗難に遭っても分かりませんし、運良く盗品が見つかっても写真すら撮られたことがないのでは鑑定のしようがありません。
昔からの禁忌を守ることが、かえって文化財の危機を招いているのです。

【関連サイト】
越前二の宮 劔神社
posted by 【電脳呆人】不純総合研究所 at 22:01| Comment(8) | TrackBack(0) | 書を捨てて街へ出る会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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